言は光を放つ

〜ヨハネ福音書講解説教(16)〜
イザヤ書60:1〜5
ヨハネ福音書1:6〜13
2002年12月15日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之



(1)イエス様の誕生日

 アドベントも第三週目に入り、講壇のキャンドルには火が三つ灯りました。先週も寒い日が続きましたが、寒い中でキャンドルの火が一つ一つ灯っていきますと、私たちの心も次第にクリスマスが近づいていることを身近に感じ、何かうれしい気持ちにさせられます。クリスマスは12月25日でありますが、実はイエス様の誕生日がいつであったのかはわからないのです。聖書にも記されておりません。イースターやペンテコステは、聖書の記述に基づいています。ですから昔の暦(太陰暦)に左右されて「今年のイースターは何月何日」ということになりますが、クリスマスの方は、聖書に何も書いてないので、かえって自由に12月25日という風に、全世界的に日を固定して、お祝いをするのです。
 クリスマスが12月25日というのは、もともと北欧の方の冬至に関係のあるお祭りに由来しているようです。冬至というのは、一年のうちで最も夜が長い日であります。最も光が弱い日と言ってもいいかも知れません。その日からだんだん日が長くなっていきます。そういう日こそ、「まことの光として」この世に来られたイエス様の誕生をお祝いするのに最もふさわしいと考えられたのでありましょう。先ほどお読みいただいたヨハネ福音書1章9節には、イエス・キリストを指して「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と記されております。

(2)ブラジルのクリスマスと聖ヨハネ祭

 皆さん、ご承知のように、私は1991年から98年まで、ブラジルで宣教師として過ごしました。ブラジルは南半球にありますので、クリスマスは真夏です。今述べたことからいたしますと、南半球では、最もクリスマスにふさわしくない時期にクリスマスをお祝いしているのかなという気もいたします。クリスマスから2月か3月のカーナヴァルの時期が最も暑くて、その間が夏休みです。ブラジルのクリスマスにはそれなりに独特のこともあるのですが、基本的に寒い北半球のクリスマスを模倣したことが多いので、ちぐはぐに映ることも多くあります。暑い中、クリスマスツリーには綿をいっぱいくっつけて雪に見立てたり、サンタクロースはやはり厚着をして、汗をだらだらかきながらやってきたりいたします。
 ブラジルにいる間、何度か求められて、日本の雑誌などにブラジルのクリスマスについて書いたことがありますけれども、何度も何度も書くのに苦労いたしました。ある時ふと思いました。ブラジルの冬至と言えば、6月の終わりです。ブラジルには、6月の終わりにもクリスマスと並ぶ国民的なお祭りがあります。サンジョアォンと言います。聖ヨハネ祭ということです。洗礼者ヨハネの誕生日が6月24日と定められておりまして、そのお祝いするのです。このサンジョアォンのお祭りの方が、時期的に言っても北半球のクリスマスに近いかな、あるいは、クリスマスの祝いを補完するような感じかな、と思いました。この時は、ブラジルで最も寒い時期ですから、たき火をいたします。日本人の私からすれば、大して寒くもないのですが、みんな「寒い寒い」とがたがた震えながら、たき火を囲みます。このお祭りは収穫感謝祭も兼ねていまして、農村では一年で最も裕福で、楽しい時でもあります。

