伝えずにはいられない

〜ヨハネ福音書講解説教(10)〜
イザヤ書52章7〜10節
ヨハネ福音書4章27〜42節
2002年10月13日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)神学校日・伝道献身者奨励日

 本日は、日本基督教団の定める神学校日・伝道献身者奨励日であります。教会は伝道者を生み出し、育てていかなければなりませんが、そのために神学校はなくてはならない存在であります。そして教会は神学校へ神学生を送り出し、また献金を送って支援していかなければならないでありましょう。私たちもそのことを覚えて、今日の礼拝献金は日本基督教団の教師委員会宛にお送りし、そこから各神学校へ送っていただくことになっていますので、どうぞそのことを覚えて献金していただきたいと思います。
 神学校日にあわせて、伝道献身者奨励日となっております。恐らく今日は、日本各地の多くの教会で、神学生を迎えて、奨励や説教、あるいは証をしておられることと思います。神学生奨励日としないで、伝道献身者奨励日となっているのは、日本基督教団には神学校に行かないで牧師になるという道が開かれているからであります。教団ではCコースと呼んでいますが、3年から6年かけて、神学校で履修する一つ一つの科目を自分で勉強して、直接試験を受けていくのです。本人が公表していますので言ってもいいと思いますが、私たちの教会でも青年月間で証をしてくれた島谷基信兄が、このコースで伝道者になる道を志していますので、みんなで祈りをもって支えていきたいと思います。

(2)伝道は一対一の対話から

 さて今日は、「イエスとサマリアの女」と題された部分の3回目でありますが、神学校日・伝道献身者奨励日にふさわしい御言葉が与えられたと思っています。伝道ということについて、さまざまなことを示唆してくれる箇所だからであります。そしてそのことは、専門の伝道者、牧師でなくても、クリスチャンである一人一人にも、とても大切なことであると思います。
 この「イエスとサマリアの女」と題された箇所は、最後まで読んでみますと、この話がただ単にこのサマリアの女の救いにかかわるだけではなくて、これがサマリア地方にイエス・キリストの福音が広まるきっかけになったということがわかります。39節に「さて、その町の多くのサマリア人は『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」とあります。
 サマリア伝道というのは、福音書によって少し書き方が違うのですが、ヨハネ福音書に基づいて言いますならば、これがサマリア伝道の出発となった、サマリア伝道はイエス・キリストと一人の女性との小さな対話から始まったということであります。私は、この一対一の対話というのが伝道の基本であると思います。私たちは個人的な小さな対話によって福音を伝える、そこでその人の独特の問題を一緒に受けとめるということを、おろそかにしてはならないし、そんなことしかできないと、過小評価する必要もありません。その小さな対話を抜きにして、十把一絡げのような伝道というものはありえないと思います。
 たとえ何か大きな伝道集会のようなところで、あるいはかつてのスタイルで言えば、路傍伝道で、イエス・キリストの福音に触れたとしても、そこには、あるいはその後で、一対一の対話、一人一人違う問題や課題の中で、キリストの福音を受けとめていくということが必ずあると思います。そしてその小さな対話から大きな業が生み出されていく。この場合も、そこから、この女性が証人、あるいは伝道者となって、福音がどんどんサマリアの町全体に広がっていきました。イエス・キリストが「神の国は、まさにからし種のようなものだ」(マルコ4:31他)とおっしゃったことを思い起こします。

(3)伝える者自身が変えられる

 次に伝道というのは、まず伝える人自身がつくりかえられることから始まるということを覚えたいと思います。このサマリアの女はもともとは、この井戸に水くみにやってきたのです。ところが、その本来の仕事を忘れ、水がめを置いていってしまいました。

「女は水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った、『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません』。」(28節)

