死から命へ

〜ヨハネ福音書講解説教(13)〜
エゼキエル書37章1〜6節
ヨハネ福音書5章17〜30節
2002年11月3日
経堂緑岡教会    牧師  松本 敏之


(1)召天者記念礼拝

 本日は、召天者記念礼拝として、この礼拝を守っております。これは日本基督教団の暦に基づいたものでありまして、教団では、この11月第一日曜日を「永眠者記念日」と呼んでおりました(現在は「聖徒の日」と呼ぶようになってきています)。確かに死んだ人を永眠者(永遠に眠る者)というのは、キリスト教の信仰と矛盾する、あまりふさわしくない呼び方でありますので、「召天者(天に召された者)記念礼拝」というのは、キリスト教信仰にふさわしいと思います。私がかつて副牧師として働きました阿佐ヶ谷教会では、在天会員という呼び方をしておりました。「今、天にいる会員」という意味ですが、これも教会らしい呼び方であると思います。人が亡くなるということは、逝去するとか、天に召されるとか、いろんな言い方があるのですが、「あの方は二階座敷に上がられた」という言い方をする教会もあるそうです。もしかすると、その教会は二階に霊安室があるのかも知れませんが、そういうことを超えて、「上に行かれたけれども、すぐそばにおられるのだ」という気持ちがよく表れていると思います。
 今日の礼拝も、私たちはただ亡くなった方を追悼する、昔を思い起こして礼拝をするということに留まらない意味をもっていると思います。今日はかつてこの教会に在籍された方々のご遺族がたくさんご出席なさっているようですが、普段お見かけしないその方々を通して、私はかつての会員の方々が天にあって、一緒に礼拝をしておられるのだという気持ちを強く持ちました。そしてキリスト教の信仰は、まさにそうしたこと、つまり天にある者も地にある者も、共に礼拝をするのだ(エフェソ1:10参照)ということを実感させてくれるものではないでしょうか。
 さて私たちは、ヨハネ福音書を続けて読んでいますが、今日も先週の続きの部分、ヨハネ福音書第5章17〜30節を読んでいただきました。この箇所は、何かの出来事ではなく、主イエスの説教とでも言えるような長い話ですので、少しわかりづらいと思われるかも知れません。しかし私は今日、召天者記念日にふさわしい言葉が与えられたと思っています。このところには、イエス・キリストがどういうお方であるかということが、よく示されております。今日は、この箇所を通して、イエス・キリストがどういうお方であるかということを三つの点から、お話ししてみたいと思います。

(2)父なる神と一体のお方

 第一は、「イエス・キリストは父なる神と一体のお方である」ということです。こう記されています。

「子は、父がなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。」(19〜20節)

 イエス・キリストは、父なる神と一体であり、父なる神のお考え通りに、この地上で働かれる方だと言うことです。イエス・キリストの方でもそうであるし、父なる神の方でも、イエス・キリストを愛して、すべてを示したというのです。そして少しとばして、「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」(22〜23節)と語られました。
 この言葉はユダヤ人たちを驚かせ、怒らせたことでありましょう。ユダヤ教では、どんなにすぐれた人間であっても、父なる神との間に一線がひかれていたからです。この世に生を受けた人間が、父なる神の子である、そして神に等しい者であるということは、考えられないし、許されることではありませんでした。それは父なる神に対する冒涜であったと言えます。
 主イエスはこの言葉に先立って、17節でも「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」と、自分と父なる神が一つであることを遠回しに語られましたが、それを聞いたユダヤ人たちは、「このためにますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけではなく、神を御自分の父と呼んで、御自身と等しい者とされたからである」(18節)と記されています。
 しかしながら、そこにこそキリスト教のキリスト教たるゆえんがあるのです。その点が、キリスト教が他の宗教と違うのです。キリスト教において、イエス・キリストというお方は、ただ単に一人の優れた預言者であるだけではありませんでした。あるいはキリスト教の教祖というのでもない。確かにイエス・キリストはすぐれた預言者でありました。父なる神の意志を人々に伝える、優れた器でありました。
 ある時、イエス・キリストは弟子たちに「人々は、人の子(イエス・キリスト)のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは、こう答えました。「『洗礼者ヨハネ』だと言う人も、『エリヤ』だと言う人もいます。ほかに『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」これらは当時のユダヤ教の枠内で言えば、最上級の賛辞、ほめ言葉でありました。しかし、イエス・キリストはそれにとどまらないお方でありました。主イエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われ、弟子の一人であるシモン・ペトロは、「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」という有名な最初の信仰告白をいたしました(マタイ16:13〜16)。このペトロの信仰告白に連なる者がクリスチャンと呼ばれる存在なのです。
 預言者というのは真理を指さす人ということができるでしょうが、イエス・キリストというお方は、そのように真理を指しながら、同時に御自身が指し示される存在でありました。イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と言われました。「道」というのは、真理に到達することを導いてくれる媒介、あるいは救いにいたらせてくれる道筋と言えるかも知れませんが、その「道」であるイエス・キリストそのものが同時に、「真理」であり、「命」なのです。預言者をこの世に送り続けてくださった神様は、最後に御自分に等しい御子イエス・キリストをこの世に送って、「ほらここに真理がある。これに連なれ。ほらここに命がある。これに連なれ」と提示してくださったのではないでしょうか。

