天と地と

〜ヨハネ福音書講解説教(7)〜
コヘレトの言葉5章1節
ヨハネ福音書3章31〜36節
2002年9月1日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)ヨハネ教団の信仰告白

 今日、私たちに与えられましたヨハネ福音書3章31〜36節は、物語ではありませんので、少し読みづらい言葉であろうかと思います。何だか抽象的な言葉が並んでいて、読んだ端からすっと抜けていくような言葉に思えるかも知れません。私も、この箇所だけで説教をするのはどうかと思い、前の箇所とくっつけて取り扱おうかとも思いましたが、注意深く読んでみますと、なかなか大事な言葉であると思いましたので、この箇所だけ独立させて読むことにいたしました。「抽象的な言葉」と申し上げましたが、これはむしろ「神学的な言葉」と申し上げた方がいいかも知れません。
 以前に申し上げたことがありますが、ヨハネ福音書を読んでいて戸惑うのは、時々それが一体誰の言葉であるのかわからなくなるということです。今日の箇所もそうであります。そのまま読むと、これは30節の洗礼者ヨハネの、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉に続くものとなっております。この言葉を受け、それがどうしてであるのかを説明するようにして、「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」(31節)というのです。しかしそれは形式のことであって、内容的に言えば、これは洗礼者ヨハネの発言であることを超えてしまっています。洗礼者ヨハネの言葉が、いつの間にかヨハネ福音書記者自身の言葉になっております。いやヨハネ福音書記者個人の言葉というよりも、ヨハネ福音書記者が属していた教会(ヨハネ教団とよく言われますが)、その教会の信仰告白が、ここに表れているのです。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」。これはまさに、ヨハネ教団の信仰告白と言えるものでしょう。ここで「地に属する者」とは、洗礼者ヨハネのことだけではなく、洗礼者ヨハネを含むすべての人間のことなのです。

(2)三位一体の神

 それに対して、「天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされる」(32節)と続きます。天から来られる方(端的にイエス・キリストと言ってもいいでしょう)は、地に属する者として語るのではなく、天に属する者として、天で見たこと、聞いたことを語られるのだと言うのです。少しとばして、34、35節、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が"霊"を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」
 これらの言葉は、イエス・キリストが一体どういう方であるのか、ということを語っています。子なるキリストが、天上で見たことや、父なる神から聞いたことを、地上で話し、証しされるのだということは、まず父なる神と子なるキリストは、別々の人格でありつつ、一体であるということでありましょう。ですから、その方は「神の言葉」を話されるのです。そして父と子が一体であるために、子が父なる神の言葉を話すために、「神が"霊"を限りなくお与えになる」というのです。神学的表現で言えば、この箇所は、期せずして、父・子・聖霊の三位一体について語っているといえるかも知れません。

(3)誰かを知る二つの知り方

 少し難しい話をしましたので、少し別の角度から話してみます。ある人が、誰かを知る、知り方には二通りあると言いました。ひとつは、その人を外側から観察するのです。「こういう目をしている。手はごつごつしている。これ位の背丈で、これ位の体つき。あるいはこういう学歴と職歴」。そのように、その人に関する客観的なデータを集めて、その人を知ろうとするのです。そこには、人格的な触れあいはありません。何か興信所みたいですね。しかしそのような仕方では、その人が自分に対して、どう思っているかはわかりません。推測はつくかも知れませんが、限界があります。
 もう一つの知り方というのは、その人と直接話をし、その人の言葉を聞くことです。それによってその人を知る。それは、その人をまわりから観察するような知り方とは違います。そこには人格的触れあいがあります。その人が自分のことをどう思っているのかということを、観察によってではなく、その人の言葉を通して、直接知るのです。もちろんそのためには信頼関係が必要でありましょう。この人はこんなことを言っているけれども、嘘を言っているのではないかしら、ということでは、結局、興信所の世界へ逆戻りです。

