今年もペンテコステに先立つ1週間の『キリスト者一致祈祷週』を覚えて、ブラジル全国各地で合同礼拝が行われた。私は、今年レシフェ/オリンダにおいて、メソジスト教会からの企画委員として、準備の段階からこれに参加し、多くの恵みを受けた。レシフェ/オリンダでは、27日、28日、29日の三日続きで礼拝をしたが、そのうち私が最も印象に残ったのは、最終日の礼拝で、ブラジル修道者連絡会(CRB)のアナ・ボクスルッケルが、三つのキャンペーンへのエキュメニカルな連帯を呼びかけたことであった。この三つのキャンペーンは、現在のブラジル社会の課題をよく表していると思うので、日本の方々にもその課題を共有していただくため、これらを紹介することにしたい。
(3つの提案をするベネディクト会修道会のボクスルッケル姉)
一つ目は、5月20日に起きた先住民シュクルー族酋長フランシスコ・アラウージョ暗殺事件の真相究明へのキャンペーンである。
ブラジルでは、1500年のポルトガル人侵入以来、500年の間に、先住民たちは、土地を奪われ、生活を壊され、土地闘争で何百万人もの人々が殺されてきた。先住民をめぐる問題が、究極的には土地問題に行き着くことは、本誌6月号で述べた通りである。
1988年に公布された、民政移管後初のブラジル憲法で、初めて明確に「先住民が伝統的に居住してきた土地についての本来の権利」が認められ、ブラジル先住民にとっては、新しい時代が開けてくるはずであった。彼らは「その土地の所有者ではないが、居住権、用益権をもつ」と、憲法により保証された。ところがその後の政府はいずれも、その条項を本気で施行しようとせず、かえって先住民と農場主(大土地所有者)の間の抗争を激化させてしまっている。
ペルナンブッコ州、レシフェから西へ212キロメートル入ったペスケイラのシュクルー族の歴史も、今日まで土地の防御と奪回のための闘いの連続であった。1992年に、一人の先住民リーダーが、ある農場主の土地をシュクルー族のために取り戻そうとしているという理由で、無残に暗殺された。その際、農場主の家から21人の先住民リーダーの名前が記されたブラックリストが発見され、その中には今回犠牲となった酋長フランシスコ・アラウージョの名前も記されていた。アラウージョ酋長は、シュクルー族本来の土地の境界設定の闘いのために、何度も暗殺の脅しを受けていることを関係当局に訴え、地方新聞も緊張が高まっていることを伝えてきたにもかかわらず、当局は何も手を打とうとはしなかった。ここ数ヶ月、脅しは最高潮に高まっており、ついに5月20日アラウージョ酋長は、姉妹の家から出てきたところを自動小銃で撃たれて殺された。ペスケイラ市警察および連邦警察はこの犯罪の徹底的な調査をしようとせず、真相究明を回避しようとしている。その背後に土地所有者の手が伸びているのは間違いなさそうである。この事件の真相究明と真の責任者(影の犯人)の処罰キャンペーンを呼びかけているのは、カトリックの先住民宣教協議会(CIMI)である。
二つ目のキャンペーンも土地がらみである。ブラジルではほんの一握りの大土地所有者が国土の大半を所有して潤い、政治、経済なども牛耳る一方、土地無し農民は常に極度の貧困にあえいでいる。特に私の住む北東部では、その格差は気が遠くなるほど大きい。これらの極端な偏りを少しでも是正するため、土地無し農民は、大土地所有者の未開発地を耕して収穫を得ることや、一定期間住み着いた土地はその人のものとして認められることなどが法律で認められている。しかしこの「未開発地」の所有をめぐって、常に政治的かけ引き、武力抗争が絶えない。大土地所有者側にはいつも有力な政治家がいるし、資金も十分にある。それらを持たない土地無し農民の側は、「土地無し農民運動」(MST)などを通して組織的に闘うことになる。
北東部パライバ州のある土地に入植していた250人の家族は、その土地をめぐってその名義人である農場主と裁判で抗争中である。農民たちは、最近農場主から強制退去させられたが、彼らは引き続き、その隣接地に住んで、豆やとうもろこしなどを作っていた。ところがある日農場主はそれをやめさせるために、土地に毒物を散布した。作物を守るためにあわてて耕作地に入った農民たちを、農場主は「不法侵入」として軍警に通報し、三人の農民は4月28日にその場で逮捕されてしまった。軍警が農場主寄りであるのは言うまでもなく、この三人は面会さえ禁じられている。彼らの即時釈放を訴えるキャンペーンをしているのは、カトリックの土地司牧委員会(CPT)である。(この原稿を執筆している6月中旬現在、二人は既に釈放されたが、一人は未だ拘束されたままである)。
三つ目はラテンアメリカの軍事指導者を育てている合衆国の「アメリカ学校」(SOA)の即時閉鎖を求めるキャンペーンである。アメリカ学校は、ラテンアメリカ各地の「政治的安定を促進する」ことを想定して、1946年パナマに作られた。この学校は、ラテンアメリカ各国の軍政時代、民衆を抑圧するために大きな役割を果たし、最近暴露された情報によると、拷問のテクニックまで教えていたと言う。アメリカ学校は、「襲撃学校」「暗殺学校」などとあだ名されるようになった。1984年、パナマ運河条約によりパナマを退去させられたアメリカ学校は、合衆国ジョージア州フォート・ベニングに移され、今日にいたっている。アメリカ学校は、この50年間に6万人以上のラテンアメリカ、カリブ地域の軍人を送り出しているが、ここで訓練を受けた455人のブラジル人のうち、少なくとも22人が、軍政時代に民主化運動家の拷問や暗殺に加わっていたことが明らかにされている。現在もアメリカ学校は、毎年900人から2000人のラテンアメリカの軍人を育てている。アメリカ学校廃止のキャンペーンは、合衆国に本拠を置くマリノール修道会によって呼びかけられ、合衆国大統領、ブラジル大統領宛ての手紙や、ビデオも用意されている。合衆国大統領宛ての手紙には次のように記されている。「今こそ合衆国はこの『教育』をやめるべきです。ラテンアメリカは、もはや暴力を、『合衆国製の暴力』を必要としていません。むしろ、そのお金をアメリカ各国間の平和と友情を促進するために使うべきです。我々も『アメリカ同胞』だと言うことを覚えてください。」
(29日の礼拝の司式をする筆者とブラジル修道者連絡会のソフィア)
(『福音と世界』8月号、1998年7月)