「ブラジルのキリスト教」
−宣教師としての経験から−(3)

(5)伝統的なプロテスタント教会

 最後に、三つ目。それではブラジル人の八割位を占めるカトリック教会と、どんどん増えているペンテコステ派教会の間にあって、伝統的なプロテスタント教会は何をしているのかということについてお話します。

 数からいえば、その二つのマンモス教会(ペンテコステ派の教会は一つでないのですけれども)の狭間でこじんまりしたのがプロテスタントの伝統的な教会です。地味な教会なのですけれども、大事な役割を担っていると思って見てまいりました。

 といいますのは、ブラジルにも日本のNCC(日本キリスト教協議会)に相当する、「ブラジル・キリスト教協議会」があります。ブラジルのNCCの場合、面白いことに、カトリックが正式にメンバーに入っています。ですから対話の相手としてカトリックと正式なチャンネルを持っております。因みに「ブラジル・キリスト教協議会」には、七つの加盟教会がありまして、ローマ・カトリック教会、シリア・オーソドックス教会、聖公会、メソジスト教会、合同長老教会(これは残念ながら長老教会の中の少数派です)改革派キリスト教会、ルーテル告白教会。この七つが正式な加盟教会です。そこが主催して毎年六月、ペンテコステの前の一週間に、キリスト者一致のための祈祷週をもっています。(日本では一月の終わりにもたれていますが、ブラジルでは一月は夏休みの真っ最中なので、ペンテコステのときにやります)そこで合同礼拝しながら、共に歩む実際的な活動をしております。

 そしてもう一方で、ペンテコステ派教会との違いはかなり大きいのですが、大きくても相対的な違いです。カトリックとは一緒にやっていても、あるはっきりとしたアイデンティティの違いがありますが、ペンテコステ派教会の場合にはどこからがペンテコステ派か、線が引けません。非常にペンテコステ派的な教会から、カトリックに近い信仰に至るまでいろいろなプロテスタント教会があります。ですからそういう意味でアイデンティティの共有ができるのですね。カトリックとペンテコステ派教会同士では一緒にできないものを、その間にあって、両方の大きな教会を橋渡しできる大事な役割を持っている。そしてそういうことを実際に担っているというふうに見てきました。

 ブラジル・キリスト教協議会に属するような伝統的なプロステタント教会ではカトリック教会が提出しているそういう問題提起、「教会は一体だれの味方をしているのか。社会変革についてどう思っているのか」ということについて、真剣に受け止めていますし、ペンテコステ派教会のカトリック批判も、ある意味では同じところに立っておりますので理解できるわけです。

 そういう伝統的なプロテスタント教会から生まれてきた新しい賛美歌を、一つ、聴いてみましょう。

 ヘナセール・ナ・エスペランサ。これは「希望のうちに蘇る」という意味ですが、この曲を聴いてみましょう。この曲のジャシイ・マラスキンという人は、聖公会の典礼学者であり、音楽家です。フラビオ・イラーラという人も聖公会の人です。シメイ・モンテーロというのはメソジストの人です。この三人の合作ですが、この曲は非常に楽しい、今日の三曲の中で一番ブラジルらしいと思われる歌じゃないかと思います。

 資料Bに歌詞の直訳を載せました。資料Cは歌うための言葉数を合わせた訳ですので、日本語版歌詞。これはできたら皆さんと後で歌いたいと思います。

 この賛美歌で、私が非常に好きなのは、社会のいろいろな問題を視野に入れていることです。しかもそれをあまりガチガチにならないで、楽しい雰囲気の中でやり、それを変革していこうという明るい希望に満ちたムードが現われています。

 一番の歌詞は「女も男も子どもも」と、女性から始まっているというあたりが、新しい感覚だなと思います。そしてその下の「メリーゴーランド」なんて言葉が賛美歌の中に出てくる。

 六番の「カーナバルの俳優や女優のように」という言葉が賛美歌に出てくるのも素敵だなと思います。

 二番をみますと、「貧しい人たちも食事をし、パンを分かち合いながら挨拶をする」。マリア、ジョアンナ、ジョゼというのは、ブラジルでよくある名前です。

 今日お聴きいただくのは、三番から五番までを省略しているのですが、三番に登場するのは、「インディオ」。ブラジルの先住民の課題は非常に大事な問題なのですが、その先住民の心についても歌っています。 

 四番は、人種差別。人種の問題も視野に入れております。
 五番は、お金持と貧乏人の階級差別。それがもうないということが歌われています。
 六番では、カーニバルのことが出てくる。
 七番では、聖霊がやってきて、この世界を変革するという歌詞です。

 ブラジルのプロテスタントの伝統的な教会は、こういう歌を生み出しているのだということを、分かち合いましょう。

 一九九五年にチリのコンセプシオンという町で、ラテンアメリカ教会協議会の第三回大会が行われたのですが、その大会のテーマは「生きた希望」というテーマで、この曲は、その大会のために作られた賛美歌です。その大会にはいろいろな素晴らしい賛美歌が、南米の各地の教会から寄せられまして、わたしはこの『大地のリズムと歌』の中に、その中から三曲ぐらい日本語に訳して紹介しております(「抵抗」、「喜びに生きるため」の二曲)。 「いきいきした希望」という大会のテーマでしたので、復活であるとか、希望であるとか、そういう内容を歌った賛美歌が集められました。

