何を求めているのか

〜ヨハネ福音書講解説教(20)〜
イザヤ書30:18〜21
ヨハネ福音書1:35〜42
2003年6月22日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)クリスチャンになる過程

 本日は青年月間中の青年伝道礼拝第2回目、来週は特別青年伝道礼拝であります。今日はそのような時にふさわしいテキストが与えられたと思います。というのは、このヨハネ福音書1章35〜42節の箇所には、私たちがクリスチャンになっていく過程がよく示されているからです。もう少し丁寧に言うならば、それを三つの視点から見ることができます。それは第一に、私たちはどのようにしてキリストに従うようになるのかということ、第二に、私たちはどのようにして伝道をするのかということ、第三に、イエス・キリストはどのようにして、私たちを召されるのかということであります。今日はこのテキストを通して、そのことをご一緒に学んでいきましょう。

(2)キリストとの出会い

 最初にストーリーを確認しながら、第一の、私たちはどのようにして、キリストに従うようになるのかということを考えていきましょう。前回(6月1日)、私たちは、洗礼者ヨハネとイエス・キリストが初めて出会った箇所を読みました(1:29〜34)。そのところで洗礼者ヨハネは、イエス・キリストを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。今日の箇所では、ヨハネは、直接自分の二人の弟子に対して、「見よ、神の小羊だ」と言いました。そこから物語は動いていきます。この洗礼者ヨハネの行為と言葉によって、二人の人間がイエス・キリストの方へ向かうのです。
 彼らがそっと、イエス・キリストの後をついていきますと、イエス・キリストが振り返られ、「何を求めているのか」と声をかけられました。彼らはもう少し黙ってついて行ってみよう、様子をみようと思っていたのではないでしょうか。それが向こうから声をかけられて、ちょっとためらったかも知れません。彼らはあわてて「ラビ、あなたはどこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。この言葉も、中途半端な質問のように思えます。ただどこに泊まっておられるかを知りたいために、ついて行っているのであれば、何だかストーカーか、「追っかけ」のような感じがします。本当は、自分たちの先生である洗礼者ヨハネが「見よ、あの方こそ神の小羊だ」と言ったので、それが本当かどうか見極めたいと思ったのでしょう。でもまだちょっと距離を置き、つかず離れずで、様子を見たかったのではないでしょうか。
 教会に来始めて、まだ洗礼を受けておられない人のことを、教会では「求道者」と呼びます。「道を求める人」と書きます。「道を求める人」ということであれば、私たちは洗礼を受けた後も、生涯求道者であるわけですが、洗礼を受ける前の人を、教会用語のようにして「求道者」と呼ぶわけです。この洗礼者ヨハネの弟子たちの行動や言葉は、「求道者」の気持ちをよく表していますね。最初から、「キリスト教を信じたいのです」と言って教会に来られる方は、ほとんどありません。もしかしたらここに何か大事な教えがあるのではないか。自分が探している答があるのではないか。それを確かめたいという思いで、教会に来られることが多いと思います。
 彼らはここでイエス・キリストに向かって、「ラビ」と呼びかけています。これは、日本語の「先生」というのと、よく似たニュアンスの言葉だそうです。日本語の「先生」というのは、とても広い意味で使われます。学校の先生も、お医者さんも、弁護士さんも、政治家も、牧師もみんな「先生」です。何らかの形で指導的立場にある人はみんな「先生」ということになります。牧師会などで、誰かが「先生」と叫ぶと、みんなが一斉に振り向くなんていうことがよくありますけれども、学会や弁護士会などでもきっとそうなのでしょう。
 この「ラビ」という言葉も、尊敬を表す表現として広く使われる言葉のようです。英語では、マスターとかティーチャーとか訳されていましたが、それよりも日本語の「先生」に近いのかも知れません。この段階では、彼らにとってイエス・キリストは「ラビ」(先生)なのです。その人から何かを学びたい。何か人生の大切な指針となる事柄を教えていただきたいという風に、心が開いている。このラビという呼びかけは、それをよく示していると思います。
 ところがこの後一晩じっくり話を聞きました。質問もしたでしょう。翌朝になると、彼らは「わたしたちはメシアに出会った」(41節)と告白するようになるのです。メシアというのは、ギリシャ語では「キリスト」となりますが、文字通りには「油注がれた者」という意味であり、「救い主」という含みをもっています。「私たちはキリスト、救い主に出会った」と言ったのです。この「ラビ」と「メシア」という二つの言葉の間には大きな違いがあります。彼らの中で何か決定的な変化が起きたのです。

