聖書の証しするもの

〜ヨハネ福音書講解説教(14)〜
詩編40章8〜12節
ヨハネ福音書5章31〜47節
2002年11月17日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)何がイエスを証しするのか

 本日、私たちに与えられました聖書の箇所には、「イエスについての証し」という題が付けられております。前回お話しした19〜30節の「御子の権威」と題された部分から、ずっと続いているイエス・キリストの言葉です。前回の箇所から、私は「イエス・キリストとは一体どういうお方であるか」ということを、三つの点からお話しいたしました。簡単に繰り返しますと、第一に「父なる神と一体のお方である」ということ、第二に「命と復活の主である」ということ、第三に「裁きの権能を授かっておられるお方である」ということでありました。
 その部分で、イエス・キリストがそのように、いわば自分が神の子であるようにおっしゃったので、ユダヤ人たちが激怒いたしました。彼らは、当然、一体何を証拠にそんなことを言うのか、誰がその証人なのかと、食ってかかろうとしていたのであろうと思います。それで今日の箇所において、イエス・キリストは、御自分が神の子であることを証しするものは何であるのかということについて、お話をなさったわけです。
 これまでも申し上げていますように、このイエス・キリストの言葉は、ヨハネ福音書記者自身の筆、つまり彼の神学を通して、あるいはヨハネ福音書記者の生きていた状況を前提に記されていますので、そのことをご承知おきいただきたいと思います。
 もう一度、主題を繰り返しますと、「イエス・キリストを神の子であると、証しするものは一体何であるか」ということです。ヨハネ福音書は、それに対して、肯定的側面と否定的側面の両方から答えようとしているのです。私は今日もまた、三つのポイントに焦点をあてながら、そのことについてお話をしていきたいと思います。

(2)父なる神による証し

 第一に、イエス・キリストを証しするのは、「父なる神ご自身である」ということです。最初にこう記されています。

「もし、わたしが自分自身について証しをするならば、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる」(31〜32節)。

 これは、証言というのが、自分以外の誰かによってなされなければならないという当時の裁判の行い方を前提にしております。ちなみに申命記19章15節にこういう律法があります。

「いかなる犯罪であれ、およそ人のおかす罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」。

 証言というのは、自分がそうであると言い張ってもだめだ。証言という限り、誰かその人以外証言が必要だということです。それはよくわかることです。ここで二人以上と定めているのは、おもしろいですね。一人だけだと誰かが偽証すれば、えん罪が成り立ってしまうわけですから、二人以上とする事によって、できるだけ間違いを減らそうと言うことでありましょう。
 イエス・キリストはもちろん、ここで犯罪の立証をしようとしているわけではありませんが、この当時の律法を拠り所にして、話を進めておられるわけです。それは、自分は、自分で神の子であると言い張っているのではないということ、さらに自分には二人以上(二つ以上)の証しがあるということです。そして「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と言って父なる神をほのめかし、「その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」というのです(32節)。
 もちろん、これは当時のユダヤ人が納得するはずのないことであります。彼らは、むしろその点をついて、イエス・キリストを攻撃しようとしているわけですから、その父なる神がイエス・キリストを証ししているというのは、とんでもないということになるでありましょう。しかし主イエスは、自分を証しするものは、何よりもまず、誰よりもまず、父なる神ご自身であるということを譲らないわけです。

(3)洗礼者ヨハネの証し

 主イエスは、彼らがどんな答えを求めているか、ちゃんとご存じでありました。「あなたがたが求めているのは、もっと目に見える人間的な証しだろう。それならば、実は私にだって確かにいる」と言って、洗礼者ヨハネを引き合いに出します。
 洗礼者ヨハネについては、これまでも申し上げてきましたので、詳しくは申しません。すぐれた預言者の一人であり、イエス・キリストを指し示した人物であると言っておきましょう。彼は、ユダヤ人たちからも一目置かれていたことがわかります。

「あなたたちはヨハネのもとへ人を送った。彼は真理について証しをした」(33節)。

 主イエスが「自分の他の別の証人」と言われたときに、誰しもが真っ先に思い浮かべたのが、この洗礼者ヨハネでありましょう。そして確かに、ユダヤ人たちとの議論のためであれば、洗礼者ヨハネこそは、最もふさわしい証人であったであろうと思います。主イエスご自身も、洗礼者ヨハネのことを非常に高く評価されております。「ヨハネは燃えて輝くともし火であった」(35節)と言います。
 しかし、主イエスは、その洗礼者ヨハネさえも、自分の証人には数えない、とおっしゃるのです。

