起き上がれ

〜ヨハネ福音書講解説教(12)〜
エレミヤ書17章21〜26節
ヨハネ福音書5章1〜16節
2002年10月27日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)天的な治癒力を求めて

 今日からヨハネ福音書の第5章に入ります。舞台はガリラヤのカナから、いきなりエルサレムに戻っております。6章では再び舞台がガリラヤになりますので、実は最初は6章と5章が反対であったのではないかと言われるのですが、それほど重要なことではないように思えますので、ここでは煩雑な議論は避けます。
 エルサレムの町の北方、約350メートルのところにベトサダと呼ばれる池がありました。池は二つ並んでおり、そのまわりに五つの回廊があったということです。つまり「日」という漢字のような池を想像していただければよいかと思います。まわりの四つの回廊の他に、その中央に二つの池の隔てのような回廊があったのでしょう。ベトサダというのは、(これまでの聖書ではベテスダとなっていましたが)、「恵みの家」(あるいは「あわれみの家」)という意味であります。しかしこのベトサダの池のまわりの情景は、この「恵みの家」という幸いな名前からはほど遠いものでありました。
 廊下には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。というのは、この池には病気をいやす力があると信じられていたからです。実は、この新共同訳聖書には、3節の後半と4節が欠けております。5節の前のところに十字架のような註のマークがついておりますが、ヨハネ福音書の一番最後、21章のうしろの部分に、それがつけられています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(212ページ)。さらに「この池で天使も水浴し、その後癒しを求める病人のために天使の天的な治癒力がいくらか水の中に残るのだ」、という説明もあるようです。

(2)写本家の誘惑

 余談になりますが、どうして聖書によって違いがあるのかというお話をしておきましょう。聖書という書物はオリジナル原本、たとえばヨハネ直筆のヨハネ福音書というのは残っておりません。今残っているのは、すべて手書きの写本です。ですから微妙に版によって違うわけです。さまざまな版の中で一体どちらがもとの形に近いのかを学者たちが検討をして、仮の原本を決めるのです。それを底本と言います。その底本をもとにして世界中の言語に聖書として訳されていきます。そして採用されなかった方の写本を異本と言います。「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」とは、そういう意味です。先ほどお読みした付録の部分も、書いてある聖書と書いていない聖書がある。どちらがより古いのかということを学者が調べたところ、どうやらない方が古いということです。つまり最初はなかったものを、後の誰かが挿入したということが分かってきたので、最近の聖書ではこれが取り除かれているのです。確かにこの説明がないと、7節の病人の言葉がよく分かりません。(「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」)聖書を書き写していたある人は、そういう言い伝えがあることを知っていたのでしょう。それでこの部分を書き写しながら、それがないと読む人がわからないだろうと思って、親切心で挿入しました。そうすると、それから後に書き写した聖書には、全部それが入ってしまったのです。親切心で、「これは聖書にふさわしくない」と思って、逆に削除してしまうこともあります。しかしそのようなことは「写本家の誘惑」と言って、本当はやってはいけないことなのです。ですから学者たちがどちらがオリジナルに近いかを判断する基準に、「わかりにくいもの程、オリジナルに近い可能性が高い」という原則があります。

(3)病に苦しむ人の群

 さていずれにしろ、そういう理由で、このベトサダの池のまわりには大勢の病人が横たわっていました。この情景を思い浮かべると、本当に心が痛む思いがいたします。そしてその情景は何か私たちの社会の縮図であるように思います。
 もちろん今日ではこの時代と比べると、多くの病気が克服されました。これまで絶対に治らないとされてきた病気でも、その原因が解明され、治療方法も見いだされてきました。しかしながら逆に、これまでは存在しなかった新しい病気も出現して、別の形で不治の病というものがやはり存在します。病気というものが、今日においても、私たちを襲う最も大きな苦しみの一つであることには変わりありません。そういう意味で、この病気に取り囲まれて苦しめられている人々の姿は、今日でも決して変わっていないと思うのです。

