大地のリズムと歌
−ブラジル通信22(最終回)

懺悔と、寛容への召集の年

 ブラジル・メソジスト教団は、軍事政権時代のさなか、1968年に「神学大学閉鎖」という暗く重い事件を経験している。この事件は、これまで公に語られることはほとんどなかったが、1997年7月に行われた第16回ブラジル・メソジスト教団総会において、神学大学閉鎖以来30年を覚えて、1998年を<懺悔と、寛容への召集の年>とすることが採択された。これは、ブラジル・メソジスト教団にとっては、歴史を画する意味を持った出来事である。日本やアメリカにおいて、教会内外で「嵐」が吹き荒れていた時代、ブラジルでも軍事政権という更に厳しい状況の元、激しい「嵐」が起こっていたのである。ブラジルのメソジスト神学大学で何が起こり、30年後の現在、メソジスト教団はいかにそれに対応しようとしているかを知ることは、類似した経験をもつ日本の教会にとっても意味のあることであろうと思う。

 私の見る限り、ブラジル・メソジスト教団は、この1年間全教会あげてこの決議を有意義なものとすべく、さまざまな努力をしてきた。まず<懺悔と、寛容への召集の年>をアピールするポスターが全国の教会に配られ、監督会議の名によりこの問題についての会報が発行された。当のメソジスト神学大学では、機関紙『モザイコ』がこの問題の特集を組み、5月のウェスレー回心記念週間の公開セミナーでも、今年はこれがテーマとなった。8月には<悔い改めとゆるし>をテーマに、5年ぶりに全国牧師会が召集され、約800人のメソジスト教会牧師たちがリオデジャネイロに勢揃いした。教会学校レベルでは、青年科の今年度テキストが、この問題を現代の青年たちと分かち合うべく、綿密に取り上げている。教団の公的刊行物であるこのテキストは、教団の立場からわかりやすく歴史経過を記しているので、これに沿って簡単に事件を振り返ってみたい。


(<懺悔と、寛容への召集の年>アピールポスター)

 メソジスト教会は、1950〜60年代、社会変革に積極的に関わってきたが、その高まりは、保守的な教会リーダーたちの反動によって遮られることになる。「反体制的言動」は押えられ、教会内外で数多くの迫害や告発が行われた。それは軍事政権下において、投獄、拷問、そして死へと至った。1968年メソジスト神学大学は、神学教育、教会の新たなあり方への変革を追求していたが、この歩みも、保守的な牧師や信徒たちの反発を買い、「彼らはメソジストの伝統と習慣を冒している。神学教師や神学生について適切な措置を」という文書が監督や教団リーダーに宛てて次々と送られた。

 一方、同年4月、神学生たちは大学理事会に向けて、「権威の集中化、規約改正の遅滞」など、幾つかの疑義を提出し、回答を求めてストライキに入る。大学理事会は共通理解を欠いたまま、大学のあらゆる活動の一時休止と建造物の閉鎖を決定するが、大半の学生はこれを承認せず、大学内の建物から立ち去らなかった。理事会により設定された監督、教団幹部、教授、学生の対話により、ようやく「6月に授業を再開し、大学正常化計画を検討する」という合意に達したものの、この間、監督会議と教団幹部は査問委員会を設け、学生たちの素行を調査した。委員会の「学生たちが大学建造物をブラジル学生連合の政治集会のために用い、そこでたばこを吸い、アルコール飲料を飲んでいる」という報告を受けると、監督会議と教団幹部は、直ちに教授会の総解雇と大学の閉鎖を決定してしまった。

 学生たちは教会のさまざまな団体に状況を訴え続け、学生たちの運動への支持、神学大学閉鎖に対する反対は、教団青年部に始まり、高年齢層、各地の教会にも広がっていった。ただし同時に教団幹部の決定に対する強い支持も広がりを見せ、多くの各個教会は真っ二つに割れることになる。

 事態を収拾するため、監督会議は臨時教団総会を召集し、教団総会は、9月にサンパウロ州ピラシカーバ市にある別のメソジスト大学において神学部を「再開」すること、監督会議に両者の和解を押し進め、神学大学の再編を実現することを求めることを決定した。しかし結局、処罰された教授たち、放校された学生たちは呼び戻されることなく、自己弁護する機会もないまま、新しい理事会が選出されて、神学部は再開された。そして数年後、「新しい」神学部が元のサンパウロに移されることになるのである。

 今年、監督会議が発行した会報には、次のように記されている。

「軍事独裁政権の時代に、メソジスト教会が味わった苦痛の経験を思い起こす必要がある。多くのメソジストたち、とりわけ青年たちが、独裁主義を支持する人々の不寛容から来るさまざまな告発や迫害を通じて、思想、身体、教育、信仰経験において犠牲となり、1968年には、神学校閉鎖にまで至った。これらの経験は、民主的な共同生活と、寛容の日常的感覚を促進させなければならないことを教えている。私たちは、関係した人々が受けた大きな傷を修復することはできないことを承知しているが、その一人一人の記憶はあがなわれなければならない。教会は今もなお、さまざまな分野で、内では教会の、外では社会の専制的な力により、信仰の交わりから離れてしまった多くの人々を欠いたままである。
 この提案を意義あるものとするために、教団総会は、監督会議と共に以下の課題と取り組む実務委員会を承認した。(1)罪責を認め、悔い改めを表し、神と関係した人々へ赦しを請う宣言を作成すること。(2)不寛容により苦痛に満ちた生活を強いられた多くの人々の記憶があがなわれるように、その人々を探し出し、教団総会の決定を知ってもらい、赦しを請うこと。(3)懺悔と、和解の聖霊へ導くために礼拝や学びの機会を提供しつつ、諸教会 が過去の出来事を深く省みるように働きかける。」

 8月の全国牧師会では、当時学生であった牧師を探し出すのに苦労した。ブラジル・メソジスト教団でも、現在50歳前後の層の牧師が抜け落ちているのである。一人は、20年近く信徒として過ごした後、ようやく88年に牧師になる決心をしたと言う。

 <懺悔と、寛容への召集の年>の総括として、11月下旬に神学大学において再びセミナーが開かれ、罪責告白が宣言され、文献目録や犠牲となった人々のリストなどが作成される予定である。

 過去は清算されなければならない。私は、ブラジル・メソジスト教団が過去の過ちを歴史に葬り去ることなく、謙虚に懺悔し、次の世代に語り伝えつつ、あがないと和解の主を信じて、新たな委託に応えて進みゆこうとする姿にすがすがしさを覚えるのである。


(ブラジルメソジスト教団の全国牧師会。参加者約800名。)

(『福音と世界』12月号、1998年11月)

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