もっと偉大なことを見る

〜ヨハネ福音書講解説教(21)〜
創世記28:10〜12
ヨハネ福音書1:43〜51
2003年7月6日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)弟子を召し集めるイエス

 前回(6月22日)は、ヨハネ福音書1章35〜42節の「最初の弟子たち」と題された箇所を読みました。そこでは洗礼者ヨハネの二人の弟子、アンデレともう一人の弟子がイエス・キリストに従ったこと、そしてアンデレによって紹介された兄弟のシモン・ペトロも主イエスに召されたことが記されていました。今日、私たちに与えられました1章43〜51節も、主イエスが弟子を召された物語の続きであります。さらに新たな二人を召されるのです。新共同訳聖書では、「フィリポとナタナエル、弟子となる」と題されております。

「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。フィリポはアンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」(43〜44節)。

 この記述によれば、イエス・キリストは、いきなり道すがらフィリポに向かって「わたしに従いなさい」と言われ、フィリポは従っていきます。どうしてそうすぐに決断できたのかは、何も書いてありません。
 アンデレとペトロと同郷であったということですから、この二人がフィリポを誘ったのかも知れませんし、あるいはこの二人を見て、フィリポの方から「よし私も」と決心をしたのかも知れません。いずれにしろ、アンデレとペトロが主イエスに従っていたことが前提になっているのでしょう。キリストに従う姿そのものが他の人にも影響を与えるのですね。フィリポは自分もアンデレとペトロのようになりたいと思ったのでしょう。私はこういうことは大事であると思います。

(2)実を見て、木を知る

 話は少し広がりますが、私たちがある宗教(キリスト教を含めて)について判断する時に、「実を見て、木を知る」ということがあるのではないでしょうか。イエス様の言葉に「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタイ7:18)という言葉があります。これを宗教に当てはめてみれば、「その宗教がどんな実りをもたらしているか、どんな人物を生み出しているかということが、その宗教が人を生かす宗教であるか、人をだめにする宗教であるかを、見極める一つの基準になるのではないか」と思うのです。あるいは一つの宗教の中にもいろんな教派があります。その教派、その教団、あるいはその教団の信仰の持ち方がどういう人間を育てているかということなのです。
 私は、キリスト教のことを絶対視して、他の宗教のことを悪く言うつもりはありません。広く見れば、キリスト教を含む伝統的な宗教(ユダヤ教、イスラム教、そして仏教、ヒンドゥー教)は歴史に耐えてきた宗教であり、それなりの人物、社会に貢献する尊敬すべき人物を生み、育ててきました。それらに比べると、いわゆる御利益を強調する新興宗教では、なかなかそのような人物は生まれてこないのではないかという気がいたします。もちろん例外はあるでしょう。しかし構造上、そうなのです。つまりどんどん今も生まれている新興宗教というのは、「まず願いありき」なのです。この世のマーケティングと同じです。「今、何が求められているか、人は何を欲しているか」というニードが先にあって、「それではそれに応えるものを提供しよう」、というので新しい宗教が生まれてくる。そしてそのニードにぴったりあったような宗教が流行るのです。しかしそういうものというのは何か薄っぺらいのですね。裏が透けて見えるというか、深みがありません。だからこちらの要求にあわないとなると、すぐに捨てられます。
 あるいは人の心の欠けたところ、弱いところに入り込んでくるカルト宗教も出てきます。人の心を操ろうとします(マインドコントロール)。あるいは「信じないと、こうなるぞ」という脅迫を伴ってくる。そうしたカルト宗教も、人の弱さをよく研究していて、最初は人の心を満たしてくれるように見えるのです。それは何も他宗教のことだけではなく、キリスト教系のいわゆる新興宗教の場合にも、そういうことが多々あります。もちろんそういう人間性を害するカルト宗教からは、よい実が得られるはずはありません。
 新興宗教がわかりやすく、すぐにこちらのニードに応えてくれるように見える、すぐに答えがあるのに対して、伝統的な歴史宗教というのは、とっつきにくいかも知れません。キリスト教はその最たるものでしょう。マーケティングの原理で動いているのではないからです。言葉を換えるならば、それは偶像ではないからです。最初に神様がおられる。キリスト教の場合で言いますと、最初にイエス・キリストがおられる。そしてそのお方と共に歩むかどうか、そのお方に従うかどうか、そのお方を自分の生活の中心におくかどうかが問われるのです。こちら側の自己変革が問われてきます。それはある種の犠牲を伴ってきます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と言われたとおりです。しかしながらそういう中でこそ、本当に優れた人物というのは、生まれてくるのではないでしょうか。
 私たちは、何かを信じるという時、あるいはキリストに従うという時にも、そこに一途な思いがあるのは当然でしょう。しかしそれと同時に、自分を相対化して、自分を客観的に眺めてみる余裕というか、その信仰がどういう人物を生みだしてきたのだろうか、歴史的にどういう役割を果たしてきたのだろうかという、「実を見て、木を知る」ような視点をもつ必要があるのではないでしょうか。本物はなかなかすぐにはわからず、段々と味わいがわかってくるものだからです。フィリポの場合には、アンデレとペトロを恐らく知っていて、この二人の姿を見て、「彼らが従っているのなら」という思いで、従ったのだろうと思います。

