子どもを守る神

〜出エジプト記講解説教(1)〜
出エジプト記1:1〜21
マタイ福音書2:13〜15
2002年5月5日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


 4月はみなさんとご一緒にヨハネによる福音書を読んでまいりましたが、私はこの主日礼拝において、新約聖書の講解と、旧約聖書の講解を平行して行っていきたいと思っております。旧約の方は、本日より、出エジプト記を読み始めることにいたしました。ただし出エジプト記は、律法についての随分細かい記述などもありますので、恐らく全部読むことはいたしません。何章かまとめて取り扱いながら、礼拝の中で読むのはその中の一部だけということもあると思いますので、そのようにご了解ください。

(1)過去と将来、二つの方向

 出エジプト記という書物は、旧約聖書の中で、創世記に続く第二の書物であります。話の前提は、創世記の終わりの方にあります。アブラハムの孫でありましたヤコブには12人の息子がおりました。下から二番目の息子がヨセフであります。このヨセフは父ヤコブの寵愛を受けて育つのですが、兄たちの嫉妬を買い、結託した兄たちによってエジプトに向かう商人たちに奴隷として売り渡されていきます。ヨセフは、その後エジプトで奴隷としてさまざまな苦労をいたします。しかし「夢のお告げを読み解く」というたぐいまれな才能によって、王ファラオが見た夢を解きあかし、エジプトの食糧危機を救うことになります。やがてヨセフはエジプトの大臣になり、ヨセフのところには、飢饉に陥った近隣諸国から食糧を大勢の人々が買い求めにやって来ます。その中にヨセフを売り飛ばした兄たちの一行もありました。ヨセフは「自分をエジプトへ導いてくださったのは神である」という信仰的な認識に立って、兄たちを赦し、最終的にヤコブの一族がヨセフのいるエジプトに移住することになります。ヨセフはエジプトにとって命の恩人ですから、一族はエジプト内で土地を与えられ、優遇されて過ごすことになりました。それが、出エジプトの物語の始まる前提であります。
 出エジプト記1章1節に、こう書いてあります。「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである」。このイスラエルというのは、「神は支配される」という意味ですが、もともとはヤコブが神様からいただいた別の名前でありました。そして2〜4節で、11人の名前が記されていますが、これはヨセフの兄弟たちの名前です。そして5節、「ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で70人であった。ヨセフは既にエジプトにいた」。これは、先ほどの私の説明で十分であろうと思います。少し続けてお読みいたします。
 「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって、国中に溢れた」(6〜7節)。この7節の言葉は、過去と将来という二つの方向を同時に指し示しております。つまり神はアブラハムに対して、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」(創世記13:16)と約束されましたが、その約束はたとえ国を離れてしまっている時でも忘れられていない、ということであります。それが過去という方向。過去の約束がここに成就しているのです。もう一つは、子孫が増え広がったということ自体が、出エジプトという出来事の背景となっていくということです。それが将来を指し示しているということです

(2)移住難民の子孫

 物語は、ここから展開し始めます。世代が変わってしまって、エジプトの人々は、ヨセフが命の恩人であったということも忘れ、急速に増え広がった移住者の子孫に脅威を覚え始めるのです。彼らはいわば、「本国」の経済危機の中で親族を頼りに移住してきた移住難民の子孫であると言えるでしょう。ですから、これは非常に今日的な話であると思います。ヨーロッパでも日本でも、そういう人々はどんどん増え続けています。そうした移住難民、あるいはもう少し広く言えば、移住労働者たちによって、国が脅威にさらされていると感じている人はたくさんいるわけです。外国人が増えることによって治安が悪くなったとか、あるいは外国人が安く働くことによって、その国の人間の失業率が増えたとか、いう声が出てまいります。そして極右の考えをもつ人々がそうした声をあおって、政治の表舞台にまで出てまいります。今回のフランス大統領選の一次選挙に、極右政党のルペンという人が二位に浮上したことの背景にも、そうしたことがあろうかと思います。
 しかしながら元をたどってみますと、日本などでも移住労働力を必要としたから、彼らが入ってきたという事情があったわけです。80年代には、ブラジルからもたくさんの人たち、いわゆる「デカセギ」の人たちが日本へやってまいりました。彼らの中には、その後待遇が悪くなって本国へ帰った人もありますが、そのまま日本に定住している人たちもたくさんいます。
 ヨセフがエジプトの恩人であったように、移住労働者たちには、「恩」とまでは言えないにしても、「借り」があるということもできるでしょう。ところが国の経済事情が悪くなると、その「借り」も忘れて、とたんに厳しい対応をし始めるのです。今日の場合には、待遇を悪くすることで、本国に帰らざるを得ないようにしたり、あるいは不法滞在と言うことで、強制退去させたりいたします。
 この古代エジプトの場合は、逆に強制労働を課して、彼らを奴隷化することによって虐待していったという話です。ですから同じように語ることはできませんが、外国人が増え広がることで、本来その国にいた人々が脅威を覚え、それに対して何らかの行動に移るという意味では、同じルーツのものであろうかと思います。彼らを支配しようとするか、排除しようとするかの違いであって、共通することは、「共に生きようとはしない」ということであります。

