初めに言があった

〜ヨハネ福音書講解説教(15)〜
創世記1章1〜5節
ヨハネ福音書1章1〜5節
2002年12月1日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之



(1)ヨハネ福音書の書き出し

 本日から、クリスマスを待ち望む季節、アドベントに入りました。金曜日に、女性の会の方々が来られ、いろいろとクリスマスの飾り付けをしてくださいました。こうした飾りを目にしますと、私たちの心もクリスマスに向けて、何かうれしい気持ちにさせられます。また正面のキャンドルにも火が一つ灯りましたが、これが4つ灯るとクリスマスになります。
 さて私たちは、この4月以来、ヨハネ福音書を第2章から読んでまいりました。第1章の最初の部分を、このアドベントとクリスマスに読みたいと思ったからであります。ただしこのヨハネ福音書は、マタイ福音書やルカ福音書と違って、いわゆるクリスマスの物語は記しておりません。ヨセフもマリアも天使も登場しません。ヨハネはそのようなクリスマス物語の代わりに、独特のプロローグ、序文をおきました。これは美しく、かつ荘重、重厚な言葉でありますが、やや難解な哲学的、神学的な言葉でもあります。今日は、この言葉を少し読み解きながら、クリスマスを迎える心の備えをいたしましょう。

(2)言はロゴス

 ヨハネ福音書は、このようにして始まります。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神とあった。」(1〜2節)
 この「ことば」というのは、お気づきかと思いますが、私たちが普通に使う「言葉」というのと違います。「葉」という漢字がなく、「言」(げん)という一文字で「ことば」と読ませております。そこには、これは普通のいわゆる「言葉」とは違うのだという思いと、それでもこれは「ことば」としか言いようのないものなのだ、という思いの両方が込められております。
 ちなみにこれは原文ではロゴスというギリシャ語であります。お聞きになったことがある方も多いでしょう。英語でも、「何とか論」「何とか学」という時に、「何々ロジー」という言葉を使います。バイオロジーとか、テクノロジー、セオロジーという、その場合の「ロジー」は、この「ロゴス」から来ております。ちなみに「ロゴス」というギリシャ語には、理性、論理、評価、定義などの意味があるようですが、その言葉をヨハネ福音書記者は、特別な意味を込めて使ったのです。それはこの世界に来られる前のイエス・キリストを、イエス・キリストという名前を用いないで、言い表すということでありました。それが「ロゴス」という言葉でありました。

(3)歴史的な日本語訳聖書

 ちなみに、このロゴスを何と訳しているか、日本語の聖書をいろいろと調べてみました。最初のプロテスタントの宣教師による日本語訳として有名なギュツラフ訳「ヨハネ福音の伝」というのがあります。これは天保8年(1837年)でありますから、明治維新の31年前ということになります。それまで徳川幕府は、天草の乱以来、キリシタン禁制と鎖国政策を厳守してきましたが、幕末期になりまして、徳川幕府も海外諸国との交渉をむげに拒否することができなくなりました。この機運を察知した外国ミッションは中国伝道の一環として、日本にも伝道しようと考えます。しかし彼らはまだ日本上陸を許されていませんでしたので、伝道の準備として聖書和訳を考え、日本国外で(主にマカオで)、それを行いました。その歴史的な最初の日本語訳が「ギュツラフ訳ヨハネ福音の伝」であったわけです。そこでは、この「ロゴス」という言葉は、「カシコイモノ」と訳されました。少しだけご紹介しますと、出だしはこうなっています。

「ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル。」

 「カシコイモノ」という言葉には、人格をもった方であるという意味あい、しかも(先ほどギリシャ語のロゴスには、理性という意味があると申し上げましたが、)「理性の根源であるお方」というニュアンスがあらわれていると思います。また神様のことを「ゴクラク」と訳したのも、おもしろいですね。
 その後明治になりまして、明治5年(1872年)にヘボン・ブラウン共訳のヨハネ福音書というのが出ます。このヘボンというのは、いわゆるヘボン式ローマ字を開発した人です。この訳では、ロゴスを言霊(ことだま)と訳しました。「はじめに言霊あり、言霊は神とともにあり、言霊は神なり。この言霊ははじめに神とともにあり」と、始まります。ここで言葉を意味する「言」という字が用いられますが、それが普通の言葉ではない、ということで、聖霊の「霊」という字を付け加えたのだろうと思います。現代の私たちからすれば、「言霊」などと聞くと、何か別のあやしい宗教を思い浮かべてしまいますが、そこにはそれが神と等しいものであり、神の霊をもったものである、という意味が込められていたのです。
 その後、明治12年(1879年)のN・ブラウンという人の訳では、すでに「ことば」となっています。そしていわゆる文語訳聖書は大正6年(1917年)ですが、この頃には「言」(ことば)と訳すのが、主流になっていました。この文語訳は、格調高い名訳でありまして、この訳で暗唱なさった方も多いのではないかと思います。この文語訳でこの部分全体(1〜5節)を読んでみましょう。

