母の思い

〜出エジプト記講解説教(2)〜
出エジプト記1:22〜2:10
コリント一3:6〜7
2002年5月12日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)赤ちゃん救出リレー

 先週は、助産婦たちがエジプトの王ファラオの「男の赤ちゃんは皆殺しにせよ」という命令に背き、赤ちゃんを生かしておいたという話をいたしました。その結果として、ファラオはさらに厳しい命令をくだします。「生まれた赤ちゃんは一人残らずナイル川にほうり込め」(1:22)。物語はそこから突然、一人の赤ちゃんをめぐる話へと集中していきます。この赤ちゃんこそ、やがて出エジプトのリーダーとなるモーセでありました。
 「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ」(2:1〜2)。ちなみに6章20節に系図が出ており、そのところでモーセの両親がアムラムとヨケベドという名前であることがわかります。
 さてその赤ちゃんのお母さん(ヨケベド)は、生まれた子どもがあまりにもかわいかったので、殺すに忍びなく、三ヶ月間隠しておきました。しかしついに隠しきれなくなって、その赤ちゃんを手放す決心をいたします。パピルスで作った小さな舟のようなゆりかごを作り、アスファルトとピッチ(タール・樹脂)で防水加工をいたしました。その中に赤ちゃんを入れて、ナイル川の葦の茂みにそっと置いたのです。
 その子のお姉さんが、一体どうなるだろうかと心配して、ずっとその様子をうかがっていました。2章2節では、いきなりこの赤ちゃんが産まれたような書き方ですが、お姉さんがいたのですね。彼女はミリアムという名前であり(民数記26:59)、それは新約聖書のマリアにつながる名前です。ちなみにモーセにはもう一人、三歳年長のアロンという兄がおります(7:7)。
 そこへエジプト王ファラオの王女が水浴びをしに川へ降りてきました。そこで葦の茂みで、パピルスのゆりかごを発見するのです。そして仕え女をやって取ってこさせます。彼女がそれを見ると、中には男の赤ちゃんがいるではありませんか。泣いております。彼女はふびんに思いました。「これは、きっと、ヘブライ人の子です」(6節)。そこへミリアムがさっと現れて、大胆にもファラオの王女にこう言うのです。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」(7節)。王女が「そうしておくれ」(8節)と頼みますと、ミリアムは、そこへその赤ちゃんの実の母親(つまり自分の母)を連れてきて紹介をいたしました。王女は、その女性に「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当はわたしが出しますから」と言って、赤ちゃんを彼女の手に渡しました。このあたりの運びは、本当に息をのむようにドラマティックです。そのようにして、この赤ちゃんは、再び家に戻ることになります。やがてその子に乳母が必要なくなった時、その子は王女の元に返され、エジプトの王子として育ちます。王女はその子どもにモーセと名付けました。それは「水の中からわたしが引き上げた」という意味の言葉(マーシャー)からできた名前でありました。
 さてこれは、いわば赤ちゃんモーセの救出リレーのような物語ですが、その担い手はすべて女性であります。第一幕はすでに先週にお話しした第1章から始まっていました。この第二章では、モーセの実母、モーセの姉、そしてエジプトの王女、モーセの姉、再びモーセの実母(乳母として)、再びエジプトの王女、という風にリレーのバトンは引き継がれていきます。

(2)モーセの実母、ヨケベド

 少しそれぞれの人間にスポットをあててみましょう。まずモーセの実母、ヨケベドであります。彼女はまず、その子がかわいかったのを見て、いくらファラオの命令といえども、殺すことができませんでした。これは母親として、素直な、よく理解できる感情であります。彼女はもはやその子を隠しきれないと思ったときに、手放すのです。その時はどういう気持ちであったでしょうか。どうせ殺されるだろうけれども、自分は見るに忍びないということだったでしょうか。あるいはそれまで三ヶ月も、その子を隠しておいたことがばれると自分も罰せられるから、ということだったのでしょうか。私はそうではないと思います。ここに隠しているよりは、そっとナイル川の岸辺においた方が生き延びてくれる可能性が高い、と思ったのでしょう。まさかファラオの王女の目に留まるとは思っていなかったかも知れませんけれども、誰かエジプト人が育ててくれれば、と思ったのではないでしょうか。私はここにある種の信仰を見る思いがいたします。つまり「確かにこの子は自分が産んだ子どもだけれども、同時に神様から授かったものだ。もう一度神様の御手に委ねよう。もしも神様がそれをよしとされるならば、生かしてくださるだろう。」そのような信仰です。
 そして、その母の祈りは聞き届けられます。その子は生かされ、そして不思議なことにもう一度彼女の手に委ねられるのです。私はこのことは非常に深い意味があるように思えてなりません。つまり自分の子どもなんだけれども、別の誰かから預かった子どもとして、育てられるように命じられるのです。彼女の場合は王女でした。エジプトの王女が高貴であるかどうかは、ここでは議論しません。しかしヨケベドからしてみれば、自分よりはるかに「尊い方」がそれを命じている。その方から預かった子どもとして、自分の実の子どもを育てる。そしていつかはその方にお返ししなければならない。
 私たちに授かる子どもも、実はこれと同じなのではないかと思います。自分の子どもでありつつ、自分のものではない。その子の主人は、自分ではないのです。たまたまその子を「自分に代わって育ててくれ」と、委ねられたのです。その期間が短いか、長いかの差はあるでしょう。ヨケベドの場合は乳飲み子の場合だけが、委ねられた期間でありました。非常に短い。私たちにとっては、もう少し長いかも知れません。最近は子離れできない親が増えているようですが、遅かれ早かれ、その子は自分の手を離れ、そのお方にお返ししなければならないのです。私たちにとってそのお方というのは、神様であります。私たちはそのことをよくわきまえておかなければならないのではないでしょうか。

