命の水をいただいて

〜ヨハネ福音書講解説教(8)〜
イザヤ書40章28〜31節
ヨハネ福音書4章1〜15節
2002年9月15日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)主イエスも疲れる

 本日よりヨハネ福音書の第4章に入ります。この第4章の大半を占める部分は、「イエスとサマリアの女」と題された物語でありますが、この箇所を三回に分けてお話ししたいと思います。
 イエス・キリストの一行は、ユダヤを去って、再びガリラヤへ行かれるのですが、その時にサマリアを通られることになります。社会的な事柄は、次週に改めてお話することとし、今日は、このサマリアの女の主イエスとの出会いを中心にお話しいたします。
 主イエスの一行は、シカルというサマリアの町の町はずれにある井戸のところに到着しました。正午頃のことであります。弟子たちは町へ食べ物を買いに行っており、イエス・キリストだけがそのまま井戸のところに、いわばへたり込んでおられました。「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」(6節)と記されています。夜中から、あるいは明け方から正午まで歩き続けたのかも知れません。
 これを読んで、私は、「イエス様でも疲れるんだ。私たちと同じなんだ」という風に思いました。当たり前と言えば、当たり前なのですが、神の子であれば、疲れを知らないのかなと、ふと思ってしまうことがあります。でも「人となられた」ということ、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず、人間と同じ者になられた」(フィリピ2:6、7)ということは、すべて人間がもつ苦労や疲れなども同じように、背負われたということであります。ヘブライ人への手紙5章15節に、「この大祭司(キリスト)はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練にあわれたのです」と記されています。

(2)サマリアの女の言葉の意味

 イエス・キリストは疲れて、のどが渇いておられるのですが、水がめも小さな器も何も持っておられないので、ただ座り込んでおられます。そこへちょうど、水がめをもった一人の女性が近づいてきました。そこで、主イエスは彼女に「水を飲ませてください」と言いました。彼女はどきっとして、このように問い返しました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」(9節)。この言葉には、さまざまな意味と思いが込められております。
 第一に、このすぐ後に記されておりますように、ユダヤ人はサマリア人と交際していなかったということです。特にユダヤ人がサマリア人を軽蔑し、嫌っていたのです。民族の対立については、来週の説教で申し上げます。
 第二は、イエスが男であり、彼女が女であったということです。当時の風習としては、公の場所で男が女に声をかけてはいけなかったのです。挨拶すらしてはいけなかった。ユダヤ教の教師であるラビは、特にそうでありました。もし公の場所で、誰か女性に声をかけているのを見られたら、それは教師としての名誉を失墜してしまうことになる。そういう風習の中で起きた出来事であります。
 そういう二つの背景がありますから、彼女は主イエスを横目で見て、その存在に気づいてはいたでしょうが、まさか声をかけられるとは思っていなかったでありましょう。ですから、声をかけられてどきっといたしました。
しかし彼女がどきっとしたことには、もう一つの個人的理由がありました。彼女はできるだけ人と会いたくなかったのです。交わりたくなかった。ですから昼の最も暑い時間に水をくみに来ていたのです。普通は、水くみは朝の早い時間か夕方の涼しい時間、という風に相場が決まっておりました。女性たちは主に、家の中で仕事をしていましたから、この水くみの時が貴重な社交の場でもありました。この時に彼女たちは、家の仕事から一時解放されて、たわいもないおしゃべりをして息抜きをしたでしょうし、いろいろと情報交換をしたでしょう。日本語にも井戸端会議などという言葉があります。
 しかしこの女性は、そうした交わりそのものがいやだったのです。誰からも声をかけられたくなかった。声をかけられなくても、ひそひそとうわさをされる。それがもっといやだったことでしょう。よそよそしい挨拶をされて、その直後で、「ねえ今の人、知ってる。こそこそこそ。」「まあそうなの。人は見かけによらないわね」とか、「そう言えば、化粧が派手だと思ったわ。その道の人だったのね」とか、うわさされる。この後18節のところでイエス・キリストが言い当てられた通り、彼女には5回の結婚歴があり、今連れ添っている人も正式な夫ではなく、ただ同棲していただけでありました。彼女は、身持ちの悪い女としてレッテルを貼られ、サマリアの女性たちの交わりからもはずされていたのです。
 「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。この問いは、率直な驚きを表しているとも受けとめられますし、同時に、彼女が受けている民族的差別、性的差別、そして個人的差別の仕返しのような、ちょっと意地悪な響きがあるようにも受けとめられます。「普段は口もきかないくせに、困った時だけ頼み事ですか。自分でお汲みになったらいかがですか」。そういうことかも知れません。このところの主イエスは、本当にみじめな、あわれな感じがいたします。

