聞いて信じる

〜ヨハネ福音書講解説教(11)〜
ヨナ書3章1〜10節
ヨハネ福音書4章43〜54節
2002年10月20日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)預言者は故郷では敬われない

 先週まで私たちは、イエス・キリストがサマリア地方で一人の女性に出会い、その出会いをきっかけにしてサマリア地方にキリストの福音が広まったという物語を読んできました。主イエスはその後、本来の目的地であるガリラヤへ行かれます。

「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」(43〜44節)

 「預言者は自分の故郷では敬われない」。これは一般に語られていた一種のことわざ、言い回しのようなものであります。故郷では、人はどういう家柄の人であるか、小さい頃はどういう風であったか、すべて知られている。そのことがかえって、その人の真価を見抜く妨げになるということでしょう。イエス・キリストの場合もそうであった、ということが、他の福音書にはっきりと示されています。
 たとえば、マルコ福音書には、こう記されています。

「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか』。このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」(マルコ6:1〜4)

 話は余談になりますが、私は「預言者が故郷では敬われない」という言葉を読む時に、先月伝道集会にアメリカから来てくださった小山晃佑先生のことを思い起こすのです。世界中の神学者が最も注目する日本人の神学者であるにもかかわらず、日本では名前さえあまり知られていませんし、歓迎もされません。知る人ぞ知る神学者ではありますが、その多くは海外で彼に触れたことのある人たちです。小山先生の神学は、西欧の神学からは生まれてこない、アジア人ならではの発想なのですが、それがかえって大胆すぎて、西欧の神学に慣れてしまった日本のクリスチャンには奇異に感じられるからではないか、と思います。そうしたことは小山先生の例に限らず、あちこちで起きていることでしょう。故郷では、「あいつがそんなに偉いわけがない」というのが出発点になり、かえって対抗意識が強くなるのかも知れません。

(2)奇跡を見ていたので、歓迎した

 ところが、ヨハネ福音書は、他の福音書と同じように「預言者は故郷では敬われない」という言葉を引用しながら、次のように続けるのです。

「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」(45節)

 これは一見、その前の言葉とも、他の福音書が述べていることとも矛盾するように思えます。しかし実際には、同じことを指し示しているのだと思います。
 ガリラヤの人々の歓迎は、全く表面的なものでありました。2章23節に、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」と書いてありました。ガリラヤの人々は、実はエルサレムでそのしるしを見ており、イエス・キリストに、ぜひそのような奇跡を、自分たちの故郷でもやって欲しいという期待を込めて、大歓迎したのです(45節)。ですからイエス・キリストご自身は、それだけ歓迎されても決して有頂天にはならないし、かえって彼らの歓迎を冷ややかに見られたのです。

(3)イエスの奇跡は愛のあらわれ

 イエス・キリストのなさった奇跡というものを改めて思い起こしてみますと、主イエスは誰か人を引きつけるために、あるいは人に自分の力を見せつけるために、奇跡をなさったことはありません。主イエスの奇跡は、いつも何かしら愛ということと関係があります。愛と関係のない奇跡は、なさっていないのです。一見何の関係もなさそうに見える、「湖の上を歩かれた」(マタイ14:25)という奇跡でさえも、逆風に悩まされていた弟子たちを励ますためでありました。愛が自然の法則をもうち破ってあらわれたものが、主イエスの奇跡でありました。
 例えば、荒れ野の誘惑の場面で、悪魔が「これらの石をパンになるように命じたらどうか」と言うのですが、主イエスはその言葉を退けられます(マタイ4:3〜4)。愛と関係がないからです。また悪魔が、イエス・キリストを神殿の屋上に連れていって、「神の子なら飛び降りたらどうだ。天使たちが支えてくれるだろう」と言いましたが、飛び降りられません(同4:5〜7)。愛と関係がないからです。
 あるいは、イエス様が十字架にかかられた時に、下から「神の子なら自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」とあざけられました(マタイ27:40〜44)。しかし降りないのです。降りようと思えばきっと降りてみせることはできたでしょうが、降りないのです。降りることは、愛と関係がないからです。むしろ十字架に留まり続けることこそ、主イエスの愛の姿でありました。
 ですから、主イエスは、例えばいやしをなさいましたが、それを決して人に見せびらかせるためになさったのではないということを、よくわきまえておく必要があるでしょう。ブラジルにおりました時に、いやしを強調するキリスト教というのがよくありました。舞台に誰か人を連れてきて、「イエス・キリストの名によって歩け」と、伝道者が言うと、その人がさっと立ち上がって歩くのです。どうもあやしいものだと思います。
 私はイエス様であれば、いやしをなさることもできたであろうし、今日でも神様の力が誰かに宿る時に、そういうことはありうると思います。しかしそれによって伝道するというのは間違っています。それはイエス様の取られた道ではありませんでした。イエス様は奇跡をなさった後、「このことを誰にも話さないように気をつけなさい」と言われたり(マタイ8:4等)、みんなの興奮が最高潮に達しているところで、「さあ今こそ神のもとへ立ち帰りなさい」と伝道するのではなく、むしろ人を避けて退いて行かれたりしました(マタイ8:18、同14:22等)。奇跡というものは何かしら魔力のようなものを持っている、その力が変な方向に発展していく危険性があるということ、よくご存じであったからだと思います(48節)。