(3)どんなに虐待されても

 物語はこのように続きます。

「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。『イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になり過ぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかも知れない』。エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。しかし虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」(8〜14節)。

 どんなに虐待されても、それに屈しない。いや虐待されればされるほど、彼らは増え広がり、強くなっていったということです。そこでエジプトの王はとうとう最後の手段に出ます。二人のヘブライ人の助産婦に「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子どもの性別を確かめ、男の子であれば殺し、女の子であれば生かしておけ」と命じました。数が増え広がるのを食い止めるというのであれば、男の子を殺すよりも女の子を殺す方が効果的ではないのかと思うのですが、どういうわけか男の子を殺す命令を下しました。恐らく男たちはいつか自分たちに向かって武器を取り、反逆することになるかも知れない、という含みがあるのでしょう。

(4)人間よりも神に従う

 助産婦のうち一人はシフラ、もう一人はプアという名前でした。シフラというのは「美しい」、プアというのは「輝き」という言葉からできた名前でありました。彼女たちがヘブライ人であったのか、エジプト人であったのか、よくわかりません。「ヘブライ人の助産婦」とありますが、「ヘブライ人である助産婦」という意味なのか、それとも「ヘブライ人の子どもを取り上げる助産婦」という意味なのか、どちらにもとれるからです。しかしどちらにしても、それぞれに深い意味があると思います。もしもヘブライ人であったとすれば、それほどの迫害と脅迫にもかかわらず、彼女たちはそれに屈しなかった、ということになるでありましょう。もしもエジプト人であったとすれば、自分の国王の命令といえども、その非人道的な命令に従うよりは、良心の声に聞き従ったということになるでありましょう。いずれにしろ彼女たちは王の命令に従わなかったのです。
 聖書は、このところで決定的に大事な言葉を書き記しております。それは「助産婦たちはいずれも、神を畏れていたので」(17節)という言葉です。「神を畏れていた」。現実には、ファラオが彼女たちを脅かし、恐れさせているのです。しかしそうしたぎりぎりの状況の中で、助産婦たちは、エジプトの王ファラオよりも神を畏れた。「人間に従うよりも神に従うべきである」(使徒言行録5:29、口語訳)と言ったペトロと同じ信仰が、ここに現れております。
 彼女たちは、ファラオに向かって何か武力を行使したわけではありません。積極的に反逆したのではないのです。そんなことは彼女たちにできるはずもありませんし、思いもよらなかったでしょう。しかし彼女たちは明らかに王の命令に背いたのです。何かをすることによってではなく、むしろしないことによって、つまり赤ちゃんを殺さないという形で、王に抵抗し、背いたのです。そして彼女たちのしたこと、いや、しなかったことは、神様の壮大な計画の中で、なくてならない役割を果たすことになっていきます。彼女たちはなぜ、それをしなかったのか、それは「神を畏れた」からでありました。「助産婦たちは神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(17節)。現実に彼女たちを恐れさせている人間よりも、神を畏れたからでありました。

