小さなものから

〜ヨハネ福音書講解説教(22)〜
詩編145編8〜16節
ヨハネ福音書6章1〜15節
2003年9月7日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)命の源は何か

 9月になりました。かつては9月の第一日曜日を振起日と呼んで、秋の初めにもう一度信仰を振るい起こす日としておりましたが、そのような思いで秋の信仰生活のスタートを切りましょう。秋の深まりと共に、私たちの信仰も深まって実りあるものとなることを願っています。
 本日、私たちに与えられましたテキストはヨハネ福音書第6章1〜16節、イエス・キリストが5千人に食べ物を与えたという奇跡物語です。
 イエス・キリストは、荒れ野で悪魔から、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑を受けられた時、旧約聖書、申命記の言葉を引いて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4、申命記8:3)と言って、その誘惑を退けられました。
 この言葉は、私たちが根本的なところで、一体に何によって生きるものであるかということを示しています。私たちが生きるということ、私たちの命というのは、ただ単に肉体的なことだけではない、ただ物質的なものだけではない、ということを高らかに宣言した言葉でありましょう。人が人として生きる根拠が示されていると言ってもいいでしょう。これは本人がそのことを自覚しているかどうかということを超えております。本人がそれを知っていようといまいと、自覚していようとなかろうと、私たちは神の言葉によって生かされているのです。しかしそのことを深く自覚することによって初めて、私たちの生のあり方が異なってくるというのも事実でありましょう。

(2)食べ物についての配慮

 ただし、これは、「精神的なものと肉体的なものと一体どちらが大事か」ということを問うているのではありません。「武士は食わねど高楊枝」という言葉がありますが、そういうようなことではないのです。聖書の信仰は、決して人にパンなしでも生きるような精神主義を説くものではありません。聖書の神様は、人が飢えたまま放っておかれるようなお方ではなく、人が食べて生きるということについて、深く配慮してくださるのです。
 イエス・キリストは弟子たちに、いわゆる主の祈りを教え、「『われらに日用の糧を、今日も与えたまえ』と祈りなさい」と言われました(マタイ6:11)。そのように祈ることが許されているのです。
 今日はヨハネ福音書にあわせて、詩編145編の言葉を読んでいただきました。

「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、
うずくまっている人を起こしてくださいます。
ものみながあなたに目を注いで待ち望むと
あなたはときに応じて食べ物をくださいます。
すべて命あるものに向かって御手を開き、
望みを満足させてくださいます。」
(詩編145:14〜16)

 今日私たちに与えられた5千人の人に食べ物を与えられたという物語は、この神様の愛と恵みが、イエス・キリストを通してこうして実現しているのだということを語っていると思います。人はパンのみによって生きるのではないが、パンなしに生きることはできない。神様は、そのことをよくご存じであり、イエス・キリストもそのことを深く配慮してくださるのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)という言葉も、それをよく示していると思います。ご自分の飢えのためには、石をパン一つにさえ変えようとはしなかったお方が、人の飢えに対しては大きな奇跡を起こしてくださるのです。

