対立を超えて

〜ヨハネ福音書講解説教(9)〜
イザヤ書2章1〜5節
ヨハネ福音書4章16〜26節
2002年9月22日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)ユダヤとサマリア

 先週から「イエスとサマリアの女」と題された物語を読んでおります。イエス・キリストはユダヤ地方で宣教活動をしておられましたが、洗礼者ヨハネよりも多くの人々を集めるようになると、ファリサイ派の人々の敵対心は、洗礼者ヨハネからイエス・キリストへと向けられていったようであります。それを知ったイエス・キリストは、無用な対決を避けてか、北部のガリラヤ地方へ移動することにしました。ユダヤからガリラヤへの最も近道は、その間のサマリア地方を横切ることでありましたが、ユダヤ人はあえてそれを避けて、いつも東の方をぐるりと回って遠回りをしておりました。彼らはサマリアを汚れた地とみなし、絶対にそこを通ろうとしなかったからです。
 ユダヤ人とサマリア人の対立は、古くはBC935年、ソロモン王の死んだ後、王国が北と南に分裂した時にさかのぼりますが、もう少し後の時代からお話しいたします。BC721年に北王国イスラエルが滅亡し、その都であったサマリアはアッシリア軍によって支配され、その時からメソポタミア、小アジアから外国人がたくさん、サマリアの地に移り住むようになりました。サマリアはそれによって半異教的な混血民族になり、民族の純粋性を尊ぶユダヤ人との間に対立が生じるようになったということです。ユダヤ人はサマリア人と交わることを嫌い、サマリア人の方でもこれに対抗してエルサレムには行かず、ゲリジム山に神殿を建ててそこで礼拝するようになりました。そのようにして両者の対立が深まっていた。それが時代背景であります。

(2)サマリアを通らねばならなかった

 しかしながら、イエス・キリストの一行はあえて、そこを通り抜けてガリラヤへ向かおうとしていました。「(イエスは、)ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」(3、4節)とあります。この言葉には、強い必然性が込められています。イエス・キリストはどうしてもサマリアを通る必要があったということです。それは、個人的レベルで言えば、このサマリアの女と出会うためであったということかも知れませんし、もっと大きなレベルで言いますと、主イエスの言葉に表れていますように、サマリアとユダヤの対立を克服されるためであったと、言うこともできるでありましょう。

(3)魂の奥深い渇き

 さて彼女は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と言いましたが、主イエスは、彼女の言葉に直接には答えられません。唐突に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)と言われました。彼女にしてみれば、一番聞かれたくないことを聞かれた、一番触れられたくない部分に触れられた、ということになるでありましょう。
 主イエスは、なぜ突然そのことに触れられたのでしょうか。彼女を困らせようとされたのではありませんし、彼女の弱みにつけこもうとされたのでも、彼女をからかおうとされたのでもありません。もちろん興味本位のことでもありません。彼女の本当の渇き、魂の渇きが、そこにあるということをご存じであったからだと思います。彼女は主イエスに、「主よ、渇くことがないように、その水をください」と言いました。それは表面的な理解ではありましたが、彼女は自分でも知らずして、イエス・キリストに向かって魂の叫びを発していたのではないでしょうか。
 もう少し続けて読んでみましょう。

「女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた『「夫はいません」とは、まさにその通りだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ。』」(17〜18節)