(3)復活の主であるお方

 第二は、「イエス・キリストは復活させられた方であり、同時にまた私たちを復活させてくださる方である」、ということです。そしてまた、イエス・キリストこそ、命の主であり、命をお与えになる方であります。先ほどの20節の後半は、このように続いています。

「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命をお与えになる。」

 「これらのこと」というのは、歩くことのできなかった病人を立ち上がらせ、歩けるようにさせられたことです(8〜9節)。そのところで申し上げましたが、「起き上がれ」という言葉は、実は「死人よ、よみがえれ」という言葉と同じ言葉なのです。つまり、あの足の歩けない人を立ち上がらせた出来事は、死者の復活をも指し示していたのだと言えるでしょう。
 そして、このようにもおっしゃっています。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(24節)

 何と力強い宣言であり、何と大きな慰めでしょうか。
 ここに「はっきり言っておく」と語られています。この言葉は、何か大事なことを語られる時の定型句であったようで、聖書の中に何度も現れます。今日の箇所でも、この24節の他にも、19節、25節でも使われています。以前の口語訳聖書では、「よくよくあなたがたに言っておく」、文語訳聖書では「誠にまことに汝らに告ぐ」と訳されておりました。昔の訳の方が、何か姿勢がぴんと正されるような感じがいたします。この「はっきり」とか「よくよく」とか「誠にまことに」というのは、なかなか訳すのが難しいのですが、訳さない方がかえってわかりやすいかも知れません。これは原語では「アーメン、アーメン」という言葉なのです。「アーメン」というのは、「その言葉は真実です」というような意味です。ですから私たちはお祈りの終わりに、「アーメン」と唱えますけれども、それは「その言葉は真実です」という意味なのですね。

(4)聖書の言う「死」と「命」

 さて、この言葉の内容ですが、それは「イエス・キリストの言葉を聞いて、神を信じる者は死から命へと移っている」ということです。この言葉が意味する「死」とか「命」とか言うのは、私たちの肉体的な死や命、あるいは生物学的な死や命ということを超えたものを指し示しております。
 聖書が言う「命」というのは、神様とつながっている状態のことなのです。逆に「死」とは、神様から切り離された状態という風にお考えくだされば、よいのではないでしょうか。ですから私たちが肉体的な死を経験していても、神様とつながっているならば、「命」は途絶えないのです。逆に肉体的には生きていても、心臓が動いて、脳が動いていても、神様から切り離されているならば、それは死んでいることになると、言わなければならないかも知れません。しかしそれは、私たちに身近な存在として、私たちのもとに来てくださったイエス・キリストにつながることによって回復する。イエス・キリストにつながる時、私たちは死すべき存在であっても、死んだのと同じ状態であっても、再び命の中へ入れられる。死から命へと移されるのです。それが聖書の語る真理であります。
 そして「はっきり言っておく」と、もう一度繰り返して、次のように告げるのです。