(3)ハンナとサムエル

 旧約聖書にハンナという女性が登場いたします。彼女には子どもがありませんでした。彼女はある日、こういう祈りを捧げるのです。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりをあてません」(サムエル記上1:11)。やがて彼女の祈りが聞かれ、男の子が与えられます。彼女はその子が乳離れするまで育てるのですが、彼女には最初から、この子は自分のものではなく、主なる神様から預かったものだという意識がありました。自分のもとにおき、乳離れしたとき、その子を祭司のもとへ連れていき、このように言うのです。「わたしはこの子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です」(サムエル記上1:27〜28)。この子こそ、後の大預言者サムエルでありました。このハンナは特別な存在のように思えますが、私たちにとっても相対的な違いでしかなく、やはり本質的に子どもというのは、神様から一時育てるように預かったものなのではないかと思います。

(4)モーセの姉、ミリアム

 さて、ここに無くてはならぬ働きをする女性が登場します。モーセの姉ミリアムです。彼女のような人を何と言えば、いいのでしょうか。母親思いで弟思い、しかも非常に聡明、利発な子どもです。ミリアムは、母親が祈りつつも、体が動かない時に、母の祈りをその身に引き受けて、その祈りが途絶えてしまわないように、しっかりと神様へつなぐ働きをしたしました。そういう意味では、母親の祈りの執り成しをしたということもできるでしょう。そして彼女は同時に、王女と母親との間の執り成しもいたしました。彼女にリレーのバトンが渡されたのはほんの一瞬です。彼女は赤ちゃんをじっと見守り、王女が拾い上げたまさにその瞬間に飛び出して、自分の母親に紹介をしただけです。しかしその一瞬がなければ、この王女と母親はつながらなかった、このリレーは成功しなかったのです。
 この世のさまざまな事業の中でも、こういう働きをする人がありますし、教会の業、信仰の業においても、そうでありましょう。普段は特に目立った働きをしていなくても、決定的な瞬間に大事な働きをする人があります。牧師でもそうでありましょう。何十年もある教会の牧師を務めて大きな貢献をする牧師もあれば、ほんの短い期間だけ、その教会の牧会を担うというケースもあります。しかしその短い期間の働きが決定的に重要であり、それがなければその教会の歴史はつながらなかったということが時々あります。極端な場合は、たった一年だけ、いやあるアドバイスをしただけというケースもあるかも知れません。しかしあの時決定的な場面でミリアムが用いられたように、神様は不思議なときに不思議な形で、「神を畏れる人」を配置して、ご計画を進められるのです。

(5)エジプトの王女

 次に忘れてならないのがエジプトの王女であります。神様はファラオの家庭の中にも、こういう人物を配置なさっていたのです。ファラオからすれば、「灯台もと暗し」ということになるでしょうか。彼女の人となりを思わせる言葉が、ここに記されています。6節の「ふびんに思い」という言葉です。これは彼女の父ファラオにはない感情でありました。しかも彼女は「これはきっとヘブライ人の子です」と言っております。自分と同じエジプト人の子どもだから助けたのではないのです。ヘブライ人の子であるにもかかわらず、というのでもないのです。まさにヘブライ人の子どもであるがゆえに、かわいそうなのです。彼女は、この子が自分の父親の政策の犠牲者であることを知っていました。この時彼女は、「自分の父親は一体何とひどいことを命じているのだろう」と思ったのかも知れません。いや前々からそう思っていて、この子を引き受けるということは、せめてもの罪滅ぼしのような気持ちであったかも知れません。あるいは父親に対する彼女なりの、精一杯の反抗のしるしであったかも知れません。彼女もまた、「非人道的な命令に従うよりは、良心の声に従う。人を恐れるより、神を畏れる」、そういう信仰を持っていたということもできるでありましょう。
 しかし「宮殿に連れて帰ると、父親に見つかってしまうし、どうしようか」と困ったことでしょう。いやそう思わせる間もなく、ミリアムが飛び出したのです。本当に神様の計画は見事だと思います。
 この時王女は王女にしかできない貢献をいたしました。その場には彼女の他にも、たくさんの女性たちがいました。しかしながら彼女たちが発見していたとしてもどうしようもなかったわけです。王女だからこそできたのです。王女だからこそ、ある種の決定権をもっていましたし、王女だからこそ、養育費を支払うだけの経済能力もあったということができるでしょう。