 主イエスは、彼女の状況を見事に言い当てるのです。主イエスは彼女の急所をぐさりと突き刺し、それをえぐり出します。彼女は、すべて見透かされたので、ぐうの音も出ず、「主よ、あなたは預言者であるとお見受けします」(19節)と言いました。
 この5回も結婚と離婚をくり返したという事実をどう受けとめるか。彼女の生活はみだらなものであったと言う人もあるでしょう。しかし私は、むしろこれは彼女の不幸な結婚生活を表すものとして受けとめたいと思います。彼女は恐らくその都度、今度こそ幸せになりたいと思って結婚したのではないでしょうか。しかし男の方はそうは思ってはいない。彼女のことを本気で思っているわけではない。遊び半分、いやになればいつでも離婚すればいい、彼女はもう何遍もそれをやってるんだ。そう思って結婚したのではないかと思います。そして捨てられるのですね。それのくり返し。今同棲している相手も、彼女のことをそのようにしか考えていないかも知れません。だから結婚もしないのでしょう。彼女自身、一人でいる寂しさに耐えられず、誰でもいいから、と言うと言い過ぎかも知れませんが、とにかく寄りかかる相手が欲しかったのではないでしょうか。言葉を換えて言えば、彼女の渇きを一時的にでもいやしてくれる相手、満たしてくれる相手、あるいは忘れさせてくれる相手が欲しかったのです。しかしその水はいくら飲んでも渇く、満たされることがない水なのです。イエス・キリストは、彼女の本当の渇きが一体どこにあるのかということを知っておられたのです。生活のあり方に、どこか根本的なひずみがある。彼女自身、そのことに気づいているのかも知れないけれども、自分ではどうすることもできない。悪循環です。そのようにして時が経っていく。いずれどんな男も自分を振り向いてくれない日が来るかも知れない。歳をとっていく。しかしそのことを認めたくない。恐ろしい。そのことを正面から見据えることができない。イエス・キリストは、そこを捉え、永遠の命に至る水をどこにあるか、そして自分がそれを持っていると言おうとされたのではないでしょうか。

(4)過去からではなく、将来から

 彼女はそれを機会に、自分の個人的問題を超えた大きな社会的問題、歴史的問題を、イエス・キリストにぶつけるのです。このことは彼女にとっても大きな疑問であったのだろうと思います。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(20節)。彼女は特に宗教教育を受けた人間ではありません。しかし素人であればあるほど不思議に思える。「何で一人の神様を、あなたたちユダヤ人と私たちサマリア人が、競い合うようにして張り合って、別の聖所を建てて礼拝しているのですか。おかしいではないですか。」これは素人ならではの、非常に率直な、そして鋭い問いであると思います。プロであれば、こんなことをもはや問わないかも知れません。「そこにはこういう歴史的由来があって、深い対立はずっと続いているのだ、残念なことだけれども。」そういう風に考え、そういう風に答えるのではないかと思います。私自身が先ほど説明した通りです。
 ところがイエス・キリストの答えは全く違っていました。私が説明したような歴史的なことは何も言っておられません。主イエスは全く違った次元の答えをなさったのです。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する日が来る」(21節)。過去を顧みるのではなくて、将来の話をされました。どうしてそういう対立が生まれたかということよりも、それを前提としつつ、それが克服される日が来る、という話をされたのです。すごいですね。
 このように続けます。

「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられる。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(22〜24節)。

 彼女はどちらが本当の礼拝の場所か、ということを尋ねたのでしょうが、それに対して、「救いはユダヤ人から来る」という聖書の歴史を踏まえながら、それを超えたところからお答えになりました。彼女のそのような二者択一そのものが問題なのであり、そのような発想そのものを退けられたと言ってもいいでしょう。

(5)誤った二者択一

 これは今日に生きる私たちにとって、非常に重要な意味をもっていると思います。今の世界はあまりにも単純な二元論に陥り、誤った二者択一を私たちに迫ってくるからです。そのような二者択一の問いの立て方そのものが間違っているのです。「彼らが正しいのか、我々が正しいのか」。「正義はどちらの側にあるのか」。アメリカは世界にこう問いかけます。「正義と民主主義の側につくのか、それともテロリストの側につくのか」。「テロの脅威におびえながら過ごすのか、それとも悪の根をうち砕くのか」。私はこのような二者択一は非常に危険であり、その危険の中に入り込むことこそ、いわばテロリストたちのねらいであったし、その背後には宗教的な表現を用いれば、悪魔の誘惑があると思うのです。そこにはまりこんで人と人、国家と国家、民族と民族が対立し合うことこそ、悪魔の思う壺なのではないでしょうか。
 宗教がそれにからんできます。しかし私は、本当は宗教によって戦争するのではないと信じています。その背後には必ずこの世的な利害関係があり、打算があります。それを隠蔽するため、それを正当化するために宗教が、そして神の名が持ち出されるのです。必ずそうです。もっとも最先端で自爆したり、攻撃したりする者は、神のために、神の正義のためにと思っているかも知れません。しかしそれは洗脳です。マインドコントロールされているのです。それを操る人間の思惑と、それを神のためと信じ込ませられる人間の無謀さのコンビネーションで、戦争が遂行されていく。
 しかしそれでは宗教に全く責任がないのかと言えば、そうではないと思います。私たち神を信じる者は、言い逃れすることはできないのです。その正当化を許さず、「神様はそんなことを言っていない」。「聖書の神様は、そのように戦争を仕掛けるアメリカを単純に『ゴッド・ブレス・アメリカ』と祝福するような神ではない」と、言い続ける責任があると思います。