 テープがかからないようですので、日本語で歌ってみましょうか。( 「希望に満たされ」を歌う )話を続けます。

(6)教会基礎共同体の全国大会に参加して

 カトリック教会の教会基礎共同体というのは、軍事政権のときには非常に大きな意味を持っていたのですが、九〇年以降、ある意味では解放の神学の衰退と共に、教会基礎共同体運動も少し下火になったというふうにいわれております。ただ私自身は数年に一回開かれている教会基礎共同体の全国大会というものに、九七年に参加いたしました。そのときの報告もこれに書きましたけれども、それに参加してみて、いやこれは今でもなかなか大事な意味を持っているという認識を新たにいたしました。

 そのことについてお話しながら終わりたいと思います。

 まず教会基礎共同体は政治的な意味合いからすれば軍政の時には、反軍政という共通認識が非常にはっきりしていたのですが、その後軍政から民政に移ったもので、何か当面の敵というものを、少し見失ったような感じがしないでもありません。

 但し政治的な意味合いを持つ運動としては、土地無し農民運動というものに引きつがれています。大多数の人が土地を持っていないブラジルでは、大農場主が持っている土地に、土地無し農民達が侵入して、そしてそれをある期間占拠し、耕作すると、その人達のものになるという法律があります。未使用地、使っていない土地を放ったらかしているのは良くないということで、土地無し農民が占拠した後、政府の役人がそれを調べて、破格の安い値段で買い上げて彼らに与えるという、システムですけれども、大土地所有者の方はそれをされたくないものですから、武装して土地無し農民を追い出そうとします。土地無し農民の方も命懸けで土地を占拠して作物を作って、自分達のものにしていこうとします。教会基礎共同体の今の運動は、政治的な意味からすると、この土地無し農民を戦略的に支援をするということが非常に大きなテーマとなっています。

 第二にブラジルの先住民の課題についても、非常に敏感に受け止めております。ブラジルにはヨーロッパ人が来る前から先住民が住んでいたのですが、彼らには土地は神様のものであって、だれも所有してはならないという考えであったのですね。そこにヨーロッパ人がきて線を引いて、ここは俺のものだというふうにして、知らないうちに自分達のものにしてしまった。そういう中で先住民の問題は、土地の権利というものと非常に深く結び付いています。一九八八年「先住民は土地の所有者ではないけれども、その用益権を持つ」というふうに新しい憲法にはっきり明記されました。

 ところがその後の政府は、その先住民の権利というものを全然守ろうとせず、余計にこの大土地所有者と先住民との対立を深め、血を見る争いがどんどんあちこちで起こっております。そうした中で先住民の人達を支援するという政治的な面があります。

 第三番目はエキュメニカルな役割についてです。プロテスタントの側では、伝統的なプロテスタント教会がエキュメニカルな役割を担っているといいましたが、カトリック教会の中では、この教会基礎共同体の運動というものが、プロテスタント教会に対して一生懸命理解しようとして手をのばしています。そのプロテスタント教会とカトリックのそういう基礎共同体が割合と一つになって、共に新しい世界へ向けていこうと。そういうふうな色合いが強く出ております。
 もう一つ。これは教会基礎共同体の最初の頃にはなかったことですけれども、カトリックのブラジル全国司教会議(CNBB)自身が、結構、教会基礎共同体の運動を支援してきているのですね。その一つの背景に、ペンテコステ派教会の広がりに対する危機感というものがあって、同じ貧しい人達の間に浸透しているカトリック側の教会基礎共同体を支援することによって、ペンテコステ派教会にカトリック信者が流れることを防ごうとしている。そういうことがあるようです。

 教会基礎共同体の中でも、ペンテコステ派教会の影響を、どんどん受けておりまして、カリスマティックな賛美歌を歌ったりしています。カトリックの中のカリスマ運動というふうによばれる状況も起っております。

 以上がここ二年間ぐらいで、ブラジルで学び、感じてきたこと、「ブラジルのキリスト教」といつテーマで思いついたことであります。

(7)日本におけるポルトガル語礼拝

 最後にひとつ宣伝をさせていただきます。日本に帰ってまいりまして、新しく日本でブラジル人に対する伝道、具体的には、ポルトガル語礼拝を始めて、日本の中のブラジル人と共なる歩みをしていきたいと思っております。

 私が働いております弓町本郷教会で、日曜日、夕方五時から、五月二日より毎週ポルトガル語礼拝をしていくことになりました。この礼拝の中で今日もご紹介したような賛美歌を共に歌いながら、日本の中のそういうブラジル人を応援しつつ、一緒に歩んでいきたいと願っております。


この文章は、1999年4月20日開催の「YMCA午餐会」において行われた講演の速記録を、東京YMCAのご好意によって転載させていただいたものです。無断転載はご遠慮ください。東京キリスト教青年会発行の『別冊 東京青年』第355号(1999年6月)の内容と同じものです。

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