(6)侍女たち、仕え女たち

 ただしここにいた侍女たちや仕え女たちも何もしていないということではありません。彼女たちも大事な貢献をしているということを見落としてはならないでしょう。彼女たちの直接の主人は、この王女ですが、その上にはファラオがいることをみんな知っているわけです。そして自分の主人である王女がファラオに背いているということも、みんな知っています。しかし誰もファラオに密告をしないで、王女に協力をするのです。彼女たちの中に、一人でもファラオよりの人間がいたら、そしていてもおかしくないでしょう、そういう状況です。王女はかなりやばい橋を渡っています。しかしその時にみんな口を閉じて王女に協力しているのです。私は、この時ここにいた女性たちがみんな王女と同じ気持ちであったからではないかと想像いたします。つまり、みんな「ヘブライ人の赤ちゃんがかわいそうだ。いくら何でもこのたびの王の命令はひどすぎる」と思ったのでしょう。これは女性ならではの感覚ではないかと思います。もしもこの場に男がいたら、ことはこううまく進まなかったのではないでしょうか。自分の昇進をかけて、王に密告をし、王に取り入って、出世をねらう人間がいたのではないかという気がいたします。

(7)女の強さ

 私はこのモーセ救出リレーを担ったのが、たまたま女性であったのではないであろうと思うのです。女性独特の思いやり、子どもを思う気持ちがリレーをつないでいったのではないでしょうか。そのことはある意味で「女の強さ」というものを物語っていると思います。一般的には、男と女を比べると、男の方が強いというのが通念です。しかし必ずしもそうではないだろうと思います。そしてそのことを、人は昔から知っていたのではないでしょうか。男の強さというのは、筋力というか、物理的な力の強さです。暴力をふるったときには男の方が勝つ。しかし人の強さというのは、筋力だけではありません。生き延びる強さ、命を守る強さというのは、昔から女性の方が秀でていたのではないかという気がいたします。その強さの中には、あの助産婦たちが、ファラオの前でうそをついて言い逃れをして、自分の命を守りながら、赤ちゃんの命を助けていったような、したたかさも含まれるでありましょう。子どもをどんなにしてでも守り抜くという強い意志。それは男よりも女の方が強いのかも知れません。この時のモーセの父親と母親を比べてみてください。何と父親の影の薄いことでしょう。父親の方は、男の赤ちゃんが生まれた段階で、「ああ男の子だった。残念だった」とあきらめてしまったのではないでしょうか。しかし母親はそういうわけにはいかない。自分の腹を痛めた子どもです。「いくら夫があきらめようと、私は最後まであきらめない。」そういう母ならではの強さがここにあるように思いました。
 私はこの強さというのは、信仰の強さと似ているのではないかと思います。それは、パウロが「私は弱いときにこそ強い」(コリント二12:10)と言ったあの強さです。自分が強い者だと信じている限り、弱いのです。自分が強い者だということを放棄することから始まる強さ。自分により頼まない。自分を弱い者であることを了解することによって、かえって神様により頼む。だからこそ、真の意味で強いのです。教会というところには、昔からいつも女性の方が多かったわけですが、何かそういうことと関係があるのかも知れません。

(8)母なる神 

 今日はこの後『讃美歌21』の364番歌います。その2節にこういう言葉があります。「強き主母のごと、すべての者を支え、昼も夜もはぐくむ主、いざホサナ、わが母」。3節は、「やさしき父のごと、その慈しみ絶えず、病む者らを抱きともう、いざホサナ、わが父」。「強きこと母のごとし、優しきこと父のごとし」。これはブライアン・レンという、これを作った讃美歌作家が大事にしたイメージです。私はこういう曲があるのが、『讃美歌21』の大きな魅力であると思います。神様は母のような強さをもった方だというのです。その強さとは、命を守り、はぐくむ強さです。
 ちなみに4節では、「年老いたお方」、5節では「若いお方」と歌っています。神様が御自分に似せて人を創られたのであれば、ありとあらゆる人の中に神様のイメージがあるはずだということです。若い人の中にも、年老いた人の中にも、母親の中にも、父親の中にも神様のイメージがあるということが、この歌の前提です。
 さてモーセはヨセベドより生まれ、一旦王女のものとなり、またヨセベドの元に返り、その後王女の養子となっていきます。産みの母親と育ての母親がここにおります。ある年齢から先は王女が育てます。しかしこのモーセを本当に育ててくださったのは、この二人の背後におられる神様であるということを忘れてはならないでしょう。
 先ほど読んでいただきましたパウロの言葉を思い起こします。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でもなく、水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリント一3:6〜7)。私たちは、今日母の日に、私たちを産み、育ててくれたこの世の母親に感謝を捧げると共に、その母のようにして、命を与え、育ててくださる神様に感謝をいたしましょう。