(4)神を知る知り方

 私が何で今こんな話をしているか、おわかりでしょうか。実は、私たちが神を知るという時にも、この二通りの仕方があるのではないかということです。私たちは、一体どちらの仕方を通して、神を知ろうとしているでしょうか。誰かを客観的に観察するように、神様に関するデータを集めてみようとするかも知れません。こんな不思議な大宇宙が存在するということ、こんな素晴らしい世界、花や鳥や動物や人間、とてもこれは偶然にできたとは思えない。やはり創造主なる神様はおられるのだろう。おられるに違いない。そういう認識に到達するかも知れません。あるいは哲学的に、究極の価値について、真・善・美について考えていけば、神がどういう方であるかという考えに到達するかも知れません。古代ギリシャの哲学者はそうしたことを考えていたのであろうと思います。しかしそれらは、補助的には有効かも知れませんが、限界があります。そこには人格的な触れあいがありません。出会いがありません。何か神様らしきものに到達したとしても、それは一つの概念であって、生きた神様そのものとは言えないでしょう。
 聖書の神様を知る、知り方というのは、実はもう一つの仕方、人格的触れあいの中で、直接その方の言葉を聞くことによって知る、知り方なのです。そんなことが果たして可能なのかということになりますが、「イエス・キリストを通して、それが可能になったのだ」と、聖書は私たちに告げているのです。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が"霊"を限りなくお与えになるからである」(34節)
 その「神の言葉」を通して、私たちは神を知るのです。自然を観察し、宇宙を観察し、というのではない。哲学的に究極の価値に到達するというのでもない。「神の言葉」を通して、神が一体どういうお方であるかを知るのです。

(5)神の言葉

 「神の言葉」とは、第一義的にはイエス・キリスト(「啓示された神の言葉」、K・バルトの表現)のことであり、第二義的には、そのイエス・キリストについて預言し、証しした聖書(「書かれた神の言葉」)のことであると言えるでしょう。その「神の言葉」には、明確な神の意志が語られているのです。「神は、私のことをどう思っておられるのか。」「この世界をどうしようとされているのか。」そうしたことを、私たちは、「神の言葉」を通して知るのです。私たちが今、読んでおりますこのヨハネ福音書第3章には、そのような神様の意志が、最もはっきりと示された言葉があります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(16〜17節)。

 この「神の言葉」は、ただ単にイエス・キリストの口から発せられた言葉というだけではありません。イエス・キリストのなされた行為も「神の言葉」です。イエス・キリストという存在そのものが神の言葉です。イエス・キリストの誕生、イエス・キリストの生涯、イエス・キリストの十字架、イエス・キリストの復活、それら全体が「神の言葉」なのです。そこにはっきりと神の意志が表れているからです。それが「言葉が肉となった」ということです。ヨハネ福音書の第1章14節にはこう記されています。

「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

(6)信頼をもって

 誰かを知る時の二つ目の仕方、つまりその人が直接語るのを聞く時には、その人が自分に本当のことを言っているという信頼がなければならないと言いました。それは神を知るという時にも同じでありましょう。神がイエス・キリストを通して、真実を語っておられるという信頼、あるいは信仰がなければ、それは通じないのです。ところがこう記されています。「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」(32節)。せっかく神が、独り子を遣わして、御自分の意志を伝えようとしているのに、人はそれを受け入れようとしない、というのです。これが悲しい、そして残念な、私たち人間の現実でありましょう。もう救いがそこまで来ているのに、それを取ろうとしない。拒否し続けるのです。
 ところが続けて読んでみますと、今度はこう書いてあります。「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」(33節)。これはその前の「だれもその証しを受け入れない」という言葉と矛盾するように思えます。しかしそこが聖書のおもしろいところ、というか、不思議なところだと思うのです。私たち人間の知恵で測れば、そんなことはありえないのです。「この世に生まれてきた一人の人間が、実は神の子であった。そのお方が神の言葉の受肉であり、その人の言葉と生涯に、神の意志が証しされている」などというのは、ばかげたことでしょう。十字架と復活などというのは、もってのほかだということになるでしょう。
 使徒パウロがアテネで伝道していた時のことです。アテネの人々は好奇心に満ちあふれていましたので、パウロの話を聞きたがりました。彼らはパウロに向かって、こう言いました。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味か知りたいのだ」(使徒言行録17:19〜20)。そこでパウロは最初から丁寧にイエス・キリストの福音を解き明かしましたが、最後の最後で、彼らはそれを馬鹿にして受け入れませんでした。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(同17:32)。これが本来的な人間の、自然な反応なのかも知れません。日本人の大半だって、そうでありましょう。「聖書はなかなかいいことを言っているが、十字架と復活はいただけない」ということになるのです。
 ところがそのところを乗り越えて、受け入れることができたならば、世界が全く違って見えてくるのですね。「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」。これは一つの奇跡としてのみ成り立つのではないかと思います。ところが「その証し」を受け入れたとたんに、不思議にそれまでどうしても理解できなかったことが、するするっとわかるようになる、受け入れられるようになるのです。そこには、わたしたちの決断がなければなりませんが、決断を可能にしてくれるのは奇跡でありましょう。