(4)孤独と競争の社会

 しかしそれよりももっと心が痛むのは、この病人の言葉(7節)の中にあらわれている事実です。それは一つには、「水が動くときに誰も自分を池の中に入れてくれる人がいない」ということです。つまりこの人には、彼の病気を共に苦しみ、治ることを共に祈り願ってくれる隣人がいませんでした。家族からもとっくに見放されていたのでしょう。38年です。最初は親が面倒を見てくれたかも知れませんが、恐らく親はもういないでしょう。友人もいない。恐らく神殿から、なにがしかの食べ物、捧げられたものの残りなどがここに配られていたのでしょう。あとは物乞いをして生きていたのであろうと思われます。
 二つ目は、「わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行く」ということです。とにかく水が動いたときを見計らって、何とか必死で自力で入ろうとしても、他の自分より軽い病気の人々が先に入ってしまうのです。彼のために同情してくれる人がいないだけではなく、こうした最も励まし合い、慰め合いが必要な社会においてすら競争原理が支配していたのです。競争というのは、トップのエリートクラスだけの問題ではないのですね。中位の生活をしている人にもそれなりの競争があり、社会の底辺の生活を余儀なくされている人にも何とかそこから抜け出そうとする競争があって、お互いに足を引っ張り合う。自分の隣にいる人間が隣人ではなく、お互いに笑顔であいさつを交わしつつも牽制しあって、自分が一歩先んじるチャンスを見計らっている。このことも私は、非常に今日的な光景ではないかと思いました。

(5)絶望とあきらめ

 三つ目は、彼の言葉に直接表れていない事柄です。それは彼の絶望、あきらめです。この彼の言葉は、もともとは、主イエスの「良くなりたいのか」(6節)という問いに対する答えでありました。ですから、「はい、良くなりたいです」とか「もちろんです」とか、そういう答えが求められていたのです。しかし、彼はもはやそう答える気力もないほど、治ることを期待していません。「何回その言葉を聞いたかわかりません。しかし誰も治すことのできる人はいませんでした」と思ったかも知れません。あるいは「何を当たり前のことをお聞きになるのです」と思ったかも知れません。「もうそんなこと聞かないでください」と相手をせせら笑い、自分でも自分をせせら笑ったかも知れません。しかしそういうことさえ口に出さないのです。相手の機嫌を損なわないようにして何かを恵んでもらわなければならない、と思ったのかも知れません。彼は、もうこの病の状態に慣れきって、事態はそこから変わりうるということを全く期待していないということ、それが三つ目の問題です。もしかすると、そこに一番の問題が潜んでいるのかも知れません。

(6)三つの命令

 しかしそうした絶望し、そのことに慣れきっているこの男の前に突然、主イエスが表れて、「良くなりたいのか」と尋ねられる。そしてその答えを聞かないうちに、突然、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命令をされました。ここに「起き上がる」「床を担ぐ」「歩く」という三つの動詞による命令が語られたのですが、この三つの言葉は、絶望の中から新しい出発をする象徴的な言葉であると思います。
 「起き上がらせる」という言葉は、元来は、「目を覚まさせる」という意味でありました。さらに興味深いのは、ヨハネ福音書の第2章に出て来る主イエスの言葉で、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2:19)という言葉がありましたが、あの「建て直す」というのも同じ言葉であり、さらに「死人を復活させる」というのも、この言葉なのです。絶望しきったこの男を、主イエスが立ち上がらされたということは、あたかも死人を復活させるような出来事であったのです。「良くなりたいのか」という問いにまともに答えることすらできないこの男に、「起き上がれ、目覚めよ」「立てよ、いざ立て」と言われたのです。
 次は「床を担げ」という言葉です。この「床」というのは、これまで彼がそこに横たわっていた場所、いわば彼を担いでいたものです。これからは反対に、お前がそれを担ぐのだということです。もうそれには頼ることはないという、積極的な姿勢を示しています。もっともそれがこの後の問題を引き起こすことになります。
 三つ目は、「歩く」ということです。歩き始める。もうその同じ場にはいない。そこから前進していくのです。これについては、特に説明の必要もないと思います。

(7)安息日律法の精神

 しかしながらこの物語は、残念ながらそれでハッピーエンドで終わるわけではありません。「その日は安息日であった」と、続いていきます。安息日にはどんな仕事もしてはいけなかったのです。ところがこの人は、イエス様に言われたとおり、床を担いで、歩いていたので、それを見とがめられました。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」(10節)。このことは、何か私たちにはおかしな話のように思えますが、これを理解する前提として、安息日律法の本来の精神は何であったのかということをお話ししておいた方がいいでしょう。
 エレミヤ書17章にはこう記されています。