(3)フィリポからナタナエルへ

 さて聖書のストーリーに戻りましょう。フィリポはそのようにキリストに従う者になりましたが、興味深いことに、彼はその後すぐにナタナエルに声をかけています。

「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちが書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(45節)。

 律法と預言者と言うのは、当時の「聖書」、いわゆる旧約聖書を指しています。「聖書に預言され、みんなが待ち望んでいたメシアが、今私たちの目の前に現れたんだ」と興奮して言ったのでしょう。しかしフィリポが、「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言ったとたんに、ナタナエルは白けたように「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。
 ナザレというのは、この当時、ぱっとしない田舎町であったのでしょう。旧約聖書にも全く出てきません。「あんなナザレのような村からメシアが現れるわけないではないか」とナタナエルは思ったのです。
 そのようなナタナエルに対して、フィリポはしつこく言います。「来て、見なさい」(46節)。イエス・キリストは、ヨハネの弟子たちに「来なさい。そうすれば分かる」(39節)と語られましたが、これは英語の聖書では、どちらも "Come and see." なんですね。フィリポも、この時ナタナエルに、「来なさい。そうすれば分かる」という気持で、「とにかく来て見なさい」と言ったのでしょう。

(4)ナタナエルという人

 ナタナエルは、フィリポに連れられて、イエス・キリストの方へ向かいました。すると、彼がまだ何も言わない先に「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節)と言われるのです。ナタナエルはびっくりして、「どうしてわたしを知っておられるのですか」(48節)と問い返しました。主イエスは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(48節)と答えられます。
 「いちじくの木の下」というのは涼しいので、ラビが律法を教え、弟子たちがそれを学ぶ場所として選ばれたようです。多分ナタナエルはいちじくの木の下で、律法を学んでいたのでしょう。そういう風に律法を真剣に学ぶような人間だからこそ、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われたのだろうと思います。イエス・キリストの言葉を聞いて、ナタナエルは、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)と、言いました。これはナタナエルの信仰告白と言ってもいいでしょう。
 そういう告白をしたナタナエルに対して、イエス・キリストは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(50節)、続けて「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(51節)と言われます。
 ナタナエルという人は、ここでイエス・キリストの弟子になったということですが、実は他の福音書に出てくる十二弟子の名前のリストにはナタナエルの名前はありません。バルトロマイというのが、ナタナエルと同一人物だという節もありますが、定かではありません。他の箇所にもほとんど出てきません。ですからこのナタナエルが一体どういう人物であったかはよくわからないのですが、この箇所の少し懐疑的な態度、しかし一旦正しいと思ったら、すぐに信仰告白にいたったということからすれば、あのトマスと似たタイプかなと思いました(ヨハネ20:24〜29)。ただトマスよりももう少し知的と言いますか、学問的な人のように思えます。

