道 備 え

〜ヨハネ福音書講解説教(18)〜
イザヤ書40:3〜5
ヨハネ福音書1:19〜28
2003年1月5日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之



(1)洗礼者ヨハネとは誰か

 あけましておめでとうございます。
 私たちは12月にヨハネ福音書の1章1〜18節を読んでまいりました。この部分は、ヨハネ福音書全体のプロローグ、序文になっておりました。本日のテキストである19節から、いわばヨハネ福音書の本文が始まるのですが、このところは、洗礼者ヨハネについて語っています。すでに序文のところでも、洗礼者ヨハネについて述べた言葉が幾つかありましたし、洗礼者ヨハネについては、それ以前からも(第3章を通して)すでに何度も述べてきましたが、今日はまた、違った角度から洗礼者ヨハネについて学びたいと思います。
 このように始まります。「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人をヨハネのもとへ遣わして、『あなたはどなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」(19〜20節)。この言葉は、暗に「もしかすると彼がメシアかも知れない」と、人々から思われていたことを示しています。ルカ福音書3章15節には、「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら、彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と記されています。「メシア」というのは、救い主のことであり、ギリシャ語で言うと「キリスト」となります。そのような風潮を知っていたので、彼は自分の方から、「いやメシアではない」と言ったのでした。すると彼らは、「では何ですか。あなたはエリヤですか」(21節)と、問い返します。ヨハネは「いや違う」と答えました。
 エリヤというのは、本来は旧約聖書に出て来る預言者ですが、メシア(救い主)が登場する前に、その先行者としてエリヤが再び現れると考えられていました。他の福音書では、洗礼者ヨハネこそ、そのエリヤであったという風に書いてあるのですが(マルコ9:12等)、ヨハネ福音書では、ヨハネ自身の言葉として、「自分はそうではない」と答えます。これは、洗礼者ヨハネの謙虚さを表していると、私は思いました。
 更に「あなたは、あの預言者ですか」と問われ、この問いに対してもヨハネは「そうではない」と答えます。洗礼者ヨハネは、確かに偉大な預言者であり、旧約聖書にあらわれる預言者の系譜に属し、イエス・キリスト以前における最後の、そして最大の預言者であったということができるでしょう。ただしここでは「あの預言者」と尋ねられています。「あの」という風に定冠詞がついています。英語では、The prophet ですね。ですからこれは特定の預言者です。実際には「メシア」と、同意語のようにして用いられていたようです。あるいは、申命記の中に、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる」と言う言葉があります(申命記18:15)。これはモーセの言葉として記されています。救いの時には、モーセが再来するという期待もありました。そこから「あの預言者」というのはモーセのことを指しているという解釈もあります。モーセとエリヤというのは、旧約聖書の中で神によって立てられた人物の代表であり、彼らが再来して救いを完成されるという風に信じられておりました。
 ところが洗礼者ヨハネは、「自分はメシアではないし、エリヤでもないし、あの預言者でもない」と、否定しました。

(2)荒れ野で叫ぶ声

 そこで彼らは、困って「それではあなたはいったい、だれなのですか。私たちは私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と、洗礼者ヨハネに尋ねるのです(22節)。
 その質問に対して、洗礼者ヨハネは、こう答えました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(23節)。これは、イザヤ書40章3節の言葉を、洗礼者ヨハネが自分に当てはめて、一人称で引用したものです。もともとのイザヤ書の言葉は、先ほど読んでいただきましたが、こういう言葉でした。

「呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え、
わたしたちの神のために、
荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、
山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、
狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを、
肉なる者は共に見る」
(イザヤ40:3〜5)

(3)神の救いを仰ぎ見るために

 道が荒れ果てて、でこぼこだというのです。主が来られるのに備えて、道を整えなければならない。山と丘を低くして、谷を埋め立てて高くして、その差をなくさなければならない。険しい道を平らにしなければならない。狭くて通るのが困難な道は広くしなければならない。そういう風に言いました。
 ルカ福音書は、洗礼者ヨハネが登場する場面で、やはり同じイザヤ書の言葉を自由に引用しておりますが、ルカの書き換えによれば、こうなっています。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」
(ルカ3:4〜6)。