「はじめに言あり、言は神とともにあり、言は神なりき。この言ははじめに神とともに在り、よろづの物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に命あり、この命は人の光なりき、光はくらきに照る、しかしてくらきは之を悟らざりき」

(4)本田哲郎訳「聖書」

 ちなみに、私は現代語の聖書もいろいろと調べてみましたが、その中で最も心が引かれたものは、本田哲郎神父の訳でありました。この人については、本日発行の『いしずえ』の第1ページでも触れています。大阪の釜が崎という日雇い労働者の町で働く神父ですが、本来は超一流の聖書学者であり、フランシスコ会という修道会の日本管区の代表も務められたからです。これも美しい日本語ですので、1〜5節まで全体をご紹介したいと思います。

「はじめから『ことば』である方は、いた。『ことば』である方は、神のもとにいた。『ことば』である方は、神であった。この方は、初めから神のもとにいた。すべてのことは、この方をとおして、起こった。起こったできごとで、この方ぬきにおこったものは、なにひとつなかった。この方には、いのちがあった。このいのちこそ、人類の光であった。その光は、暗やみの中で輝いている。暗やみが、その光をしのぐことはなかった」(本田哲郎訳)。

 美しい日本語であると思います。ちなみに、この本田哲郎神父の翻訳は、まだ新約聖書全体がそろってはいないのですが、四福音書と使徒言行録が合本になって、『小さくされた人々のための福音』と題されて、出版されています(新世社)。私はこの聖書について、「私の選んだ1冊」として、推薦したことがあります(『アレテイア』第34号、2001年9月、日本キリスト教団出版局)。

(5)「言」とは、どういう方か

 さて今日は、随分時間をかけて、このヨハネ福音書冒頭のさまざまな訳をご紹介いたしました。それは、いろんな優れた訳でこの部分を味わうことで、私の下手な解説よりも、このところのメッセージを、よりよく伝えることができるのではないかと思ったからであります。
 そういう意味では蛇足になりかねませんが、今さまざまな訳によって示されてきた事柄、つまり言(ロゴス)とは一体何か、あるいは一体誰かということを、4つほどの言葉でまとめてみたいと思います。
 第1に、そのお方は、単なる神の霊とか、表面的な意味での「神の言葉」を超えた存在、人格をもったお方である、ということであります。「カシコイモノ」という表現とか、本田神父訳の「『ことば』である方」という表現は、そのことをよく表していると思います。
 第2に、そのお方は、神と等しい方だ、ということです。あるいは端的に神だ、と言ってもいいのです。古典的な表現では、「神と同質である」と言います。ヨハネ福音書は、そのことを、「言は神と共にあった。言は神であった」という、一見矛盾するような表現で、言い表しています。
 第3は、そのお方は、「最初から、つまり天地創造の前からおられた」ということです。「はじめに言があった」と言います。つまりイエス・キリストとして2000年前に、この世界に来られたのだけれども、実はそのずっと前から父なる神のふところにおられた。それでは、一体いつからおられたのかということになるかも知れません。ダビデの頃なのか、モーセの頃なのか、もっと遡ってアブラハムの頃なのか、いや最初のアダムとどっちが古いのだろう。ヨハネ福音書は「もっと前からおられた。天地創造の前から存在しておられた。最初からおられたのだ」というのです。
 第4は、そのお方は、父なる神が天地を創造された時に、それにかかわられた、ということです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(3節)。ですからこの世界に存在するすべて創られたものには、イエス・キリストの意志が存在しているということになるでしょう。