(4)見て信じるか、聞いて信じるか

 このところのガリラヤの人々も、いわばしるしを求めて、イエス・キリストを歓迎しているのです。そうしたことを知っておられるので、彼らの歓迎を否定するような発言までなさったのであります(48節)。
 このガリラヤの人々の反応は、これまでのサマリアにおけるサマリア人たちの反応と、非常に対比的であります。39節には、こう記されていました。「さて、その町の多くのサマリア人は、……女の言葉によって、イエスを信じた」。そして41節、「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」。さらに42節には、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当の救い主であるとわかったからです」と記されています。聞いて信じる信仰です。サマリア人というのは、ユダヤ人から見ればちょっと亜流なのです。ユダヤ人たちは自分たちこそ、信仰の本家本元だと思っている。ところがその本家本元のはずのユダヤ人が、エルサレムにしろ、ガリラヤにしろ、奇跡を見て信じる信仰に陥っているのに、亜流のはずのサマリア人は、聞いて信じる信仰をしっかりともっていた、という対比がここにあるのです。いわゆる信仰というものには、見て信じる信仰と、聞いて信じる信仰がある。しかし見て信じる信仰というのは、信仰と言っても本当の信仰ではないということが、このところに含まれているメッセージであります。
 ヨハネ福音書の20章に、復活のイエス・キリストが弟子たちに現れるという話があります。ただし最初の時は、弟子の一人トマスが不在でありました。彼は、いくら他の弟子たちの証言を聞いても、「私はイエス様の手に釘跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。
 すると主イエスは、トマスのためにもう一度現れてくださるのです。そして「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者にではなく、信じる者になりなさい」(20:27)と言われました。彼は、そこで主イエスの御心を知り、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白をしました。主イエスは、そこで有名な言葉を語られました。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)。

(5)奇跡を願う信仰

 さて前置きのような話が長くなりましたが、すでに本題に入っております。今日の物語を見ていきましょう。このところでもやはり見て信じる信仰から、言葉を聞いて信じる信仰へ、ということが主題になっております。舞台は、ガリラヤのカナです。そこはイエス・キリストが最初の奇跡、しるしを行われたところでありました。主イエスがそこに滞在しておられた時、カファルナウムという別の町から、イエス・キリストがカナに来ておられるということを伝え聞いて、一人の王の役人がわざわざ訪ねてきました。カファルナウムからカナまでは直線距離で約30キロであります。その道のりを越えて、イエス・キリストに会いにやってきたのです。彼の息子が、死にかけるほどの病気であったからです。「どうぞカファルナウムまで下ってきて、息子をいやしてください。息子が死にかかっているのです」と訴えました。主イエスは、それを聞いて「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)と、冷たい反応をされました。しかし彼はあきらめません。「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください」と、しつこく食い下がります。一言、冷たい言葉をかけられたからと言って、「はいそうですか」というわけにはいかない。あるいはここで切れてしまって、「俺を一体誰だと思っているのだ。王の役人だぞ。そんな口のきき方があるか」とか「無理矢理にでもひっぱってやる」と言うわけにもいかない。とにかく「お願いします。あなただけが頼りです」と頼み込むのです。そこで主イエスの方が、その熱意に負けたのでしょうか。あるいはこの王の役人の中に、何かしら、他のユダヤ人とは違う信仰のかけらを見て取られたのでしょうか。次のような言葉をかけられるのです。