「死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」

 この言葉は、聖書の時代を超えて、私たちに告げられたイエス・キリストの力強い約束ではないでしょうか。「私につながれ。わたしとつながって命を得よ。私の声を聞いた者は生きるのだ。」そのように、イエス・キリストの声は、今この場で、みなさんお一人お一人に向かって告げられているのだと思います。

(5)裁きの権能をもつお方

 三つ目のポイントは、「イエス・キリストは、裁きの権能を父なる神から授かっておられるお方である」と言うことです。

「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を得るために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」(27〜29節)

 この言葉は、私たちを戸惑わせるかも知れません。それは一見、「いいことをした人間は天国へ行き、悪いことをした人間は裁かれて地獄へ行く」という、いわばどこの国にでもある因果応報の考えをあらわしているように見えるからです。確かにそのことと無関係ではありません。私たちはそのように自分の生活、行いを、神様の裁きという視点から見ておかなければならないでしょう。しかしそういうことを前提としながら、聖書のメッセージはそうした考えを、超えているのです。
 聖書は、人間の行った善いことと悪いことを天秤にかけて、善いことの方が重かった人間を天国へ送り、悪いことの方が重かった人間を地獄へ送るという考えではありません。むしろそのようにするならば、「だれ一人として、救われる者はいない」ということを厳しく告げています。だれ一人として裁きを免れ得ない。だれ一人として、救われない、というのです。しかしながら、そこで私たちのそのような罪をキリストが背負い、十字架にかかって死に、私たちが受けるべき裁きをキリストがお受けくださった。それによって、本来キリストが受けるべき「義」(神様に正しい者と認められること)を、私たちが受けたということです。そのようにして、私たちはイエス・キリストを通して神様とつながることを許された。取り替えっこが起きたということなのです。
 先ほど、「これらのことよりも大きな業を子にお示しになった」(20節)というのを、キリストの復活を指し示していると、申し上げましたが、もっと厳密に言えば、その前に十字架があったということを見落としてはならないでしょう。

(6)すべての人のために祈られたお方

 しかしながら私たちはその桁違いに大きなキリストの恵みの御業というものを単純化、矮小化して、「だから洗礼を受けたクリスチャンは命を得て救われ、洗礼を受けていないクリスチャンは裁かれて、天国へ行けない」という風に理解してはならないと、思います。それは私たちの領域ではありません。神様の領域に属する事柄であり、このところの言葉で言えば、イエス・キリストにその権能が授けられている事柄なのです。
 確かに「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている」(24節)と書いてある。この言葉は、そのまま信じてよい言葉であります。それは私たちに与えられた聖書の約束です。そして私たちはそのように生きるように促されていることも確かです。
 しかし私たちは、実際にはそのように導かれずに死んでいった人も大勢知っているわけです。そうした人々は一体どうなるのだろうと、多くの人は考えるでしょう。私もふと考えます。しかし私は、そのような人々もすべて、イエス・キリストのよき御手の中に置かれているのだということを信じるのです。
 ここに「子も、与えたいと思う者に命を与える。父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せられている」(21〜22節)とはっきり記されていますが、その子なるイエス・キリストは、すべての人のために祈り、すべての人のために十字架にかかられたお方であるからです。十字架の上で死んでいきながら、自分に敵対し、自分を十字架にかけた人々のためにまで、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました(ルカ23:34)。これがイエス・キリストの最後の切実な祈りでありました。
 私には、その祈りがむなしく終わると言うことは考えられませんし、そのイエス・キリストの十字架よりも重い罪というものを想像することもできません。そしてイエス・キリストがそのように十字架の上で広げられた両手の中に、入りきらないような滅びの世界があるということは、私には考えられないのです。イエス・キリストがそのように祈られた方であることを知っているからこそ、「子も、与えたいと思う者に命を与える。父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せられている」という言葉の中に、私は希望と大きな慰めを見るのです。
 私たちの死と命、それは私たちの手を超えたところで神様の御手の中にある。そしてイエス・キリストの御手の中にあるということを深く心に留めたいと思います。