(3)シモン・ペトロの召命

 二人のうちのひとりは、シモン・ペトロの兄弟アンデレでありました。もう一人の弟子が誰であったか、名前が記されていませんが、弟子ヨハネであったのではないかと言われます。アンデレは、翌朝、自分の兄弟シモンに「わたしたちはメシアに出会った」と伝え、その言葉を聞いて、今度はシモン・ペトロが、イエス・キリストのもとへ赴きます。イエス・キリストは、彼に向かって「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」(42節)と言われました。このケファというのが「岩」という意味であり、それが同じくギリシャ語で「岩」を意味するペトロという名前の由来です。
 シモン・ペトロのイエス・キリストとの出会い、シモン・ペトロの召命については、四福音書それぞれに書き方が違います。マタイとマルコはわりあい似ています。漁師であるシモン・ペトロとアンデレが海岸で網を打っていると、そこにイエス・キリストがあらわれて「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われる。二人はその場ですぐに網を捨てて従った、ということです(マタイ4:18〜20、マルコ1:16〜18)。
 ルカによりますと、こうなっています。シモン・ペトロとヤコブとヨハネが夜通し、ガリラヤ湖で漁をしたけれども何にもとれません。がっかりして海岸で網を洗っていたところ、イエス・キリストが現れて「沖に漕ぎだして網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。彼らはその言葉を半信半疑で聞くのですが、とにかく言われた通りにすると、とんでもない大漁になります。そこでイエス・キリストは、シモン・ペトロに向かって「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました(ルカ5:1〜11)。
 しかしながら今日のヨハネ福音書では漁のことも何も出てきません。もっとあっさりしています。いわば弟アンデレに連れられて主イエスのところへ行っただけです。
 これらはそれぞれ違った伝承に基づいていますので、実際はどんな風であったのかということは、よくわかりません。しかしそれぞれに全部あったことと考えることもできるでしょう。そうだとすれば、私はヨハネ福音書に記されているこの出会いが最初であったのではないかと思うのです。このような出会いが基礎となって、あの海岸での召命があったのではないか、と考えるとかえって、なるほどとうなずけるものがあります。
 後に教会の大指導者になっていくあのペトロの、イエス・キリストとの最初の出会いがこのような単純なものであったとすれば、何か身近な感じがいたします。

(4)信頼関係の中で

 第二番目は、私たちがどのようにして伝道するかという点です。ここに伝道のモデルが二つ描かれています。それは、洗礼者ヨハネの姿とアンデレの姿です。この二人がしたことは、二つの言葉で言えるかと思います。
 一つ目はイエス・キリストを証言したということです。イエス・キリストを証しすることそのものが伝道になるのです。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストを指さして、弟子たちに向かって「見よ、神の小羊だ」と言いました。アンデレは、兄のシモン・ペトロに対して、「私たちはメシアに出会った」と言いました。これはそれぞれに信仰の告白であります。証しの言葉です。この言葉には、それぞれ洗礼者ヨハネとアンデレの実存がかかっています。自分の存在をかけてこの言葉を語っているのです。そういう言葉が人をとらえるのですね。信仰の言葉、証の言葉、告白の言葉は、科学の言葉とちょっと違います。いわゆる客観的真理ではないのです。その言葉が人に伝わるかどうかは、その人が、どれほどその言葉に自分をかけているかにかかっているのだと思います。
 二つ目は、この二人は、自分の非常に身近な人をイエス・キリストに引き合わせたということです。伝道の基本はこれだと思いますね。確かに、私たちは今回、青年月間のプログラムのチラシを新聞の折り込みに入れました。こういう方法も大切だと思います。それによって、それを見た人が一人でも二人でも教会に来てくださることを願っておりますし、たとえ来られなくても、「あああそこに教会があるのだ。教会ではこういうことをやっているのだ」という風に認知してくださることがあるでしょう。私が今、語っていることはそれと矛盾することではありません。あれかこれかではなく、両方大事なことと受けとめていただきたいのです。
 その上で、伝道の基本はやはり「人から人へ」、しかも「親しい人へ」ということだと思うのです。親しい知人、友人へ、あるいは家族へ、親へ、子へ、兄弟へ、ということです。洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちに、イエス・キリストを指さしました。アンデレはお兄さんのシモンに証しをしました(家族伝道をしたのです)。どうしてそれが大事であるかと言いますと、そこには信頼関係があるからです。「あの人が行っている教会であれば、行ってみよう」とか、「あの人が信じている信仰であれば、間違いないだろう」、「あの人が信じているものは一体何なのだろう」ということがあるのです。
 この時アンデレともう一人がイエス・キリストを追いかけていったのは、何よりも洗礼者ヨハネに対する信頼があったからです。「ヨハネ先生の言うことなら間違いがないだろう」と信頼したのです。シモン・ペトロも、信頼しあっている兄弟アンデレが「わたしはメシアに出会った」と証ししたからこそ、自分も行ってみようと思ったのでしょう。このこともぜひ心に留めていただきたいと思います。

