言は肉となった

〜ヨハネ福音書講解説教(17)〜
ホセア書11:1〜9
ヨハネ福音書1:14〜18
2002年12月22日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之



(1)クリスマス、おめでとうございます。

 今年のクリスマス、私たちは「天に栄光、地に平和」という標語を掲げて歩んでおります。この言葉は、クリスマスの夜に、野宿しながら羊の世話をしていた羊飼いたちのところに天使が現れて、歌った歌から取ったものであります。

「あら野のはてに、夕日は落ちて、
たえなるしらべ、天よりひびく。
グローリア・イン・エクセルシス・デオ。

ひつじをまもる 野べのまきびと、
あめなるうたを、よろこびききぬ。
グローリア・イン・エクセルシス・デオ。」
(『讃美歌21』263)

 この「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」という言葉は「いと高きところには栄光、神にあれ」という意味です。天使たちは、それに続けて「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。
 この2002年をふりかえってみますと、私たちの世界はどんどん平和から遠ざかり、新たな戦争へと限りなく近づいた一年であったように思います。今にも戦争が起ころうとしている中、私たちは声を大きくして、この天使たちと共に、神様に栄光を帰しつつ、地上にまことの平和を祈らざるを得ません。そのためにも私たちは、クリスマスの日に一体何が起きたのか、その出来事は何を意味しているのかということを、改めて心に留めましょう。
 先ほどの天使たちの歌に先立って、天使は羊飼いたちにこう告げました。礼拝の招詞で読んでいただいた言葉です。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:10〜11)

(2)神が人となる

 これと同じ出来事をヨハネ福音書は、このように表現いたします。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。これがこの朝、私たちに与えられたクリスマスの御言葉です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この言葉は、とてつもなく大きな事柄を語っています。めまいがする程、大きな事件について述べています。文字通り、天地創造以来の大事件でありました。静かな夜に、誰も気づかないようなところで起きた出来事でありましたけれども、私たちの歴史を根底から覆すほどの大きな事件でありました。
 この「言」とは、何かと言えば、ヨハネ福音書の冒頭にこのように記されています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(1〜3節)。つまり、この言とは、天地創造以来、天にあって神と共にあった「お方」であります。端的に「言は神であった」とも書いてある。その「神の言葉」あるいは「言葉なる神」が、今、私たちと同じ肉体を取って、人間となって、私たちの世界に来られたということなのです。
 これは大変大きなことを語っております。大きすぎて、一体何のことを言っているのかわからない程なのです。だからつい聞き過ごしてしまいます。私たちの常識を否定し、私たちの常識を覆す事件なのです。

(3)神と人は違う

 私たちの常識からすれば、神と人間は違います。それは確かにその通りです。人間の方はいつも神のようになりたいという思いを持っていました。アダムとエバが蛇にそそのかされて、神様が食べてはならないと言われた木の実を食べてしまったのは、「神のようになりたい」と思ったからでした(創世記3:4〜6)。天にまで届くバベルの塔を建てようとしたのも、「神のようになりたい」と思ったからでした(創世記11:4)。しかしそれは不信仰なのであり、神はそのような人間の思いをうち砕かれました。
 またその後も、神様は預言者たちを遣わして、神と人間は違うのだということを示し続けてこられた。それが旧約聖書の歴史です。神と人間を混同するのは、神を冒涜することに他なりませんでした。決して混じり合わないのです。神と人間は別物であり、決して一つにはならない。神様の方でも、きちんとした一線を引いてこられました、今から2002年前のクリスマスの日までは。
しかしその日、天地がひっくりかえるような出来事、神様が人間の体をもって、私たちの世界に直接、入ってくるというとんでもない大事件が起きたのでした。
 しかしこの事件を知らされたのはほんのわずかな人々でした。それはマリアであり、ヨセフであり、この羊飼いたちでありました。少し遅れて占星術の学者たち(博士たち)にも知らされました。この学者たちを通して、その国の王ヘロデもそのことを知りました。彼はこの事件のもつ大きな意味を、わずかながら直感いたしました。「もしそれが本当なら、とんでもないことになる。自分の地位も危ない」と思ったのです。しかしそれはヘロデが感じたよりも、もっともっと大きな意味をもつ出来事でありました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

(4)神の大きな決意

 神様は永遠なるお方です。世の初めより終わりまでおられる方、アルファでありオメガです。とこしえに絶えることがない。当時のギリシャ世界では(もちろんヘブライ世界でもそうですが)、そういうお方は決して、滅ぶべき肉体をとらないと考えられていました。これは私たちの現代の常識にも通じることです。しかしヨハネ福音書は、それを意識しながら、あえてそれに挑戦するかのように記したのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」
 それは永遠のお方が時間の中に入ってこられたということです。それは、どんな場所にも限定されないお方が、あえてある場所にたどり着いたということ、ある空間に入ってこられたということです。無限のお方が有限の世界の中に入ってこられたということです。神が人となるとは、そういうことなのです。
 なぜあえてそのようなことをなさったのか。私は神様の中で、何か大きな決意が起こったのであろうと思うのです。16節には、このように記されています。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」。神様はそのように恵みに満ちあふれたお方であるから、それがあふれ出てきた。恵みが神様ご自身の中にとどまることず、私たちの世界にまで到達した、そういう出来事であったのです。その神様の決意とは、愛と関係のある決意でした。

(5)神が身をかがめる

 その神様の愛について、最もよく記していると思われる旧約聖書の言葉を先ほど読んでいただきました。ホセア書11章1〜9節です。どうしてもこの御言葉を読んでいただきたいと思って、今朝急遽、変更していただきました。それはこういう言葉です。