 水がめを置き忘れるほど、彼女はびっくりしたのです。この驚きは恐怖ではありません。喜びで心が弾んでいる。これを伝えずにはいられない。彼女はもともと人目を避けて生き、人目を避けて真っ昼間に水を汲みに来ていました。ところが今や、そんなことさえ、どうでもよくなってしまった。イエス・キリストとの出会いが、それほどまでに彼女を変えて、恥ずかしさをも克服させた。自分で人の中へ飛び込んでいく。人との隔ての壁をうち破らせたのです。
 私は、「喜びで心が弾んでいる」というのは、とても大事だと思います。魅力があるかどうかということです。あの人が、あんなに喜びに満ちているのは、いったい何なのだろう。何があの人の表情をあんなに明るくさせたのだろう。何があの人を変えたのだろう。私もそれを知りたい。私もそのようになりたい。そういうことがなければ、人は関心をもたないのではないしょうか。この時のサマリアの人たちも、それまでこそこそと人目を避けていた彼女と、まるで別人のような、明るい表情、はじけるような喜びに満ちた女性が目の前に現れたのを見て、そのような気持ちをもったのではないでしょうか。だからこそ、「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」(30節)のだと思います。
 残念ながら、それと反対のこともしばしばあります。「あれがクリスチャンか。あれがクリスチャンなんだったら、クリスチャンなんかにはなりたくない」。そういうつまずきになるケースは、ありとあらうるところにありますね。そこで私たちは、「いやあの人はクリスチャンになったから、あの程度ですんでいるのです。クリスチャンでなければ、一体どうなっているかわかりません」などと言ってフォローをいたします。いやそれは単なるフォロー、言い訳ではなくて、誰でも自分を振り返ってみれば、そういう思いはあるのではないかという気がいたします。しかしいずれにしろ、それでは福音は伝わらないですね。本当に人に伝わるのは、その人が福音によってどのように生きているかという生き様、生活、あるいは表情を通して、であろうと思います。

(4)イエス・キリストに出会わせる

 そして彼女は、「さあ、見に来てください」とイエス・キリストを指し示し、人々をイエス・キリストに出会わせようとしました。これも大切なことであると思います。最終的に大事なのは、「私がこのように変えられた。私はこのように生かされている」ということではなくて、「私を変えたのはこの方、私を生かしているのはこの方です」と、イエス・キリストを指し示すことであるからです。教会の中には、「私の役割は、友人や家族を教会に連れてくること。そこから先は牧師さんにお任せします」という人があります。まあ全く牧師に任されてしまっても困りますが、確かにそこで一番大切な役割は果たしてくださっていると思います。教会にお連れしてイエス・キリストに出会っていただくということです。ただ牧師は牧師で、同じようにイエス・キリストを指し示して、「そこから先はイエス様、お任せします」ということになるでしょうか。

(5)感動がない弟子たち

 ちょうど、イエス・キリストがこのサマリアの女と話しておられるところへ、弟子たちが町から買い物を終えて帰ってきます。彼らはイエス・キリストがこの女性と話しておられるのを見て、驚きました。当時、知らない女性と、むやみに話してはならなかったからです。それはラビの品位にもとることでした。彼らはその現場を目撃しました。しかし彼らは、何も尋ねません。「何かご用ですか。余程お困りになったことがあって、仕方なく話されたのですか」とか「一体先生、どうなさったのです。あんな女と話をなさって。人に見られたらどうするのですか」とか、複雑な思いを持ちながら、結局何も尋ねないのです。
 私は、この弟子たちは、このサマリアの女と対照的であると思います。サマリアの女の方は、主イエスと出会って、疑問に思っていることを何でも率直に尋ねました。それで少しずつ変えられていきました。
 ところがこの弟子たちは、心の中で不思議に思っても、それを「こんなことを聞いてはいけない」とためこんでしまったのです。この続きを読んでもそうです。恐らく気まずい沈黙が続いた後に、弟子たちは「ラビ、食事をどうぞ」と言いますと、「わたしにはあなたがたには知らない食べ物がある」(32節)と言われました。これも意味深長な言葉ですが、弟子たちはそれを聞いて、「誰かが食べ物を持ってきたのだろうか」と互いに言い合ったとあります。ここでもそれを直接主イエスにぶつけるのではなくて、自分たちの中で悶々としていたのです。
 私は、この弟子たちは常識人間の典型であるような気がいたします。主イエスがサマリアの女と話しておられるのを見て、それが常識を超えたことであるので戸惑いました。常識の範囲内だけで考えようとする。主イエスに従って旅をしていたのですが、何か彼らの姿には喜びがないように思えます。もしかすると長い旅をして、疲れていたのかも知れませんが、主イエスの行かれる所に仕方なくついて行っている感じがいたします。先日の小山晃佑先生のたとえで言いますと、「ゆで卵」的人間ということになるでしょうか。すでに固まってしまっているので、融通が利かないのです。
 それに対して、このサマリアの女の方は喜びで弾んでいる。主イエスはこう言われました。