(5)ヤコブの梯子

 さて主イエスが語られた「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」という言葉ですが、この言葉の背景にあるのは、先ほど読んでいただきました創世記の28章の「ヤコブの梯子」と呼ばれる物語でありましょう。
 野原でヤコブが野宿をしていると、彼は不思議な夢を見ました。

「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(創世記28:12)。

 天から地へと天使が自由に行き来したというです。ただしこれが主イエスの今後のどの出来事と結びつくのかははっきりいたしません。これを十字架であるとか、復活であるとか、言うことはできるかも知れませんが、私はむしろそれを特定しないで、そうしたことすべてをひっくるめて、天から地へと天使が自由に行き来するようなことが、イエス・キリストの上に実現するのだということを語ろうとしているのではないかと思います。

(6)期待を超えて

 「ナタナエルよ、あなたは、私があなたのことを言い当てたから、私のことを『神の子、イスラエルの王だ』と呼んだのか。あなたはもっと大いなることを、これから見るようになるぞ」、と言われたのです。私はこの言葉を興味深く思います。イエス・キリストは、ナタナエルの信仰の告白を認めて受け入れながら、「でもそれだけじゃないよ」と言われたのですね。「もっとすごいことが起こる。あなたはこれからそれを見ることになるだろう」。
 これは私たち、信仰生活を送っている者の実感ではないでしょうか。私たちは洗礼を受ける時は、実はそれほど深く考えて受けるわけではないでしょう。あるいはイエス・キリストについて、キリスト教について、それほど理解しているわけではないでしょう。この時のナタナエルの信仰告白にしても、言葉はなかなか立派なものではありますが、その中身、彼の信仰は一体どれほどのものであったかははなはだ疑問です。イエス・キリストが自分のことを言い当てられたので、それだけで信じた。何か自分に都合のいいように、ある意味で御利益宗教を信じるような感じで、そう告白したのかも知れません。
 私たちもそのように、それほど深く考えないでクリスチャンになる決心をすることが多いものです。あるいは何か別のことを期待して受けることもあるかも知れません。それはそれでいいと思うのです。この時も、イエス・キリストはナタナエルのことを受け入れておられます。評価しておられる。それでも「それだけじゃあないよ」と言われた。「あなたはもっと偉大なことを見る」。
 私は自分が洗礼を受けた時のことを思い起こしても、あの時は(高校1年生でしたが)、まさか自分の人生がこういう展開になるとは予想だにしておりませんでした。洗礼を受ける時に知っていたことというのは、ほんのわずかです。むしろ本当に大事なことは、洗礼を受けた後で起こってきましたし、キリスト教のすばらしさというのも、その後で見せていただいたような気がいたします。「イエス様ってすごいなあ。こんなことまでちゃんと知っておられたんだ」。「キリスト教って、すごいなあ。奥が深いなあ」。それは信仰をもって生きる中で、私たちが経験することではないでしょうか。信仰をもって生きることは驚きの連続です。信仰生活とはこのようなもの、とわかったように思っていたら、必ずそれを超える出来事に遭遇する。そこで改めて、「イエス様ってすごいなあ」と思わされるのです。
 「キリスト教」というのは、いわゆる新興宗教に比べると難しいように見えるかも知れません。すぐになにがしかの御利益はない(ように見える)かも知れません。しかし、そこで自分が作り変えられることによって、もっと大きなものをいただいたということが後になってわかるのです。知れば知るほど、味が出てくる。かめばかむほど、味が出てくる。するめのようなものです。するめはやがて味がなくなりますが、キリスト教というのは、そうではありません。つきあえばつきあうほど新たなことを発見する。さらに偉大なことを見させていただくのではないでしょうか。
 私たちのまわり、そして私たちの歴史は、そのような証しに満ちあふれています。すばらしい実、すぐれた先達をたくさん生み出してきました。そのような証しを見ながら、私たち自身も、フィリポのように、またナタナエルのように、イエス・キリストを信じ、それに従う決断をしていきましょう。そうした中でこそ、主は「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」という約束を実現してくださるのではないでしょうか。