 道を整えることと、神の救いを仰ぎ見ることは関係があるというのです。道が整えられなければ、神様の救いを仰ぎ見ることができない、という風に言ってもいいと思います。これは自然環境にたとえておりますが、当時の社会のことを語っているのでしょう。主が通られる道がでこぼこなのです。道が曲がりくねっているのです。だからそれをまっすぐにしなければならない。主が通られるのを妨げないように、その道を整えなければならない。洗礼者ヨハネは、「自分はその道備えのために遣わされたのだ。メシアではなく、エリヤでもなく、あの預言者でもなく、その一つ手前の仕事、メシアが来る準備をするのだ」と、自己規定をいたします。そしてヨハネ福音書では、特にそれを叫んで知らせる「声」であるということが強調されています。
 この山と谷があるというのは、当時のお金持ちと貧乏な人の差、あるいは権力者と奴隷の差、そういう人々の差があまりにも大きすぎるということではないかと思います。道がでこぼこだ、曲がりくねっているというのは、正義が踏みにじられ、人権が脅かされている。だから神様のいつくしみが伝わっていない、ということではないかと思います。そのような道を平らにし、まっすぐにしなければならない。極端な貧しさや、極端な富の集中がなくなり、公平な社会が実現されなければならない。正義と公正に満ちた社会が実現されなければならない。そういうことでしょう。主の到来を妨げないように、道備えをする。私は、これは今日の社会にも当てはまることであろうと思うのです。

(4)山はより高く、谷はより深くなった

 私は、昨年12月9日に開かれた東京YMCAの「讃美歌21クリスマス」でお話をし、クリスマスに発行されました『道標』に、その時の話を採録いたしました。それをお読みくださった方もあろうかと思います。その中に、昨年12月3日付けの『朝日新聞』にこういう記事が出ていたことを紹介しました。

「国連人口基金(UNFPA)は12月3日、2002年の『世界人口白書』を発表した。地球人口が62億人を超えたことを報告するとともに、国家間の不平等や各国内の貧富の差が拡大していることを指摘。……白書は世界の最富裕層20%と最貧困層20%との1人当たりの所得の格差が、60年代の30対1から70対1に拡大していると警告。貧困状態で生活する女性は男性よりも多く、最近10年間は特に開発途上国で男女の貧困格差が増大したと報告している。」
(『朝日新聞』2002年12月3日夕刊)

 私は、この記事を読みまして、やはりそうであったかという思いを強くしました。これが私たちの現代の世界の実態であります。1960年代以降、先進国と呼ばれる国々は、貧しい国々とのかかわりを深めてまいりましたけれども、その結果がどうであったのかということを、この数字はよく表していると思います。一般的には、貧しい国々の開発が進めば、貧しい国々もだんだん先進国に近づいていくだろうと信じられておりました。ところが、この数字は決してそうではなかったということを如実に示しています。40年経ってみると、豊かな国と貧しい国の格差はより広がってしまった。より決定的になってしまった。山と丘は低くなって、谷は埋められたというのではなくて、山と丘はさらに高くなって、谷はさらに深くなってしまったのです。豊かな国は貧しい国とかかわることによって、相手を従属させながら、むしろ自分たちを富ませてきたと言えると思います。貧しい国の中の、ほんの一部のお金持ちは、より豊かになりましたが、大半の貧しい人々はさらに貧しくなっています。そして一番お金持ちの20%と、一番貧乏な20%の所得格差は、かつては30対1程度であったものが、70対1にまで広がってしまった、ということです。

(5)福音派と社会派

 私は、このことは、つまりあまりにも富が集中し、その一方で、極端に貧しい人が存在するということは、神様の御心に反することであろうと思います。教会でこういうことを語ると、すぐに「彼は社会派だ」とレッテルを貼られるのですが、私はこうしたことを語るのはとても大事なことであると思っております。
 キリスト教世界には、「福音派」「社会派」と呼ばれる不幸な分裂と対立があります。大ざっぱな言い方ですが、「魂の救い」、つまり「イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて、救いを得よ」ということを強調する人たちや教会は、「福音派」と呼ばれます。他方、そういうことよりも「神の国の実現」、つまり神様の望まれる公正と正義に満ちた社会を実現することを強調する人たちや教会は、「社会派」と呼ばれます。しかし、この二つは、本来切り離されてはならないものなのです。このような色分けは、意味がありませんし、誤解を招きやすいものであると思います。イエス様の中でも、この二つの関心、つまり「魂の救い」と「神の国の実現」ということはくっついていました。