(3)赤ちゃんが踊った

 さてそもそも、なぜ洗礼者ヨハネの誕生日が6月24日に定められているのかと言えば、ルカによる福音書1章にあるマリアの受胎告知の記事に基づいております。天使ガブリエルがイエス・キリストの母となるマリアに現れて、「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけます。そして「恐れることはない、あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、戸惑っているマリアに対して、天使ガブリエルは、こう続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神にできないことは何一つない」(ルカ1:35〜37)。このエリサベトの子どもこそ、後の洗礼者ヨハネでありました。この天使のお告げに、「もう6ヶ月になっている」という言葉がありますが、マリアがイエス・キリストを身ごもったその瞬間、ちょうどエリサベトの方が妊娠六ヶ月であったということから、洗礼者ヨハネの誕生日もクリスマスからちょうど六ヶ月前と、算定したのでしょう。
 マリアは、この天使のお告げを聞いた後、それを確認するためにエリサベトのもとへ走り、そして挨拶をいたしました。エリサベトがこの挨拶を聞いた時、エリサベトのおなかの中の赤ちゃん(後の洗礼者ヨハネ)が胎内で踊った、というのです。ブラジルのメソジスト教会にはこの「赤ちゃんが踊った」という記述に基づいた楽しい遊び歌があるのですが、今はちょっと歌って踊るわけにいきませんので、この歌を知りたい方は、どうぞ今日の午後の教会学校のクリスマス会においでくださるとよいと思います。そこでみんなで歌いたいと思っています。あるいは来週の全体のクリスマス祝会で披露することもあるかも知れません。別の「疲労」にならなければいいですが。
 さて私は、マリアがエリサベトに挨拶した時、洗礼者ヨハネがおなかの中で踊ったというのは、とても愉快でほほえましいと思いますが、それは同時に象徴的なエピソードでもあると思いました。と言うのは、やがてこの二人、洗礼者ヨハネとイエス・キリストは、別の場所で再び出会います。その時もやはりイエス・キリストの方から洗礼者ヨハネのもとへやって来たのです。ヨハネから洗礼を受けるためにであります。その時、洗礼者ヨハネは、イエス・キリストに向かってこう言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3:14)。洗礼者ヨハネはびっくりしたのですね。
 イエス・キリストを身ごもったマリアが、エリサベトのもとへ挨拶に来た時、洗礼者ヨハネが胎内で踊ったということが象徴的だと言ったのは、その出来事を思い出したからです。ヨハネは、おなかの中にいた時から、この挨拶を受けて、喜ぶと同時にびっくりしたのではないかと想像いたしました。「そちらから出向いてくださるとはとんでもない。本来なら、私の方から出向かなければなりませんのに。でもこの通り、わたしはまだおなかの中で自由に動けません」ということで、エリサベトのおなかの中で、体をぐぐっと動かして、彼なりに最大の挨拶をしたように思いました。

(4)洗礼者ヨハネの偉大さ

 洗礼者ヨハネという人は、偉大な人でありましたけれども、彼の最も偉大なところは、自分の分をわきまえているということではなかったでしょうか。洗礼者ヨハネは、誰しもが認める大預言者でありました。このすぐ後の19節を見てみますと、ユダヤ人たちが祭司やレビ人を遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた、とあります。みんなが「もしかしたら、この人こそメシアかも知れない」と思ったのでしょう。それに対して、ヨハネは公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表しました(20節)。今日のテキストである15節にもこう記されています。「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。 誰でも人からほめられると、うれしいものです。「もしかしたら、この人こそメシアかも知れない」とみんなが思っていれば、自分では「そうだ」とは言わないにしても、悪い気はしない。ですからそのままにしておいてもいいのではないか、とふと思ったかも知れません。しかしそれも誘惑であることをヨハネはよく知っておりました。
 「自分がほめられたい」「高められたい」というのは、人間だれにでもある気持ちであると思いますが、これはなかなかデリケートなことです。説教者にとっても、どこまでもついてくる誘惑であります。この誘惑から全く自由になるということはありえないのではないか。いや自分は全く自由だと思うようになるとすれば、かえってその方が危ないのではないかと思います。
 使徒パウロでさえも、ガラテヤの信徒への手紙の中で、こう書いています。「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」(ガラテヤ1:10)。パウロという人も非常に優れた指導者でありましたから、みんなから高められることも多かったでしょう。それだけに一層、その誘惑を自覚していたのであると思います。

(5)光の証人ヨハネ

 ヨハネ福音書記者自身も、洗礼者ヨハネのことを高く評価しながら、彼の位置づけをきちんと行っております。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」(6節)。ヨハネ福音書は、そのようにまず、洗礼者ヨハネが神から遣わされた人物であることをはっきりと記しながら、こう続けます。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(7〜8節)
 洗礼者ヨハネ自身も、輝く人物でありました。ヨハネ福音書は、もう少し後の5章35節では、「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった」と、記しています。しかしながら、彼が輝いていたのは彼自身が光であったからではなく、まことの光を身に受けて、いわばその光を映し出すように輝いていたのです。まことの光を反射させて輝いていたと言ってもいいでしょう。その光源とは、イエス・キリストであり、ヨハネは、そのまことの光の証人、証言者であったのです。