(3)弟子たち・私たちへの問いかけ

 この言葉に続けて、ヨハネ福音書記者は「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(6節)と、記しています。何かちょっと意地悪に聞こえる言葉ですが、主イエスは単にフィリポに対して意地悪をしようとされたのではないでしょう。御自分は目の前にいる大勢の群衆の飢えというものを深く心に留めておられる。これを何とかしてやらなければならないと考えておられる。「果たして弟子であるお前たちはどうか」と問うておられるのではないでしょうか。
 一人でもできるものを、あえて一人でやってしまわず、弟子たちを招いておられる。弟子たちにも大勢の群衆の飢えに対する配慮を共有して欲しい、そこで喜びも共にして欲しい、と願っておられるのです。
 フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでも足りないでしょう」(7節)と言いました。200デナリオンという数字が、どこから出てきたのかよくわかりません。1デナリオンというのは労働者の一日の給料と言われています。先進国ではなく、貧しい国だと一日500円位でしょうか。それで換算すると10万円になります。もっともそれだけのお金がそこにあって言っているのではないでしょうし、仮にお金があっても、それだけのパンを用意しているパン屋さんもないでしょう。ですからフィリポは、ここで大きめの数字を具体的に示しながら、「先生、それはとても無理なことです」と、暗にイエス・キリストに対して説得しようとしているように思えます。
 私は、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」というのは、イエス・キリストの弟子たちへの問いかけ・招きであると同時に、私たちへの問いかけ・招きでもあると思いました。私たちは今、豊かな経済大国日本の中に生きています。私たち自身、あまり飢えていません。そのような中で、他の人々の飢えというものに鈍感になりがちなのではないでしょうか。実は日本の中、すべてがそのような飽食であるわけではありません。今日の日本でも、飢えの中を生きている人があります。これまで普通にサラリーマン生活をしていた人が、あっという間に職を失い、家を失い、家族も失ってしまった、というのは、実際に身近なこととして起きています。また日本国内にも多くの外国人が、十分な食べる物もなく生活しているということを忘れてはならないでしょう。日本の外にまで目を向けるならば、それは言うまでもないことであります。
 天の神様、そしてイエス・キリストは、「私の飢え」だけではなく、そのようなすべての人々の飢えを心配し、食べ物を配慮してくださる方であるということは、大きな慰めであると同時に、私たちに対するチャレンジでもあるでしょう。私たちは「私の日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈りなさい、と教えられたのではなく、我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と教えられたことを、心に留めたいと思います。私たちもそのイエス・キリストの配慮の中におかれていると同時、その配慮へ招かれているのです。

(4)不信仰の中の信仰

 さてこのフィリポがそう答えた後、そばにいたアンデレはこう言いました。「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役に立たないでしょう」(9節)。アンデレもフィリポと同じように悲観的です。しかしフィリポとちょっと違ったところがありました。「焼け石に水」のようなものであることを知り、「これではどうしようもないですよね」と自分で答えを出しながら、少しでもポジティブなことを見つけて、言うのです。「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます」。私は、不信仰の中に何かしらひとかけらの小さな信仰を見る思いがいたします。そこからイエス・キリストの大きなドラマが始まっていくのです。
 恐らく主イエスは、この奇跡をゼロからでも始めることができたでしょう。神は無から有を造られたお方です。何もないところから、この素晴らしい天地を創造された方です。そしてイエス・キリストは、その方から地上での権威を授かったお方であるとすれば、それ位のことができないわけではなかったでしょう。ここにも「御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と書いてあります。ただそれを一人でやってしまわれるのではないのです。どのように実現されるのか、それを模索しているというか、誰かが何か小さなことでも差し出すのを待っておられたのでしょう。

(5)不思議にもパンが増えた

 主イエスは、このアンドレの言葉を聞いたとき、「待っていました」とばかりに「人々を座らせなさい」(10節)と言われました。そしてそのパンを取り、感謝の祈りを唱え、それを割いて、人々に分け与えられました。魚も同じようにして、祝福して分け与えられました。
 そうすると不思議なことに、そこにいるすべての人が満腹になったというのです。そこで食べた人は男だけで5千人でありました。女性や子どもたちの数は入っていません。イエス様の話を聞きたいと思ってくる人は、昔から男より女の方が多いのです。教会に来る人の数も大抵、女の数は男の二倍います。その計算で行くと、女の人は1万人位いたのではないでしょうか。子どももいました。ですから2万人位の人がいたということが考えられます。その人たちがみんな満腹になりました。満腹になっただけではなく、その残りを集めてみると、「十二の籠がいっぱいになった」(13節)ということでした。最初よりも増えたのです。
 ここで一体何が起きたのか、よくわかりません。聖書はその現象については何も書いてないし、興味もないようです。結果だけを記しているのです。いろんな解釈があります。これを合理的に解釈しようとする代表的なものは、「実はみんなお弁当をもっていたんだ」というものです。それをみんな自分のものとして隠していたけれども、少年が大事なお弁当を差し出したので、みんな大人たちは恥ずかしくなって、次々に出し始めたんだ、ということです。「なるほど」と思います。そしてその解釈は、今日の世界において、とても大事なことを提起していると思います。私たち一人一人に食べ物を分かちあうことを訴えています。
 でも私はもっと素直に、イエス様がなさった奇跡を受けとめてもいいのではないかと思います。無から有を生み出す力をもったお方ですから、そのような奇跡をなさったとしても違和感はありません。

