世を生かす命のパン

〜ヨハネ福音書講解説教(24)〜
エレミヤ書15章16節
ヨハネ福音書6章30〜51節
2003年10月5日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)世界聖餐日

 本日、10月第一日曜日は、世界聖餐日であります。世界中の教会が、一人の主イエス・キリストのひとつのからだであることを覚えて、共に聖餐にあずかる日です。この日は、多くの教会で、普段と違った形で聖餐式をまもっています。私たちは、今年はいつもと同じ形式の聖餐式にいたしましたが、昨年はパンをちぎって取るようにしたのを覚えておられるでしょうか。
 私がニューヨークにいた時の教会(Broadway Presbyterian Church)は、コロンビア大学の真正面ということもあって、留学生など外国人の多い教会でした。10何カ国の人がいたと思います。世界聖餐日の折に、「それぞれ自分の国のスタイルのパンをもって来て欲しい。それで聖餐式をしよう」ということになり、さまざまなパンが集まりました。今や日本でも普及しましたインドのナンもありました。私は「何を持っていこうか」と悩みましたが、食パンとアンパンを持っていきました。日本にいますと、食パンというのは一番普通のパンで世界中どこでもあるように思っておりましたが、あんなに大きな正方形のパンと言うのは珍しいものであります。日系の食料品店で買ってもっていきました。それから日本らしいということで、アンパンを持っていきました。考えてみれば、アンパンで聖餐式をしたのはあの時だけです。日本では、いつもアンパンで聖餐式をしているのかと思った人もいるかも知れません。詩編に「あなたのみ言葉は……蜜にまさってわが口に甘いのです」(詩編119:103)という言葉がありますが、「あなたのみ言葉はアンパンにまさってわが口に甘いのです」などと不謹慎なことを考えたりいたしました。礼拝後の昼食で、残ったパンを分け合っていただきましたが、世界中の人々が、この日、一つの聖餐式に連なっているのだという思いを強くいたしました。
 ちなみに私が、今日身につけておりますカラフルなストールは、その教会の牧師が、使っていたものであります。私がブラジルへ行くことが決まった時に、彼は自分の使っていたストールを、記念に私にくれました。これは中米、恐らくニカラグアの民芸品でありまして、ここに描かれている模様は、キリスト教会のさまざまなシンボルであります。教会の絵がありますし、ローマ・カトリックの十字架もあります。それこそパンもありますし、魚もあります。私はこのストールを身に着けると、ニューヨークのその牧師の祈りを強く感じ、ニューヨーク時代の教会との連帯を思います。そしてまたこれを作った中米の貧しい教会の人たちとの連帯を、心に思うのであります。最初はずっとこれをしていたのですが、教会暦の色のストールを新調しましたので、今はペンテコステ礼拝や世界聖餐日などの特別な礼拝で、このストールを用いるようにしています。

(2)世界宣教の日

 また日本基督教団では、この世界聖餐日を、同時に世界宣教の日と定めています。現在、日本基督教団は北米はじめアジアやヨーロッパの諸教会から約100名の宣教師を迎えております。そしてそれと同時に、30名近くの牧師と信徒の宣教師を世界各地に送り出しています。教団の世界宣教協力委員会では、この世界宣教の日にあわせて『共に仕えるために』という教団から派遣されている宣教師たちの報告書を毎年発行しています。これを読んでみますと、今、日本基督教団はどこにどういう宣教師を送り出し、彼らはそこで一体何をしているのかが、よくわかります。私自身、7年間ブラジルで教団の宣教師として働きましたので、毎年これに書いておりました。ですから、今年もここに書いておられる宣教師の方々の気持ちがよくわかります。海外で宣教師として過ごしていますと、時に日本の教会が非常に遠く感じられて、孤立感を覚えることもあります。ですからこうした報告書を読みながら、皆さんもぜひ海外の宣教師のことを心に留め、その方々のために祈っていただきたいと思います。そしてそのように宣教師と連帯することは、同時にその人が遣わされている教会と連帯することであり、そうした交わりを通して、私たち自身が豊かにされていくのだと思います。

(3)見ることと信じること

 さて私たちはヨハネ福音書の第6章を読んでいますが、今日は世界聖餐日にふさわしい御言葉が与えられたと思います。この第6章は、実は全体が一続きの話になっており、途中で切ることはできないものであります。最初は5千人にパンを与える奇跡が記されており、その後はイエス・キリストが水の上を歩かれた奇跡でありました。今日は一応30〜51節までを読んでいただきましたが、実はこの段落は22節から始まっていますし、この後もずっと続いています。
 前回の箇所の最後のところで、主イエスが「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)と語られましたが、これはいわば「私を信じなさい。それが神の業だ」ということでありました。それに対して群集は「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)と問いかけます。さらに「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(31節)と言うのです。彼らはすでに5千人の人々にパンが与えられるという大きな奇跡を経験しているのですが、それでも本当の信仰にはいたっていなかったのですね。「もっとすごいことを見せてくれ」「もっと確かな証拠が欲しい」ということです。前回の26節で、主イエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われました。つまりどんなに大きな奇跡を経験していても、それがイエス・キリストが「神から遣わされた者」であることを読み取るしるしにはなるとは限らないのです。見ることと、見抜くことは違う、あるいは見ることと見分けることは違うということです。見てはいても見抜くことができない。あるいは見分けることができない。イエス・キリストは別のところでイザヤの言葉を引いて「あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(マタイ13:14、イザヤ6:5)とも言われました。
 これは今日の私たちにもあてはまることではないでしょうか。私たちも、時々不思議な出来事に遭遇いたします。その時に、同じ経験をしていても、ある人はそれを単なる偶然と見ますし、ある人はそこに何らかの神様の働きを見ます。いい出来事があった時に、ある人はそれを単にラッキーと喜ぶだけですが、ある人はそこに神様の恵みを覚えて、感謝をします。逆に悪いことが起こった時にも、それをただ不運と見るのか、あるいはそこに神様の何かしらの警告を見るのか。「神も仏もあるものか」と思うか、あるいは「どうして神様はこのようなことをなさるのか」と深く考えるか。そこに違いが出てくるのではないでしょうか。私たちは何かを見る時、あるいは不思議なことに遭遇する時に、そこに秘められた意味を悟りたいと思うのです。悟ることができなくても、それを心に留め、信じることへと一歩進み行くことが求められているのだと思います。
 見ることと信じることの関係から言えば、ヨハネ福音書は復活のイエスがトマスに言われた「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネ20:29)という言葉を思い起こします。これは何か見て信じる信仰を否定しているようですが、私はそう受け取る必要もないと思います。しるしを見て信じる信仰から始まってもいいのです。しかしそこに留まらないで、見ないでも信じる信仰へと深められていく必要があるのだと思います。