「まだ幼かったイスラエルを
わたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、
わが子とした。
わたしが彼らを呼びだしたのに、
彼らはわたしから去って行き、
バアルに犠牲をささげ、
偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて歩くことを
教えたのはわたしだ」
(1〜3節a)

 このエフライムとはイスラエルのことだと理解していただいてもよいと思います。神様の選ばれた民を、その歴史の初めから、それがまだよちよち歩きの頃から、ずっと手を取って支え、成長を見守ってきた。これはイスラエルに限らず、今日私たちにも同じように当てはまる言葉であると思います。

「しかし、わたしが彼らを
いやしたことを彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、
愛のきずなで彼らを導き、
彼らの顎(あご)からくびきを取り去り、身をかがめて食べさせた」
(3b〜4節)

 神様ははるかに人間を超えたお方です。神様と人間は、全く大きさが違うのです。ですからその神様が人間に何かを食べさせようとすると、神様は人間にあわせて身をかがめなければならない。ご自分の方から体のサイズを人間に合わせてくださったというのです。このあたりから、すでにクリスマスの予感がするのではないでしょうか。

(6)いても立ってもいられない神

「わが民はかたくなに
わたしに背いている。
たとえ彼らが天に向かって叫んでも
助け起こされることは決してない」
(7節)

 神様がそのように一心に愛を注いでいるのに、人間の方はその愛を知らない。御心を知ることができず、今自ら滅びようとしている。そしてここで神様は、そのように自滅しかかっている人間に対して、「もう好きなようにするがいい。滅びるならお前たち、自分の責任だ」と言いながら、突き放して行ってしまおうとしかけておられます。それがこの7節です。ところがどうでしょうか。そこで突然、何かを思い返したように引き返してくるのです。

「ああエフライムよ、
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て、
ツェボイムのようにすることが
できようか」
(8節a)

 とても自分の愛する者が滅んでいくのを見ていることはできない。それを無視して立ち去ることができない。これが神様の愛の姿です。何か神様がおろおろしているように見えます。いても立ってもいられない。これは神様らしからぬ姿ではないでしょうか。神様というのは、何があっても動揺しない。静観しておられるのが常識です。ところが、ここに描かれている神様は違うのです。そして次のように言います。

「わたしは激しく心を動かされ、
憐れみに胸を焼かれる」
(8節b)

 いかがでしょうか。これが神様の愛です。「恵みと真理に満ちた」お方の愛とは、神様らしくなく、いても立ってもいられない姿であらわれるのです。ギリシャ世界の神様は、じっとしていて、決しておろおろしません。人間にいちいち同情しません。それは神様にふさわしくないことなのです。何があろうと平静心を失わずに、全体を見渡しておられる。しかしこの聖書の神様は違うのです。「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」

(7)私は神であって、人間ではない

 しかしホセア書の言葉は、この言葉をクライマックスとして、何かすうっと興奮が落ち着いていく感じがします。

「わたしは、もはや怒りに燃えることはなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない」
(9節a)

 この8節と9節の間には大きなギャップがあります。この間に、一体何があったのか。私はこの行間に、何かしら神様の大きな決意を感じるのです。神様は、人間が自ら滅んでいくのをそのままにすることはできず、体を張って阻止するために何かとてつもない決意をなさったのではないか。それがクリスマスの日に明らかになるのです。ホセアはこう続けます。

「わたしは神であり、人間ではない。
前たちのうちにあって、聖なる者。
怒りをもって臨みはしない」
(9節b)

 神様は、「わたしは神であり、人間ではない」と宣言なさいました。しかしその宣言の意味することは、私たちの考えることと少し違っています。普通は「神であって、人間ではない」、ということは、人間を超越していて、何があっても動じない。人間が滅んでいこうとも動じない。びくともしない、ということではないかと思います。しかしここではそうではありません。「私は神であって、人間ではない」と言いながら、人間のことが心配で心配でたまらない。おろおろしています。そして人間に近づいてくるのです。

(8)愛のゆえに

 ところがそれでも確かにこの神は、人間を超越していることがあります。それは愛の面で超越しているのです。普通、人間であれば、悪いことをされたら、あるいは裏切られたら、相手を憎んだり、怒りを持って報復したりするでしょう。しかし「それをしない」というのです。それが、「神であって、人間ではない」ということの意味なのです。そして不思議なことが起こりました。愛がけた違いに大きいがゆえに、「わたしは神であって、人間ではない」と言われた神が、その愛のゆえに、こともあろうに逆に人間になってしまったのです。「言は肉となって、私たちのうちに宿られた」とは、そういう大きな、そして不思議な出来事を語っています。人間が神になることはできませんが、全能の神であれば、私たちの想像を超えたことですが、人間になることだってできるのです。
 神は怒りと裁きをご自分でお引き受けになるために、独り子なる神、イエス・キリストをこの世界に送られることを決意なさったのでした。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
 神は遠いところから人間を見守るだけではいられなくなってしまった。それだと人間は滅びるばかりだ。だからもっともっと近くに、見える形で来られた。それがイエス・キリストであります。そのお方は、神様の愛のしるしでありました。だから恵みと真理に満ちていたのです。
 私たち、この世界にあって、この一年、本当に神様はおられるのだろうかという風に思わざるを得ない出来事に、数々接してまいりました。しかし2002年前のクリスマスの夜に、誰も知らないところで、神様の大きな歴史が始まったように、今も私たちの世界にあって、私たちの気が付かないところで、神様がすでに大きな働きを始めておられることを信じたいと思います。来る年も、そのような神様の愛が確かに働いていることを信じつつ、歩んでまいりましょう。