この人を見よ

〜ヨハネ福音書講解説教(19)〜
イザヤ書42:1〜4
ヨハネ福音書1:29〜34
2003年6月1日
経堂緑岡教会    牧師  松本 敏之


(1)洗礼者ヨハネと主イエス

 今年の新年礼拝(1月5日)において、ヨハネ福音書1章19〜28節の「洗礼者ヨハネの証し」と題された箇所を読みましたが、それ以来ずっと続けて出エジプト記を読んでまいりましたので、今日は5ヶ月ぶりにその続きを読むことになりました。
 前回の箇所には、「あなたはどなたですか」という問いに対するヨハネの答えが記されていました。そこでヨハネは、「わたしはメシアではない」「エリヤでもないし、あの預言者でもない」と正直に言いました。
 「それではいったい、だれなのです」という風に、質問した人々は改めて問います。それに対してヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答え、続けてこう言いました。

「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその方の履物のひもを解く資格もない。」(26〜27節)

 つまり「自分はある方が来る道備えをしているのに過ぎない。そのお方と自分では、いわば格が違う」と言いながら、来るべきメシアが一体どれほどの方であるかをにおわせたわけです。しかしながら、洗礼者ヨハネとイエス・キリストは、まだ出会っていませんでした。そこから今日の物語が始まるのです。

(2)その翌日

 「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。わたしの後から一人の方が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのはこの方のことである。」(29〜30節)

 冒頭に、「その翌日」とあります。つまり「昨日自分が話したばかりの方が、今こちらに向かって来ておられる」ということです。
 この第1章をずっと見ていきますと、おもしろいことに、段落が変わるごとに「その翌日」という言葉が出てきます。この29節に続いて、35節、43節にも「その翌日」とあります。そして2章の冒頭の「カナの婚礼」の箇所では、「三日目に」となるのです。これを全部足しますと、7日間です。これら一連の出来事は1週間の間に起こったということになります。恐らく、神様がこの世界を1週間で創られたということを意識してのことでありましょう。そして7日目に「栄光を現された」のでした(2:11)。

(3)アニュス・デイ

 ここで洗礼者ヨハネは、イエス・キリストを指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました。この言葉は有名な言葉です。音楽のお好きな方であれば、カトリックのミサ曲の最後に「アニュス・デイ」というのがあるのをご存じであろうかと思います。(ミサ曲というのは、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイの五部構成になっています。)アニュス・デイというのは、「神の小羊」という意味のラテン語です。"Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis."「神の小羊、世の罪を取り除きたもう者よ、われらを憐れみたまえ」と歌われます。
 あるいはヘンデルの『メサイア』の第二部の冒頭でも、英語で"Behold the Lamb of God, that taketh away the sin of the world"と歌われますが、これも「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という意味であります。音楽の世界でもよく知られた「世の罪を取り除く神の小羊」というこの言葉は、まさに洗礼者ヨハネの口を通して語られた言葉でありました。
 このヨハネの言葉は、出エジプト記の物語(12章)が前提になっております。神様がエジプトの地で奴隷になっているイスラエルの民を、エジプトから救い出す話です。モーセはエジプト王ファラオに向かって、彼らを去らせるように訴えるのですが、ファラオはそれを聞こうとしません。モーセとファラオの一連のやり取りが続いた後、ついに神様はエジプトの初子をすべて殺すということをモーセに告げられます。ただし、家の鴨居と二本の柱に小羊の血を塗っている家には災いを下さず、災いを過ぎ越す、と言われました。そしてそのとおりになっていきました。
 「小羊の犠牲のゆえに災いを過ぎ越す」ということが背景にあって、「イエス・キリストこそは、神ご自身が備えられたまことの犠牲の小羊である」ということになるのです。ですからそこには、「この神の小羊によってこそ、世の罪が取り除かれるのだ」という信仰の告白が含まれています。

(4)第四の「主の僕の歌」

 もう一つ「犠牲の小羊」ということで忘れてはならない旧約聖書はイザヤ書でありましょう。イザヤ書は預言書の中で最も大きなものですが、聖書学の研究によれば、三つの部分に分けられます。最初の1〜39章は本来のイザヤによって書かれた部分ですが、その後の真ん中の部分(40〜55章)は、最初の部分とは、書かれた時代も著者も違うことがわかっています。通常、第二イザヤと呼ばれます。
 この第二イザヤの中に、「主の僕の歌」と呼ばれる歌が四つ含まれております。これはちょっと不思議な歌なのです。第二イザヤの中にとびとびに出てくるのですが、それがある誰か、特定の人物を指し示しているようになっているのです。それが一体誰のことなのか分からない。第二イザヤ自身のことかも知れないけれども、そうでないかも知れない。しかしそこで示される「主の僕」というのが、どうもイエス・キリストを彷彿とさせるのです。その四つの歌の中で最も壮大で、最も重要なものが52章13節から53章に記されている第四の歌です。「苦難の僕の歌」とも呼ばれます。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
……
多くの痛みを負い、病を知っている。
……
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
  わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
……
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
……
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」
(イザヤ書53:2〜8)

 そのように続くのです。これはほとんど説明する必要がないほど、ずばりイエス・キリストのことを預言した言葉のように聞くことができるのではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネが、イエス・キリストを指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったとき、明らかに「人の罪のために屠り場に黙って引かれていった」この「苦難の僕」のことを思い起こしていたに違いないと、私は思います。このイザヤ書53章は、受難節の時にしばしば読まれる箇所であります。