(6)無からではなく、小さいものから

 ただ私はイエス・キリストが無からではなく、小さなものを用いて、大きな奇跡を起こしてくださったということにこだわりたいのです。アンデレを巻き込んで、そしてこの少年の好意・信仰を用いて、それを高く引き上げられたのでした。
 前にも申し上げたことがありますが、このアンデレという人は紹介の達人でした。最初にイエス・キリストに出会って、従っていく決心をしたその翌日に、彼は自分の兄弟であるシモン・ペトロをイエス・キリストのもとへ連れて行くのです。そしてそこからイエス・キリストとペトロの出会いが起こり、ペトロは一番弟子となり、彼のところから教会が始まっていきました。それはアンデレの小さな行為がイエス・キリストによって用いられ、大きな奇跡を生み出したと言ってもいいでしょう。
 この時も彼は、この一人の少年をイエス・キリストに紹介いたしました。そこから始まることは、アンデレの想像をはるかに超えたことでありました。この少年の思いをもはるかに超えていたことでしょう。
 私たちの小さな思い、小さな行為、それはからし種一粒のようなものかも知れませんが、それが一度、イエス・キリストの手にかかるならば、大きく、大きくされるのだ、イエス様はその最初の小さな差し出しを待っておられるのです。
 私たちの世界はさまざまな問題が入り組んでいます。飢えの問題にしても、資本主義社会のひずみを受けて、私たち一人一人の小さな力ではどうしようもない程大きな問題です。南北問題という大きな経済や政治の問題も複雑にからみあっています。そこに問題があるのがわかっており、何とかこのひずみを少なくしたいと願いつつも、素人ではどうすることもできないように思え、無力感に襲われます。あのアンデレと同じです。「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。しかしながらその無力感の中で、せめてもの良心として差し出した小さなものを、主はお用いになり、御自分の大きな計画の中にそれを組み込んでくださるのではないでしょうか。

(7)貧しい人々への配慮

 主イエスは、人々が満腹した後、弟子たちに向かって、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(12節)と言われました。これも不思議な言葉です。幾らでもパンを増やすことのできる力をもったお方が、あたかも貧しい人の代表であるかのように、「少しも無駄にならないように」と言われる。そこには、やはり「いっぱいあるなら少し位、無駄にしてもいいではないか」という思いに対する批判と、それでもパンのない人々に対する配慮が込められていると思います。
 パウロは、コリントの教会の人々に向かってこう言いました。

「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(コリント二6:1)。

 肝に銘じたい言葉です。

(8)神の国の宴

 私はここに展開された野外の食事風景は、何かしら神の国の宴をほうふつとさせるものがあると思いました。私たちはこれから聖餐式を行おうとしていますが、この聖餐式も、最後の晩餐を記念すると同時に、神の国の宴を指し示していると思います。
 ヨハネ福音書が最初にしるした奇跡は、水をぶどう酒に変える奇跡でありました。そして今はパンが生み出されるのです。私たちの聖餐式も、このパンとぶどう酒を用いて行われます。そこでいただくパンは小さなひとかけらであり、そこでいただくぶどう酒はほんの数滴のものであります。しかしながら、そのパンはひとかけらを超えたものであり、ぶどう酒はその小さなカップを超えたものであることを知っています。そこには大きな力と大きな恵みが秘められていることを信じて、これにあずかりたいと思います。