(6)世の光

 このことは私たちクリスチャンにもあてはまることでしょう。主イエスは、山上の説教の中で、「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と言われました。それと全く別のところですが、ヨハネ福音書の中では、「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と言われました。この二つは一体どういう風に関係しているのでしょうか。どちらが本当なのでしょうか。私は、どちらも本当だと思います。ただし同じ世の光でも、質的に少し違うのです。一つは光源であり、自分で光る力を持ち、自分で光を放つ。もう一方は、自分では光らない。光ることができない。このまことの光に連なる時に、それを反射させて光るのです。あるいはそのまことの命の光のエネルギーをいただいて、それにつながっている限りにおいて、それを証しするように光ることができるのです。もちろん前者はイエス・キリストであり、後者は洗礼者ヨハネを筆頭とする人間、イエス・キリストにつながる者であります。主イエスは、先ほどの「わたしは世の光である」という言葉に続けて、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われました。
 ヨハネという人は、徹頭徹尾、そのまことの光を証言し、指さし続けた人物です。ある意味では、そのことだけのために、この世に遣わされたと言ってもいいかも知れません。そして栄光をイエス・キリストに帰しながら、それを喜びとしつつ、静かに世を去っていったのです。

(7)キリストを拒否するか受け入れるか

 ヨハネ福音書の冒頭1章1〜18節は、ロゴス讃歌と呼ばれます。ロゴスというのは、ここでは「言(ことば)」と訳されていますが、これは、端的に言えば、イエス・キリストのことです。ただし、イエス・キリストという名前を用いないで、この世に来られる前からのイエス・キリスト、父なる神のふところにおられた時からのイエス・キリストを言い表したものです。このことについては、すでに前回(12月1日)申し上げた通りです。
 この部分は基本的に韻文、つまり詩のような文章で記されておりまして、美しく、荘重な文体であります。5節に、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」という言葉がありましたが、そこから9節の「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」という言葉へ続きます。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(10節)。この世界はイエス・キリストの意志で作られたにもかかわらず、そのイエス・キリストが、直接やって来られた時に、そのイエス・キリストを認めなかったというのです。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(11節)。そして人々も受け入れなかった。「自分の民」というのを「選ばれたイスラエルの民」と読むこともできるかも知れませんが、私は端的に、私たちも含めたすべての人間のことを言っておられると受けとめる方がよいと思います。これは、言い換えれば、「自分の家に来たのに、家の者から他人のような扱いを受けた」(柳生直行訳)ということです。
 まことの光がもたらされた時に、闇のような世界にはそういう拒否反応がある。本当のもの、真実なものがやってくる時に、偽りの世界では、それをいやがって、あるいはこわがって、拒否するような反応が起きる。あるいは真理の光自体が、それを受け入れるか拒否するか、この世界を分断させるような力をもっているとも言えるでしょう。イエス・キリストは別のところで、自分は「剣をもたらすために来た」(マタイ10:34)とおっしゃいましたが、そのように鋭く、人を峻別するような力をもった言として来られたということです。
 ただ私は、それを踏まえながら、むしろその後に続く言葉に注目したいと思います。「しかし言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えられた」(12節)。これはただただイエス・キリストを受け入れる、ということです。そういう人にいわば無条件で、神の子となる資格を与えられる。それがクリスマスの日に、私たちにもたらされた大きな福音であります。そういう風にイエス・キリストの名を受け入れた人々は、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」(13節)と言います。これは、私たちに無条件で与えられている本当に大きな福音であると思います。
 私たちは、これからクリスマスを迎えようとしていますが、光として来られたイエス・キリスト、闇のような世界にあって、ただイエス・キリストを受け入れるときに、神の子となる資格が与えられ、その光を反射するように、私たちも輝く者とされる。その喜びをかみしめて、クリスマスに向かって歩んでまいりましょう。