「主はこう言われる。あなたたちは、謹んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい(これに引っかかったのですね)。……どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい。」(21〜22節)

 安息日律法の精神とは、一つには、ここに書いてあるように、安息日を聖別する。清いものとして取り分ける。そのことによって、神様を神様として立てるということです。そしてこれの他にもう一つ、忘れてはならないことは、自分が休むだけではなくて、奴隷も家畜もみんな休ませなければならないと言うことです(申命記5:12〜14参照)。
 これは非常に大事なこと、安息日律法の根本にある精神であろうと思います。このことは、いわば上から強制的に命じられないと、なかなか実行されないのです。雇用者、あるいは奴隷の主人というのは、その下で働いている者の休む権利を平気で踏みにじるからです。自分は休んでいても、奴隷や家畜は休ませない。そういう風に律法として、上から命令されないと、決して休むことができない人たち(家畜たち)がいたのです。あなたたちがエジプトにおいて、奴隷であったのを、主なる解放してくださったことを思い起こして、あなたがたも人や家畜を休ませよ、というのです。ですから、この律法は、弱い立場にある者たちへの配慮に満ちた律法であったと言わなければなりません。
 しかし、ここに登場するユダヤ人たちは、そういう安息日律法の根幹にある精神を考慮に入れることなく、この律法を表面的に文字通りに受けとめ、それによってよいことをすることまで禁じ、裁こうとしました。この男が、安息日に床を担いでいたことを見とがめ、ひいては主イエスのいやしの業をも裁こうとしたのです。主イエスのなさったことは、いわばこの男を解放したわけですから、まさに安息日律法の精神にかなったものでありましたが、彼らは安息日律法を表面的にのみ理解することで、主客転倒を起こし、かえってその精神を曲げてしまったのです。

(8)「もう罪を犯してはいけない」

 その後、この人は、神殿の境内でイエス・キリストに出会います。彼はそれまで神殿の境内に入ることができませんでした。実際にも歩くことができませんでしたし、そういう障害をもった人は、神殿の境内に入ることを許されていませんでした。イエス・キリストは、彼にこういう言葉をかけられました。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかも知れない」(14節)。これはなかなかデリケートな言葉です。これを表面的にみますと、彼が病気であったのは、彼の罪の結果であったと、受けとめられ得る言葉であるからです。しかしもしそうだとすれば、この後、生まれつきの盲人に出会って、主イエスがおっしゃったことと矛盾することになります。主イエスは、「(この人が生まれつき目が見えないのは、)本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)とおっしゃったからです。
 ある人が、罪というのはイエス・キリストを拒むことだ、と言いました(松永希久夫『ひとり子なるイエス』、158ページ)。イエス・キリストを拒むということは、一旦受け入れながら、それを再び見失ってしまう、救い主として見ることができなくなってしまうということでしょう。彼は、この後、自分を癒したのはイエス・キリストという方であったということがわかったので、それをユダヤ人たちに知らせるのです。密告と言ってもいいかも知れません。それによってユダヤ人たちは、一層イエス・キリストを敵対視するようになっていきます。ですからこの主イエスの言葉は、むしろ今後起きていくそうした事態と結びつけて考えた方がいいと思います。主イエスに出会い、大きな御業をしていただいたにもかかわらず、再びイエス・キリストを見失ってしまう。主イエスをキリストとして見ることができなくなってしまう。それを罪と呼んでいるのではないでしょうか。
 このことは、私たちにも通じることであろうと思います。私たちはイエス・キリストと出会って、それによって立ち上がらされ、新しく歩み始めたものであります。クリスチャンとはそういう存在でありましょう。しかしながら、それはすでに確保したものとして、ずっと続くわけではありません。いつも新しくその言葉を聞き、いつも新しく立ち上がらせていただかないと、私たちはイエス・キリストを見失ってしまうのです。そうすると、私たちはすぐにまた罪の中に舞い戻ってしまいますし、「さもないと、もっと悪いことが起こるかも知れない」という主イエスの言葉が、私たちにも響いてくるのではないでしょうか。
 主イエスの「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という言葉を、私たち自身に語られたものとして、今日新しく聞き、今週もまた歩み出したいと思います。