(6)個人的事柄と社会的事柄

 私はこのサマリアの女と主イエスの対話を読んでいて、興味深いと思ったことがあります。それは彼女の非常に内面的な事柄、深い魂にかかわる事柄と、それをはるかに超えた大きな次元の事柄、歴史的・社会的事柄が、不思議に一つの問いになっているということです。しっかり切り離されずに結びついているのです。彼女にとっては、それは一続きの問いだったのです。
 この二つの事柄は、しばしば切り離されて語られ、不幸なことにその間で対立、分裂する事さえあります。「あの人は社会派だ。この人は福音派だ、あるいは教会派だ」という。社会派は、福音が社会に根ざすことを伝道と考えますし、福音派は、魂の救いを目指して、その事柄に触れていくことを伝道と考える。どちらが正しいか、どちらが聖書に即しているかということで、対立するのです。しかし私はこれも誤った二者択一であり、不幸な分裂であると思います。先日、お話くださった小山晃佑先生の『しばしあなたを捨てたけれども』(同信社)という本の最後のところに、「福音派でも社会派でもございません」という文章があります。本質をよくついた言葉だと思います。これこそが聖書の本領、本当のキリスト教であります。これを切り離してはならないし、切り離すことはできない。どちらかだけにしてしまうことはできないのです。
 私は、今の世界は、分裂・対立の方向、自分と違った相手を自分の支配下におこうとする方向と、和解・共存の方向、違った相手と共に生き、お互いに生かし合って生きようとする方向、この両方の方向を含みもっていると思います。そういう中で、一体どちらが神様の御心を示す方向であるのか、神様はどのような世界を望んでおられるのかということをたずね求めなければならないのではないでしょうか。聖書そのものが、この対立・分裂という事実、現実をありのままに語っておりますし、共に生きるという方向も含んでいます。私は、この物語は、分裂・対立という現状の中で、それがやがて一つにされるということを終末論的次元で指し示していると思います。

(7)終わりの日の幻

 今日は、このヨハネ福音書と共に、イザヤ書2章1〜5節を読んでいただきました。そのところにこう記されています。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」(2節)。「主の神殿の山」として、イザヤはエルサレムの山を思い描いていたかも知れませんが、今日のイエス・キリストの言葉からすれば、それを超えたところを指し示していると思います。

「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と」(2〜3節)。

 世界中の民族がそのように言うのです。「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから来る」(3節)。これは今日の「救いはユダヤ人から来る」という言葉に通じるものでしょう。それを歴史として認めながら終わりの日を指し示すのです。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(4節)。戦時中の日本は、これと反対のことをやったのではなかったでしょうか。そこら中にある、鋤であるとか、鎌であるとか、鍋であるとか、ありとあらゆる金属を持ち寄らせて武器を造ったと聞いています。それと反対のことが起きるというのですね。「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(4節)。これが神様の御心であり、イザヤが終わりの日の幻として指し示した、神の国の姿であると思います。
 イエス・キリストもまた、それを指し示しました。それだけではなく、むしろそれをもたらすために、この地に来られた。だからもうすでにそれが始まっていると言えるのです。イエス・キリストご自身が「今がその時である」(23節)とおっしゃっております。サマリアの女はこう語りました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」(25節)。それに対して、イエス・キリストは「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(26節)と答えられました。「わたしはそれを知らせるために来たのだ。わたしがその時をもたらすのだ」ということです。
 今日、明日と、教会全体修養会が開かれようとしております。今年は「神の家族」という主題を掲げて、それを地球レベルでもう一度、心に留めたいと思っております。イザヤは、「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」(2:3)と語りました。共にその道を探り求めていきましょう。