(6)究極のものと究極以前のもの

 ボンヘッファーという神学者は、この二つの事柄を「究極のもの」と「究極以前のもの」という言葉で呼びました。(『現代キリスト教倫理』、107〜134頁)。「究極のもの」とは、神様と私たちに関すること、「究極以前のもの」とは、この世界に関することだと言えるかも知れません。ボンヘッファーは、「究極以前のもの」として、人権の問題、差別や抑圧をなくすことなどを考えていました。「究極のもの」と「究極以前のもの」は、一応別の事柄なのですが、深く結びついています。ボンヘッファーは、こう言うのです。「神の究極の言葉の宣教と共に、究極以前のもののためにも配慮することが、どうしても必要になってくる」。なぜならば、この世界には「キリストの恵みの到来を妨げる人間の不自由、貧困、無知の深淵が存在する」からだ、と言うのです。ですから、福音の宣教のために、福音の言葉が届くようにするために、それらの障害物を取り除いていかなければならない。ボンヘッファーは、その働きのことを「道備え」と呼びました。「道を備えるという課題は、キリスト・イエスが来たりたもうことを知っている者すべてに無限の責任を負わせる。飢えた者にはパンを、家なき者には住まいを、権利を奪われた者には権利を、孤独な者には交わりを、奴隷たちには自由を提供することが必要である」。
 つまりどういうことかと言いますと、「神は愛である」と言いながら、その人を取り囲む状況が、とても「神は愛である」ということがわからない状況であるならば、その障害を取り除いて、「神は愛である」という真理が伝わるような「道備え」をしなければならない、ということです。あるいは「神などいない」としか思えない状況にある人に向かって、その人の生きている状況に無関心でありながら、いくら大声で「神はあなたと共にいてくださる」と語ってみても、それは決して伝わらないということです。その言葉が通じるための「道備え」をしなければなりません。
 私は、教会が「究極のもの」だけを語り、社会正義の実現や、公平な社会を築くこと、あるいは人権を守る、という事柄に関心をもたないならば、(残念ながらそういうことはしばしばあるのですけれども、)それはどこかおかしいのだと思います。あるいはまたそれと逆に、教会が「究極以前のもの」に熱中するあまり、この世の社会活動と変わらなくなってしまう。あるいは政治活動と同一化してしまう。それによって何が「究極のもの」であるかを見失うということも、時々起こってまいります。それもまた反対に、間違っている。この二つのこと、「究極のもの」と「究極以前のもの」、神様のこととこの世界のこと、魂の救いのことと神の国の実現のこと(人権や正義と言った社会の問題)、これらの両方をきちんと見据え、その関係をわきまえていなければならないと思います。

(7)御跡に従いつつ、道備えする

 洗礼者ヨハネは、ボンヘッファー流の言葉で言えば、「究極のもの」のために「究極以前」の働きをしたと言えるでしょう。彼は自分の働きの意味と限界とをよくわきまえていました。ですから彼は、イエス・キリスト指して、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(27節)と、謙虚に語ったのです。しかし彼の働きは、イエス・キリストの道備えとして、無くてならないものでした。
 洗礼者ヨハネは、イエス・キリストに先立って「道備え」の働きをしましたが、私たちにとっては、イエス・キリストはすでに来られた方であり、見えない形で共におられるということを覚えたいと思います。洗礼者ヨハネ自身も「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(26節)と言いました。イエス・キリストは、実は私たちの知らない形で存在し、わからない形で私たちを支えてくださっている。私たちが「主のために道備えをしなければならない」と思っているところで、実は、その道備えの道備えを、主がすでになしてくださっているのです。私たちは、主イエスの弟子として、主イエスの歩まれた道の上を、主イエスの跡に従って、歩むことを許されております。それと同時に、イエス・キリストは再び見える形で帰ってこられて、御国を来たらせる、神の国を実現する、と約束されました。私たちはその日を待ち望み、その日のために、イエス・キリストの再臨を仰ぎ見ながら、その道備えをするのではないでしょうか。このことを覚えつつ、この年も歩んでいきましょう。