(5)紹介の達人アンデレ

 この二人のしたことはただイエス・キリストを証しし、その親しい人をイエス・キリストに引き合わせただけでした。それが伝道の基本なのです。その相手が直接、イエス・キリストとつながったら、もうすでに大事な役割を果たしたのです。「あとはイエス様お願いします」という感じです。洗礼者ヨハネも、自分の弟子がイエス・キリストと直接出会ったら、もう出てきません。すっと身を引きました。これは伝道者としては見習うべき大事なことであろうと思っています。私たちはしばしば牧師につながるようなことがありますが、それはあくまで中間点に過ぎないということを知らなければなりません。
 ところで、このアンデレという人はおもしろいですね。この人はヨハネ福音書では合計3回登場するのですが、彼のやったことは、いつも誰かをイエス・キリストに引き合わせることでした。今日の箇所では、自分の兄弟シモン・ペトロをイエス・キリストに引き合わせました。この次には5つのパンと2匹の魚を持っている少年をイエス・キリストに引き合わせています(6:8〜9)3回目は、何人かのギリシャ人を、イエス・キリストに引き合わせました(12:20〜22)。
 アンデレという人は、紹介の達人でありました。彼は、福音書の中で決して主役級の登場人物ではありませんが、脇役ながら、非常に大切な働きをいたしました。私はこういう働きは、特に伝道ということから言えば、かけがえのないものであると思います。このアンデレがいなければ、あの使徒ペトロもいなかったのではないでしょうか。私たちができる事柄は高々知れていると思うかも知れません。しかし私たちのできることは小さくても、そして私たち自身は小さくても、それをイエス・キリスト御自身が引き受け、そして引き上げてくださり、そこから大きな働きへとつないでくださるのではないでしょうか。そのことを信じて、誰かをイエス・キリストに引き合わせる小さな働きをしていきたいと思います。

(6)来なさい、そうすれば分かる

 さて三つ目は、簡単に申し上げたいと思います。それはイエス・キリストはどのようにして弟子たちを召されたかということです。イエス・キリストは、二人のヨハネの弟子が自分についてくるのを見て、「何を求めているのか」(38節)と尋ねられました。ヨハネの弟子たちが「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」(38節)と問い返しますと、イエス・キリストは「来なさい。そうすればわかる」(39節)と答えられました。これもいい言葉ですね。聖書の中に有名な「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7:7)という言葉がありますが、それに類する言葉であると思います。ちなみに今年の西南支区ワークキャンプのテーマは、この「来なさい。そうすれば分かる」という言葉であります。
 イエス・キリストは、自分に向かってくる人に対して、逆に向こうから「何を求めているのか」と核心に迫る問いを発せられます。こちらが何かをつかみたい、学びたいと思っている時に、その人をイエス・キリストご自身がとらえようとしてくださるのです。実はこの「何を求めているのか」という言葉は、ヨハネ福音書に出てくる最初のイエス・キリストの言葉なのですが、この言葉の中に、イエス・キリストの私たちに対する思いというものが集約されているのではないでしょうか。そして「来なさい。そうすれば分かる」と、続けて言われます。「私のもとに来なさい。ここにこそ、あなたの求めているものがある。」「ここにこそ、人生の真理がある」「ここにこそ、命の泉がある」と、私たちを招いておられるのです。
 来週はいよいよ特別青年伝道礼拝です。洗礼者ヨハネやアンデレのように、私たちも親しい友人や家族を誘い、イエス・キリストに引き合わせる務めを果たしたいと思います。「教会ってどんなところ?」と関心を持っている人には、イエス様ご自身が語られたように、「来なさい。そうすれば分かる」と言えばいいのではないでしょうか。何よりもまず、イエス・キリストご自身が、その人に向かって、また私たち自身に向かって、「何を求めているのか」と語りかけてくださるということを覚えたいと思います。