「わたしは人間による証しは受け入れない」(34節)。

 この主イエスの言葉は、一見、洗礼者ヨハネのことを退けておられるようで、少し戸惑いますが、こういうことであろうと思います。同じ「証し」でも、日本語で言えば、「証言」という言葉と「証明」という言葉がありますが、その違いとでも言えば、いいでしょうか。ユダヤ人たちは二人以上の証言によって、それが真実であることを証明しろ、と言ったわけですが、主イエスは、洗礼者ヨハネの言葉を証言として受け入れ、その意義も十分に認めつつ、それは証明にはならないし、その証明を必要ともしないと、おっしゃった。自分が語っているのは、それを超えた次元の事柄であることを告げようとしておられるのです。
 だから自分を証しするものは、いかなる人間でもなくて、父なる神ご自身なのであり、そこにこそ、自分は拠って立っているのだと強調なさったわけです。
 つまりイエス・キリストが神の子であるということは、洗礼者ヨハネがそれを証言するかどうかにかかっているのではないということです。洗礼者ヨハネは、「ここに真理がある」という風に、イエス・キリストを指し示しました。しかしもしもヨハネがそれをやめたとしても、イエス・キリストが神の子であることをやめるわけではないのです。洗礼者ヨハネに限らなくてもいいでしょう。私たちクリスチャンは、「イエスは主である」と告白し、それを自分の生き方でもって証ししようといたします。しかし私たちのうち誰かが、いやたとえすべての人が、それをしなくなったとしても、「イエスは主である」ことに変わりはないのです。イエスが主であり、神の子であるということは、そういう人間の証しを超えたところに拠って立っているのです。「わたしにはヨハネの証しにまさる証がある」(36節)とは、そういうことであります。それは第一には、父なる神ご自身であると言われたのです。そのことは37節でも、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」と繰り返しています。

(4)イエス自身の業による証し

 しかしながら、父なる神は見えない存在であって、それだけでは、ユダヤ人にとっても私たちにとっても、証しとは言えないようなものです。ですからそれがどのような形で、私たちのもとに届くのかということが、次に問題になってきます。普通であれば、そこでこそ人間の証し、証言、洗礼者ヨハネのような存在ということになるわけですが、主イエスは、それでもない(人間の証しはいらない)、とおっしゃったのです。
 そこで、二つ目の証しとして、ご自身の「業そのもの」をあげられました。「わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」(36節)。「自分がそうだ」と言い張るのではなくて、イエス・キリストのなさったことが、イエス・キリストが主であり、神の子であることを証しするというのです。
 「業」ということで、一つには「しるし」としての奇跡があるかも知れません。しかしもしもそうだとしても、ただ単にこんな不思議なことができるという力の証明であるよりは、愛のしるしとして意味があると思うのです。イエス・キリストの奇跡は、愛のあらわれなのです。しかしむしろ、私はイエス・キリストの生涯全体、そしてとりわけ十字架の姿の中に、その究極の「業」があると思います。
 前にも一度お話したことがあると思いますが、イエス・キリストが十字架にかかられた時に、主イエスは、下から「十字架から降りてみろ。そうすれば、お前が神の子であると信じてやる」とあざけられました。しかし主イエスは、そこで「降りてみせる」という不思議な業によってではなく、「十字架から降りない」という愛の業によって、神の子であることを証しされたのです。

(5)洗礼者ヨハネへの伝言

 洗礼者ヨハネが、やがて捕らえられて、牢屋に入ったときに、彼は本当にイエス・キリストが来るべきメシアであったのかと不安になりました。そして自分の弟子をイエス・キリストのもとに遣わして、直接イエス・キリストにこう尋ねさせるのです。

「来るべき方は、あなたなのでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3)。

 それに対して、主イエスは、どうお答えになったでしょうか。「そうだ。私だ。安心しなさい」とは言われなかったのです。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11:4〜5)。