「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは『刈り入れまでまだ四ヶ月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」(34〜35節)

 そういう状態であることを弟子たちに告げるのです。「刈り入れを待っている」状態とは、この後にサマリアの人々がイエス・キリストを受け入れていくことを予感させる言葉です。弟子たちがそのように何もしないでいる間に、その弟子に代わるようにして、イエス・キリストのところから町に出ていって、イエス・キリストを宣べ伝える仕事をしている対比が鮮やかです。

(6)種まきと刈り入れ

 もう一つ、その後に書いてあることを見てみましょう。

「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈り取る人も、共に喜ぶのである。そこで『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざの通りになる。」(36〜37節)

 種まきと刈り入れは、普通は一人の人によってなされるものです。種まきだけをするのではやる気がなくなってしまいます。やがて色づいて刈り入れの時がくる。それを楽しみにして、種を蒔くものでありましょう。ところが伝道というものは必ずしもそうではありません。ここに記されていることわざのとおりに、しばしば「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということになるのです。

「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」(38節)

 それはまず、イエス・キリストが種を蒔いたもの、労苦したものを、やがて弟子たちが刈り入れる日が来るということでありましょう。そしてそこでまた弟子たちが種を蒔いたものをその次の世代が刈り取っていくのです。時には、種まきだけをして、殉教者として死んでいく人もありました。その一番の典型がイエス・キリストであります。一粒の麦が地の上に落ちるように死んでいかれましたが、それが後に実を結ぶようになっていきました。
 このことは、今日の教会においても忘れてはならないことであろうと思います。私たちの教会が今日あるのは、多くの先輩の伝道者、そして信徒の方々の種まきのゆえであります。その方々が種を蒔いてくださったものを、私たちが今、刈り入れているのです。ですから常に歴代牧師や先輩信徒の方々の労を思い、感謝しなければならないと思います。そして同時に私たちも、次の世代の人々がやがて収穫を得ることができるように、新たに種まきをしていかなければならない。刈り入れをしながら種まきをしていく。一つの業が刈り入れであると同時に、種まきになっていくのです。それが伝道の業の不思議なところです。そのようにして初めて、「こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」(36節)ということが実現するのではないでしょうか。
 ですから種まきの仕事をして、すぐに効果が見えなくても、意気消沈する必要はありませんし、効果が見えなくても、それを続けていかなければなりません。ある統計によりますと、成人してから教会に来てクリスチャンになる人たちの8割は小さい頃に教会学校に行っていたか、あるいは若い頃にキリスト教主義の学校に通っていたか、どこかでキリスト教の福音の経験に触れているのだそうであります。そういう人が圧倒的に多いのだそうです。そういう意味でも種まきの業の重要性というものを改めて覚えさせられるのではないでしょうか。

(7)地方の教会と都会の教会

 また「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」ということのためには、地方の教会と都会の教会の関係も考えていかなければならないでしょう。地方の教会はしばしば苗床教会と呼ばれます。一生懸命種を蒔き、苗を育てたところで若い人たちは、東京や大阪の都会へ出ていってしまう。そして教会を探して、都会の教会のどこかに根付きます。つまり地方の教会の種まきや苗床の実りを都会の教会は得ていると言えるわけです。そこでそのような地方の教会にどれだけ感謝をしているか、あるいは「共に喜ぶ」ために、どれだけその責任を果たしているだろうかということが、都会の教会に問われているのではないでしょうか。

(8)美しい伝道者の「足」

 今日は、もう一箇所イザヤ書52章の言葉を読んでいただきました。

「いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
  シオンに向かって呼ばわる。
……
主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた
地の果てまで、すべての人が
わたしたちの神の救いを仰ぐ。」
(イザヤ書52:7、10)

 あのサマリアの女は、いわば伝道者の役割を果たしたと言えると思いますが、このイザヤ書の言葉は、そうした福音を宣べ伝える者の働きがいかに大切であるか、いかに美しい者であるかということを語っています。そのような福音を宣べ伝える者、伝道者の働きがあって、神様の御業は進展するのです。神様がそのようにして大切な使命を人間に託されているのだと言うこともできるでありましょう。
 そのことを私たちも心に留め、神学校のために祈り、献金もし、神学生、伝道献身者を支えていきたいと思います。