(3)十字架の主イエスのひな型

 しかし私はこのような主イエスの中にこそ、逆に救い主としての姿が最もよく表れているのではないかと思うのです。この姿はあの十字架のひな型ではないかとさえ思います。イエス・キリストが十字架にかけられた姿を思い起こしてください。人間として、最もみじめな姿です。下を通る人がみんな、イエス・キリストのことをあざ笑いました。「ユダヤ人の王、万歳」と言いました。「神の子だったら、人を救う前に、自分を救ってみろ」と言いました。そのようなあざけりの中で、みじめな姿で十字架にかけられて死んでいかれたのは、どんな人間のみじめさよりも下に立ち、そのみじめな人間のみじめさを引き受けられたからではなかったでしょうか。
 また十字架上のイエス・キリストと、サマリアでのイエス・キリストを結ぶ大事な言葉があります。皆さん、(ヨハネ福音書において)イエス・キリストが十字架の上で最後に、何と言われたかご存じでしょうか。新共同訳聖書では、「渇く」と記されています。「のどが渇いた」ということです。少しその箇所を読んでみましょう。

「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:28〜30)

 これがヨハネ福音書の記すイエス・キリストの十字架上での最後の姿です。「のどが渇いた」時に酸っぱいぶどう酒を飲まされると、よけいのどが渇くと聞きます。しかしそれが彼にとって、最後に許された唯一の飲み物でありました。そのようなみじめな姿で息を引き取ることによって、すべて神様の計画は成し遂げられた、成就したというのです。これは人間の中で一番底辺に立たれた、神の子の姿ではなかったでしょうか。
 今日の物語に帰りましょう。この時主イエスは、このサマリアの女に向かって、「水を飲ませてください」と言われました。そういう風にこの女性に懇願することによって、イエス・キリストはみんなから差別され、自分でも卑下しているようなこの女性の下に立たれたのです。命の水を持ち、生きた水を持ち、汲めどもつきない泉のようなお方が、「のどが渇いた。水をください」と彼女に懇願しておられる。私は、この一見矛盾するようなイエス・キリストの姿にこそ、まことの救い主の姿を見るのであります。そのようにしてしか、彼女との会話は始まらなかった。この後深まっていく彼女の救いを求める、求道のプロセスも始まらなかったでしょう。
 あえて言えば、主イエスがみじめな人間を救うために、十字架上でみじめな姿をさらされたように、ここで彼女を救うために、彼女の前にみじめな姿をさらし、彼女の下に立たれたのです。そういう意味で、これは十字架のひな型であると言ったのです。

(4)サマリアの女の応答

 そこから、主イエスと彼女の会話が始まります。主イエスは、こう言われました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。主イエスの、この謎かけのような言葉を、彼女はすぐには理解することができませんでしたが、何か大事なことが含まれていると、感じたのでありましょう。主イエスに率直に問い返します。「主よ」と呼びかけるのです。そこからすでに何かが変わり始めているのを読みとることができます。

「主よ、あなたはくむ物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」(11〜12節)