 そういう風にお答えになりました。どういうことかと言いますと、言葉で、「そうだ。私だ」というよりも、「一体何が起こっているかをよく見なさい。それが、私が誰であるか、来るべきメシアであるかどうかを証ししている」ということなのではないでしょうか。それが二つ目の証しであります。

(6)聖書による証し

 イエスが掲げられた三つ目の証しは、聖書でありました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(39節)。

 ここで言う「聖書」とは、いわゆる「旧約聖書」のことです。旧約聖書には、イエス・キリストという名前は全く出てきません。イエス・キリストよりも前の時代に記されたものです。しかしキリスト教では、これもまたイエス・キリストについて預言をし、間接的に証しをしている書物としてとらえ、直接、イエス・キリストについて証言している「新約聖書」と共に、「旧約聖書」として大事にするのです。私も意識的に、礼拝の中で、旧約聖書と新約聖書の両方を読むようにし、説教も、しばしば旧約聖書に基づいてするようにしています。
 旧約聖書の中には、有名なイザヤ書53章のように、ほとんどそのままイエス・キリストのことを指し示していると思われるような言葉もあれば、それとかけ離れたような絶望に満ちた言葉、全く救いがないように思える言葉、あるいは呪いのような言葉もあります。しかしそのような言葉でさえも、それは間接的に救い主を待ち望んでいることを表しており、そういう形でイエス・キリストを指し示しているのだと思います。
 先ほど、詩編40編を読んでいただきましたが、そこにはこう記されていました。

「御覧ください、わたしは来ております。
わたしのことは巻物に記されています。
わたしの神よ、
御旨を行うことをわたしは望み、
あなたの教えを胸に刻み、
大いなる集会で正しく良い知らせを伝え、
決して唇を閉じません。」

 この「わたし」は、直接的にはイエス・キリストのことではありませんが、私たちはこれを読む時に、「ああイエス・キリストが、この詩人の口を通して、このように語っておられるんだ」と受けとめることができるのではないでしょうか。
 「あなたたちは一生懸命、聖書を研究しているけれども、肝心要のそのことが分かっていない。しかし注意深く読めば、それがわかるはずだ。これは私について書いてある書物なのだ」と、主イエスは言われるのです。そしてユダヤ人たちは、聖書によってイエス・キリストを告発し、聖書によってイエス・キリストを弾劾しようとしているわけですが、実は反対だと言う。

「あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである」(45〜47節)。

 ここでモーセと言うのは、旧約聖書の代名詞と受けとめてくださってよいと思います。旧約聖書は、モーセによって書かれたと信じられていたからです。

(7)聖書は言う、「主われを愛す」と

 私たちは、この時代の人々と違って、新約聖書も持っています。それは旧約聖書以上に、イエス・キリストについて、直接証しをしている書物です。そしてそれは何よりも、イエス・キリストが、愛に満ちたお方であることを証ししています。主イエスは「わたしがあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない」(45節)と言われました。訴えるどころか、命をはってかばってくださったと言えるでありましょう。
 私たちは今日、「主われを愛す」という讃美歌(484番)を、従来の歌詞で歌いました。

「主われを愛す、主は強ければ、
われ弱くとも、恐れはあらじ。
わが主イェス、わが主イェス、
わが主イェス、われを愛す」。

 これは日本語として、本当にいい歌詞で、心に響くものでありますが、実は原文にある大事な言葉を省略しています。それは「聖書は私にそう告げている」という言葉です。原文はこういう歌詞です。

" Jesus loves me! This I know,
For the Bible tells me so.
Little ones to Him belong;
They are weak but He is strong.
Yes, Jesus loves me. Yes, Jesus loves me.
Yes, Jesus loves me. The Bible tells me so."

「イエス様は私を愛しておられます。
私はそれを知っています。
聖書が私にそう告げているから。
小さい者たちも彼につながっています。
彼らは弱い。でもイエス様は強い。
そう、イエス様は私を愛しておられる。
聖書は、私にそう告げている。」

 これは子どもの讃美歌でありますが、聖書は一体私たちに何を証しし、何を告げているかということを、非常に端的に言い表していると思います。それは「イエス様が私を愛しておられる」ということであります。そしてそのことは、このヨハネ福音書の言葉が語っていることに通じるのではないでしょうか。