(6)言葉は意志を表す

 さて、ではどうしてそういう風に人格をもった神と等しいお方が、「ことば」と言われるのでしょうか。私は、そこにはやはり積極的な意味があると思うのです。
 言葉とは、ただ事柄の伝達手段はありません。「言葉」、それは意志を表しています。この場合で言うと、神様の意志です。このヨハネ福音書の冒頭は、創世記第1章の天地創造の記事を下敷きにして記されたと言われますが、創世記第1章は、このように始まります。「はじめに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」
 神がこの天地を創造された時、すでにこの世界に対する、歴史に対する、そして人間に対する神様の意志があったのです。神の意志が、言葉を通して現実となった時、天地創造という出来事が起こったのだと、創世記は告げます。
聖書の言葉は、言いっぱなしの無責任な言葉ではありません。言葉が、出来事を起こす力をもっているのです。言葉が語られた時に、必ずその通りに実現するということです。
 神様は意志をもって世界を創造された。その神様の意志を、的確に伝えるために、言(ロゴス)が存在しました。そして最後には、その神様の言そのものであるお方が、肉をとって、私たちのもとに来られた。神様の意志を遠回しではなく、十分に伝えるために、形を取って、来られた。それがクリスマスのメッセージなのです。

(7)命の創造

 「その言に命があった」と続きます。生きているのです。生きている「ことば」。命をもつことば。いや命の源であると言ってもいいでしょう。「言によってできたものは命であった」という訳もありました。
 私はこれもとても大事なことであると思います。神様はいろいろなものを創造されましたが、一番の創造とは、やはり命ではなかったかと思います。人間はいろんなものを作れるようになりました。科学技術も進歩してまいりました。そういう意味では、「人間もだんだん神様に近づいてきたなあ」とおごることがあるかも知れません。
 しかしながら、命だけはどこまでも神様に帰すべきものであります。クローンなどということもありますが、それも厳密な意味では、命の創造ということにはならないでしょう。
 神様が最初の人間をお創りになった時の様子が、創世記に描写されています。「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。稚拙な表現ですが、神様こそが命の源であるという根源的な事柄をリアルに語っていると思います。
 その命の源がロゴス、すなわちイエス・キリストであった、ということを、この「言の内に命があった」(4節a)という言葉は語っております。そしてそれに続けて「命は人間を照らす光であった」(4節b)というのです。
 神様が、「光あれ」と言われると、光があったというのです。それまでは闇が天地を覆っていました。私は、このところに、神様の一番強い意志、天地を創られた目的、この歴史をどういう風に導いていこうとされるのか、という事柄が集約されているのではないかと思います。それは「この世に光をもたらす」ということでありました。

(8)光と闇

 今年も12月を迎えて、あと一月でこの年も終わろうとしています。振り返ってみますと、いろんな事件があり、あまり明るい年であったとは言えません。昨年の9月11日以降、世界は何か暗い闇に閉ざされているように思えます。重苦しい闇が世界を覆っております。アメリカとイギリスが今にもイラクを攻撃しようとしているのを、国連のイラクへの査察がかろうじてせき止めております。あるいは、私たちの国で最も大きなニュースであったのは、拉致されて北朝鮮へ連れ去られた人々のことでありましょう。そんなことがあってよいのか、と憤らざるを得ない、闇の濃い出来事でありました。
 光と闇と、どういう風に存在し、関係しているのか。量的に言えば、私たちの世界は、闇の方が大きい、闇が光を圧倒している、そのような世界に思えます。しかしクリスマスを告げる、この最初のメッセージは、こう記しています。「光は暗闇の中で輝いている」(5節a)。ヨハネ福音書の最初の部分は、小さな文章が並んでいますが、ここまではすべて過去形であります。ここで突然現在形の文章が現れるのです。「光は暗闇の中で輝いている」。この光、あの歴史の彼方で、最初に天地を照らした光は、この世界を照らし続け、今日も私たちを照らしているのです。
 光と闇を、二つ並べてみると、闇の方が優勢で、闇が世界を支配しているように見えるかも知れません。しかし実は将来を指し示しているのは、光の方なのです。「暗闇は光を理解しなかった」(5節b)とあります。以前の口語訳聖書では、「やみはこれに勝たなかった」と訳されていました。先ほどの本田哲郎訳聖書では、「暗やみが、その光をしのぐことはなかった」となっています。いずれにしろ、これは、闇の方が光よりも劣っている、闇は光に及ばないということであります。光の方が闇にまさっているのです。たとえ私たちが闇に包まれようとも、光の方が将来を指し示しており、そこに、神様の天地を創られた目的があり、そしてそれをはっきりと私たちに伝えるために、イエス・キリストをこの世界に遣わされました。この年もクリスマスを迎えるに当たって、まずそのことを心に留めたいと思います。