(5)第一の「主の僕の歌」

 しかし今日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)を目前に控えた日曜日でありますので、あえて別の「主の僕の歌」を読んでいただきました。それはイザヤ書42章1〜4節の第一の歌であります。 

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」(1節)

 「見よ」という言葉は、今日の洗礼者ヨハネの言葉に通じるものでありましょう。また「彼の上にわたしの霊は置かれ」とありますが、先ほどのヨハネ福音書の言葉によれば、イエス・キリストの上に「"霊"が鳩のように天から降って」「とどまった」ということでありました。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」(2節)

 この方は「国々の裁きを導き出す」方ではあるが、声を荒立てて、人を威圧したりする方ではないということでありましょうか。

「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。」(3節)

 その方は普通のこの世の権力者と違って強い者の味方をして、弱い者を踏みつぶすようなお方ではない。むしろそこで消えかけている者を一生懸命生かそうとする、そういう裁きをされるお方だというのです。
「島々は彼の教えを待ち望む」(4節)。「島々」とは「諸国」という意味です。ただ単にイスラエルの伝統の中にあるものだけではなく、世界中の人々がその方の教えを待ち望んでいるということでしょう。
 それがこの第二イザヤの中に記された第一の「主の僕の歌」の内容です。やはりこの歌もイエス・キリストを彷彿とさせるものではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネは、そのように旧約聖書で預言されていた「メシア」、そして「あの『主の僕』が今ここに来られたのだ」と証しをしたのでした。

(6)わたしはこの方を知らなかった

 このヨハネ福音書の箇所を読んでいて印象的なことのひとつは、「わたしはこの人を知らなかった」と、洗礼者ヨハネが二度も語っていることです(31節、33節)。

「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けた。」(31節)
「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ、神の子であると証ししたのである」(32〜34節)。

 自分は、具体的に一体どの方が来たるべき方であるかは知らなかったけれども、その方はどのようにしてくるかを聞かされていた。前もってヒントが与えられていたというのです。それは「その方の上には聖霊が降る」ということです。「それがこの方(イエス・キリスト)の上に実現するのを見たから、それを証しするのだ」というのです。なかなか論理的です。イザヤ書42章の、「彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」の言葉を思い起こさせます。
 洗礼者ヨハネは、イエス・キリストの上に霊が鳩のように降るのを見たと言いますが、果たしてそれは誰の目にも明らかなように降ったのでしょうか。私はむしろ分かる人にだけ分かるように示されたのではないかと思います。
 聖霊というのはそういうところがあります。分かる人にだけ分かる。あるいは見ようとする人にだけわかるのです。ヨハネ福音書の14章には、聖霊降臨を約束したイエス・キリストの遺言のような言葉がありますが、この言葉にも分かる人にだけ分かるという含みがあります。

「この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:17)。

(7)"霊"が鳩のように降った

 さて、「"霊"が鳩のように降った」という表現がありますが、聖霊と鳩には一体どういう結びつきがあるのでしょうか。「ノアの箱舟」の洪水物語の終わりに、水が引いた後、鳩がオリーブをくわえて戻ってきたという記述があります(創世記8:11)。そこから鳩は平和のシンボルになりましたが、何かしらそういうことと関係があるのかも知れません。しかしながら、恐らく鳩が飛んできて、ぱたぱたぱたっと樹の枝にとまるときや、あるいは地面に降り立つときなどの美しい姿が、聖霊が天から降る様子にたとえられたのではないかと思われます。
 もっとも今日の日本では、鳩は害鳥の一つに数えられています。昨日(5月31日)の『朝日新聞』の朝刊の「けさの鳥」というコラムで、「ドバト」が取り上げられておりました。

「人間の近くで数を増やしたが、糞害や病気の媒介、農業被害などで嫌われ者になってしまった。駅などからも追い立てられ、『平和のシンボル』もいまや形無しだ」

 と記されていました。聖霊は鳩のように降るのだとすれば、東京で一番聖霊に満ちた場所というのは上野公園あたりになるのでしょうか(もちろん冗談です)。経堂緑岡教会の教会学校には「ペンテコステには、鳩サブレをいただく」というユニークな習慣があります。なかなか「味のある」(?)伝統であると思います。

(8)伝道とは

 洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが来られる道備えをし、そして来られた時には、「この人を見よ」と証しをいたしました。「自分はついこの前までそれが誰かを知らなかった。今はそれを知っている。だからそれを証しするのだ」と語りました。そしてこの次の箇所では、ヨハネは自分の弟子に向かって、「見よ、神の小羊だ」(36節)と、直接告げるのです。そこからヨハネの弟子は、イエス・キリストと結びついていき、それを伝えたヨハネはすーっと後退していきます。後にヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(3:40)と言いますが、それがここで早、始まっているのでしょう。
 私は、伝道とはそういうことであろうと思います。誰かにイエス・キリストを指し示し、その人が直接、イエス・キリストにつながったら、私たちは退くのです。私たちは今年度、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5:16)という言葉を、年間聖句として選びましたが、その言葉も、私たち自身があがめられるためではなく、「天の父があがめられるようになるため」だということを、しっかり心に留めなければならないでありましょう。

「この人を見よ、この人にぞ、
こよなき愛はあらわれたる。
この人を見よ、この人こそ、
人となりたる、活ける神なれ」
(『讃美歌21』280)

 私たちもそのようにイエス・キリストを指さしながら、ペンテコステを迎え、6月の青年伝道月間を過ごしていきましょう。