 自分の前にいる、この人はただ者ではないということを、彼女は感じ始めています。彼女の中で、すでに何かしら変化が起き始めています。
 主イエスは、再び口を開き、こう答えられました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13〜14節)。その前は、自分のことを「その人」(10節)と、第三人称で言われましたが、ここでははっきりと「わたし」と言われました。
 彼女はその言葉を受けて、再び応答いたします。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。この言葉で、彼女がまだぴんとはずれの理解をしていることがわかります。「1回飲んだら、もう渇かない水。いちいちくみに来なくてもいい水。そういう水があれば便利だなあ。もうこんなに苦労して水をくみに来なくてもいいし、人と会わなくてもすむ。」彼女は何か「ドラえもん」にものを頼むレベルで考えているようです。主イエスとの会話は、まだ続いていき、彼女の理解も次第に深まっていくのですが、この続きは来週読むことにいたしましょう。

(5)命の泉につながること

 私は、どれほど器の大きな人間であるかということはそれほど重要なことではないと思うのです。私たちは器の大きい人をうらやましく思います。器が大きいとは、人間的な面で度量が大きいということもありますし、たくさん教育を受けた、学問をやったということもあるでしょう。あるいは社会的に地位があるとか、あるいはお金がいっぱいあるということも、それに数えられるかも知れません。器が大きい人は余裕があります。何かにつけ、気前がいいかも知れません。人に提供できるものをたくさんもっております。しかし私たち人間の器、あるいは状況の器というものは、やはりそれなりに限界があるのです。器が単に器である限り、どこかから補充していかなければ、やがて尽きてしまうでしょう。私たちの器の大きさというものは、相対的な違いでしかないのです。
 私たちにとって本当に大事なことは、自分の器を大きくしていくことよりも、どこから補充するかということ、つまり命の泉とつながっていることではないでしょうか。それによって私たちは、人に何かを提供し続けることができますし、自分自身がいつも新たにされていきます。小さい器は小さい器なりに、命の泉のように人と接していくことができるのではないかと思います。
 クリスチャンとして生きるということは、その命の泉につながって生きることだと言えるでしょう。新たにされる力の源泉を知っている。そこからエネルギーを得ている。人間は誰でも疲れるのです。しかし疲れをいやし、渇きをいやしてくださるお方があるのです。イエス・キリストは、ここでは疲れた者の姿をとっておられますが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われました。
 先ほど読んでいただいたイザヤ書の言葉をもう一度読ませていただきます。

「主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
(イザヤ40:28〜31)

(6)老いの坂をのぼりゆき

 今日は敬老の日であります。これまで社会で、教会で、家庭で、大きな働きをしてこられました先輩方に敬意を表す日であります。私たちもそのことを覚えて、この後感謝の会を持ちます。しかしながらしばしば聞きますことは、「教会に連なっているお年寄りは違いますね」ということです。お年寄りと呼ぶことすら、しかられそうです。何か違う。それは新たなる力をいつも得ておられるからではないかと思います。先ほど、従来の『讃美歌』の284番を歌いました。この賛美歌を歌っていてはっとさせられるのは、4節であります。

「老いの坂をのぼりゆき、
かしらの雪つもるとも、
かわらぬわが愛におり、
やすけくあれ、わが民よ」。

 「老いの坂をのぼりゆき」というのです。この世の概念で言えば、「老いの坂」というのは、下り坂と考えられるのではないでしょうか。若い時は上り坂です。ぐんぐんと上っていく。そしてどこかで頂点に達して、そこからゆっくりと下っていく。そしてやがて死を迎える。それが、普通に考える人生とのイメージではないかと思います。
 しかし聖書が示す生き方は、そうではない。下りはないのです。死ぬまで上り坂。成長し続けるのです。「老いの坂をのぼりゆく」。私は、これは素晴らしい、信仰者ならではの、人生観ではないかと思います。命の水をいつも新たにいただいていればこそ、そういうことも可能なのではないでしょうか。
 私たちのこの群の中には、若い方もありますし、それなりに歳をとられた方もあります。それぞれに疲れを覚えますし、それぞれにつまずき、倒れてしまうようなこともあるでしょう。その都度、命の水をいただいて、坂を上っていくように、主イエスと共に歩みたいと思います。