(5)何を言おうかと心配するな

 彼女たちのしたこと(しなかったこと)はやがて発覚いたします。エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただしました。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか」(18節)。王のこの詰問に対して、彼女たちは非常に機知に富んだ言い逃れをいたします。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」(19節)
 彼女たちは恐らくとっさにそう答えたのでありましょう。これは、イエス・キリストの次の言葉を彷彿とさせるものです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(マタイ10:19〜20)
 彼女たちの取った行動は、現代に生きる私たちにも示唆に富んだものであると思います。自分たちの上に、もしも非人道的な命令がくだされたら、どうずればよいのか。非人道的な命令であれ、何であれ、もしそれが正当に、その国の法にのっとった形で下されているならば、その命令に従うことが「法的に正しい」ことでありましょう。それに従わなければ罰せられるのです。
 しかし彼女たちの行動は、そうしたこの世の法が、人の人権を冒し、虐待し、やがては死にいたらしめるものであるならば、それに嘘をついてでも、従わないということを示唆しています。上からの抑圧に対して断固として闘っていくというのも、一つの抵抗のあり方かも知れませんが、みんながみんなそれをできるわけではないでしょう。それに武力に対し武力で闘うというのは、イエス・キリストが警告し、戒められていることであります。「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。そうした中で、私たちは、どのようにしてそのような非人道的な声に従わないで、神様の声に従っていくのか。彼女たちは、その場を機知に富んだ言い訳で切り抜けながら、自分の生活を守り、事実上それと闘っていったのです。そうしたことが、今日の私たちにも求められている、あるいはそのようにして隣人を助けていくことが求められているのではないでしょうか。

(6)背後で神が彼女たちを導かれた

 私は、そのような彼女たちの取った行動を思う時に、神を畏れる信仰と勇敢さに感心すると同時に、彼女たちの行動の背後には神様が立っておられて、彼女たちを導いておられたに違いないと思います。言い換えれば、神様は彼女たちの信仰を用いて子どもたちを守られたのです。そのことは出エジプト記の2章にまで続いていきます。2章に入っていきますと、さらにいろんな人を用いながら、もう少し厳密に言うならば、いろんな女性たちを用いながら、モーセを守られることになります。この物語を読みながら、私たちが思い起こすのは、イエス・キリスト誕生の時に起きた痛ましい事件ではないでしょうか。ヘロデ王は「ユダヤに新しい王が生まれた」という話を聞いて、不安になって、何としてでも、新しい王となられる赤ちゃんを殺そうといたします。そして2歳以下の赤ちゃんを皆殺しにするよう、命令をくだします。それは出エジプト記1章22節に書かれている命令の再現のようであります。しかしながら、ヘロデがどんなに力を尽くしても、どんなに大きな軍隊をもってしても、イエス・キリストを殺すことはできませんでした。神様がふさわしい人間(ヨセフ)を立てて、その赤ちゃんを守られたからです。

(7)神を畏れる信仰

 今日においても、この出エジプト記に記されているのと同じように、あるいはイエス・キリスト誕生の時に起こったのと同じように、大人の戦争に巻き込まれて、多くの子どもたちが命を失っております。今日は子どもの日でありますけれども、大人の争いの犠牲になっている子どもたちのことを思う時に、心が痛みます。しかし神様はそうした事態をただ放っておかれるのではないと思います。むしろあの時、助産婦たちを用いて、子どもたちを守りぬかれたように、神様は、今私たちを用いながら、子どもたちを守り、ことを起こそうとしておられるのではないでしょうか。
 今日のイスラエルとパレスチナの紛争に目を向けるときに、私たちは心が痛みます。あそこでも罪のないパレスチナの子どもたちが命を失っております。聖書の物語と照らし合わせる時に、あの時抑圧され、虐待され、しかし神様の導きによって救い出されたイスラエルの民の子孫であると自認する人々が、いかに簡単に抑圧者の側に立ってしまうのかということに驚かざるを得ません。人間の罪深さを思います。しかしそうしたイスラエルの中からも、良心的な声が(かすかではありますが)、聞こえてまいります。例えばイスラエルの若い兵士たちの中には、パレスチナ侵攻のためには軍務に服さない、これを拒否するという青年たちが少なからずいる、というニュースを見ました。それはその国の法律という枠組みの中では違法なのです。しかしそうした法律に従うよりは、良心の声に聞きしたがう。「神を畏れている」からではないでしょうか。そこには助産婦たちが神を畏れていたのと同じ信仰があるに違いありません。私たちは、そのような人々を孤立させてはならないと思います。そうした人々を支援し、連帯していく側にも、「神を畏れる信仰」が必要でありましょう。神様は、世界のあちこちでそのような人々を求めておられるのではないでしょうか。真の意味で、神を畏れる信仰、それはこの世のさまざまな力にただ従順に、無考えに従っていくのではなく、神様が今、私たちに何を求めておられるのかを探り、その声に従っていく信仰です。そのような信仰をもって、今週もまた、歩み始めましょう。