「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。

(6)見ないで信じる信仰

 この言葉は、この王の役人を戸惑わせたことであろうと思います。彼が願ったことは、イエス・キリストを連れて帰って、いやしていただくことでありました。そのことは拒否されたのです。しかし全く拒否されたのではなくて、「あなたの息子は生きる」と宣言をされた。つまり彼はこの時、イエス・キリストの救いの宣言だけを聞いて、その言葉を信じるかどうかが問われたのです。彼は、「いやあなたをお連れするまでは信用するわけにはいきません」と言うことができたかも知れませんし、「ちょっとお待ちください。遣いの者をよこして、本当に治ったかどうか確かめさせますから」と言うこともできたかも知れません。しかし彼は、この時見ないで信じる信仰へと促されていきました。彼は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)のです。ヘブライ人への手紙11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。彼はこの時、まさに「望んでいる事柄を確信し」、まだ見ていない「事実を確認し」て、帰って行ったのです。そして帰って行く途中で、息子の病気がよくなったことを知らされました。そしてその時刻を尋ねますと、イエス・キリストが「あなたの息子は生きる」と宣言されたのと同じ時刻でありました。
 ここで大事なことは、彼はしるしを見て信じたのではなくて、見ないまま、言葉を聞いて信じた。その結果として、しるしが与えられたということです。あのカナの婚礼の時もそうでありました。マリアは、主イエスがまだ何もなされていない時に、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(2:5)と言いました。見ないまま信じたのです。その結果として、水がぶどう酒に変えられるというしるしが与えられたのでした。
 確かにしるしと信仰というのはそういう関係にあるのでしょう。信仰をもって見て、はじめてしるしは意味を持ってくるのです。もしも信仰をもってでなければ、しるしをしるしとして見抜くことすらできないかも知れません。この王の役人も、これを単なる偶然と呼ぶこともできたわけですが、彼は見ないで信じた結果、それをしるしとして見ることができたのだと思います。
 この王の役人の息子は、その時は元気になりましたが、当然いつかは死んでいきました。この王の役人も死んでいきました。そのことからすれば、この時のいやしというのは、一時的なものであった、と言えます。いやしとは多かれ少なかれ、そういうものです。いずれは誰もが死ぬのです。ですから最も大事なことは、そのような奇跡、しるし、いやしそのものではないと言わなければなりません。イエス・キリストが、この時「あなたの息子は生きる」と宣言なさった。その宣言を、彼は受けとめて帰った。この言葉こそ、息子の肉体的な命を超えたところで、真実なものとして残るものではないでしょうか。私たちがイエス・キリストの言葉を聞いて信じるという時には、やはりそのレベルでこそ深い意味を持ってくるのだろうと思います。「そして、彼もその家族もこぞって信じた」(53節)と記されています。むしろ結果として家族全体に信仰の輪が広がったことの方が、実は深い意味をもつのではないでしょうか。

(7)ニネベの町の奇跡

 今日は、もうひとつ、ヨナ書3章を読んでいただきました。ヨナは神様に遣わされてニネベの町へ神様の言葉を伝えに行きます。そこへ行くまでにも大きなドラマがあるのですが、とにかく今は、ニネベへ行き、「あなたたちはこんなことをしていたら、滅びるぞ」と預言をいたします。実は語っているヨナ自身が、ニネベの人々がそれによって悔い改めるとは、本気で信じておりません。ところが不思議なことに、そのヨナの言葉を聞いて、ニネベの町に奇跡が起こったのでした。王様だけではなく、町中のすべての人が悔い改めるのです。それはヨハネ福音書の方で王の役人が信じただけではなく、彼の家族全員が信じたということに通じます。そしてその結果として、神様がニネベを滅ぼすのをおやめになったことが記されています(3:10)。
 しるしに頼るのではなく、神の言葉を聞いて信じる信仰、そしてそこに示される神様の  真実に、改めて心を留めたいと思います。