(7)カール・バルトの『ローマ書講解』

 今日は、神学的な話が多くなりましたが、最後にもう一つ、神学史上のエピソードのお話をしたいと思います。20世紀にカール・バルトという偉大な神学者がいました。彼について語り始めれば、いくら時間があっても足りません。今日はただ、彼の神学の出発点となった、ひとつの話をします。彼が神学を始め、牧師になった頃(1910年代)、神学というのは、19世紀的な人文主義や歴史批評主義を中心にした神学がさかんでありました。歴史的知識とか批評的考察とか、そういうものを用いて、イエス・キリストに近づきうると考えられていました。科学的神学と言ってもいいかも知れません。そしてルターやカルヴァンなど宗教改革者たちが行っていたような、いわば霊的聖書解釈を、時代遅れのものとして軽く見ていました。しかし新しい「科学的神学」は、第一次世界大戦の勃発に対して無力であり、その他のことも含めて、バルトは大きな失望を味わうのです。
 そこでバルトは新たな神学の方法を求め、「ローマの信徒への手紙」の注解書を著すことになりました。1919年のことです。それは神学界を揺るがすほどの影響力をもっていたのですが、彼はその後、更に二年間かけて、全面的に書き直し、1921年に第二版として出版しました。第一版が出た後、バルトに対して、「この本を書くに当たって、どんな方式、体系(System)があるのか」といろんな人が問うたそうですが、それに対して、バルトは、第二版の序文で、こういう風に答えました。

 「もしわたしが『体系』を持っているとすれば、それはキルケゴールが時と永遠の『無限の質的差異』といったことを、その否定的、肯定的意味においてできるだけしっかりと見つめることにおいてである、と。『神は天にあり、汝は地上にいる』。この神のこの人間に対する関係、この人間のこの神に対する関係が、わたしにとっては、聖書の主題であると同時に哲学の全体である。」(『ローマ書講解・上』平凡社ライブラリー、30頁)

「神は天にあり、汝は地上にいる」というのは、先ほど読んでいただきましたコヘレトの言葉、5章1節の言葉であります。「焦って口を開き、心せいて神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。」これが、実は、聖書を聖書として読み解く鍵なのです。
 私たちが、神について知る、神について学ぶ、神について語るとすれば、それは地上にあって天を見上げるようにしか、語ることができない、知ることができない、学ぶことができないはずです。例えば、「神が人を創られた」ということも、私たちは地上から天を見上げるようにして、創られたものとして創り主について語るようにしか、語ることができないのです。「神が人を創った」という関係を、外から客観的に眺めて、第三者的にそのことについて語ったとしても、それは実は本当の神について語ったことになっていないでしょう。それは、神らしき何ものかかも知れませんが、それは生きた神様、自分を創った神様ではありません。
 これは神学の世界の事柄にとどまらず、私たちすべての信仰者にとって非常に大事なことであろうと思います。私たちは地上にあって、天を見上げるようにして、神様について知り、神様の言葉を聞くのです。「上から来られる方はすべての者の上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」(3:31)。この言葉は、私たちの限界について語っていると同時に、「その間にイエス・キリストが道をつけてくださって、はっきりと天におられる神様の意志というものを、私たちに伝えてくださった。それを通して、神様を知ることができるようになった」という恵みの事実についても語っているのです。