(4)マンナとの対比

 さて群集の問いかけに対して、主イエスはこう答えられました。

「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」(32節)。

 モーセはそれをいわば仲介した人間に過ぎない。本当にマンナを降らせた主体は天の神様だ。そしてそれは私の父なのだ」とおっしゃる。

「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)。

 これを聞いた群集は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)と言いました。この言葉は、主の祈りの「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りに通じるものがありますが、ここでは彼らはあまり深く考えているのではなさそうです。「そんなありがたいパンがあるのならぜひ欲しい」と思ったのでしょう。
 ヨハネ福音書には、聞き手がイエス・キリストの言葉を表面的にのみ捉えて、とんちんかんな答えをする、いわば「とんちんかん問答」がたくさん出てくると、申し上げたことがあります。そうした問答を重ねていく中で、イエス・キリストはより深い事柄、隠された意味について、述べられていくのです。ここでもそうです。彼らには実際に食べるパンのことしか頭にありませんが、主イエスはこう答えられました。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。

 「わたしが命のパンである」。これは今日、私たちに与えられた大きな御言葉であると思います。

(5)エゴー・エイミ

 「わたしが命のパンである」。この「わたしは何々である」という表現は、「エゴー・エイミ」というギリシャ語でありますが、ヨハネ福音書独特の大事な言葉です。「メシア的定式」とか「啓示の定式」とか言われます。英語では「Iam 〜」という風になりますが、これは旧約聖書の出エジプト記に出てきた神の名ヤハウェ、「『わたしはある』というものだ」(出エジプト3:14)に通じるものです。
 ヨハネ福音書では、4章のサマリアの女との対話の中で、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(4:26)という言葉で、すでに一度「エゴー・エイミ」が出てきていましたが、今日の箇所では「命のパン」という述語を伴っております。ここから7回にわたってその定式が出てきます。

「わたしは世の光である」(8:12)。
「わたしは門である」(10:7、9)。
「わたしは良い羊飼いである」(10:11、14)。
「わたしは復活であり、命である」(11:25)。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)。
「わたしはまことのぶどうの木(である)」(15:1)。

 この7つです。
 イエス・キリストはそのようにしてご自分が誰であるかを示されました(自己啓示)。その一つ一つがイエス・キリストのさまざまな側面を言い表しております。それによって私たちはイエス・キリストが誰であるかを知るのです。そこには、そのイエス・キリストをこの世界に送られた天の神様の御心があるのは言うまでもありません。

(6)サマリアの女との対比

 イエス・キリストは、今日の対話の中でも、一生懸命、父なる神様とご自分の関係を明らかにしようとされるのですが、なかなか伝わりません。「自分はその天の父から遣わされたのだ。私がここに来たのは自分の意志を行うためではなくて、その天の父の御心を行うためだ。」
 しかしそのような熱意にもかかわらず、群衆の心はだんだんと離れていきます。イエス・キリストが「わたしは天から降ってきたパンである」と言われるのを聞いて、彼らはつぶやき始めました(41節)。彼らの「つぶやき」「つまずき」については、また次回にお話しようと思っていますが、私は彼らの態度は、4章で出てきた「サマリアの女」と非常に対比的であると思いました。あのサマリアの女も最初は、とんちんかんな答えをしていました。彼女の場合は水でありましたが、主イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:14)と言われると、彼女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)と言いました。この段階では、今日のパンの問答と同じように、彼女はまだ非常に表面的なレベルでしか理解しておりません。「そんなありがたい水があるなら、ぜひいただきたい」ということです。
 ところが話をしているうちにだんだんと変わってくるのです。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」(4:19)。そして「キリストと呼ばれる預言者が来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」(4:25)と言うと、主イエスは、先ほどの言葉、「それは、あなたと話しているこのわたしである」(4:26)と語られたのでした。最初はピントがずれているのですが、だんだんと焦点がぴたっとあっていきました。それがサマリアの女の場合でしたが、今日の箇所では、同じように始まりながら、だんだんとイエス・キリストを拒否する方向へと行ってしまうのです。
 不思議な出来事に出会う時に、それをただ単に表面的なレベルで見るか、あるいはその奥に込められた見抜くことができるか、そのところに違いが出てくるのです。

(7)世を生かす命のパン

 主イエスは、「わたしが与えるパンとは、世を生かすわたしの肉のことである」(51節)、あるいは「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(32〜33節)とも言われました。イエス・キリストこそ、この世界の命の源である。それによって、神様はこの世界を支えられる。この世界を表面的にだけ見るならば、そうしたことはわからないわけですが、聖書の言葉を通して、その意味を見分け、見抜いて、命の主であるキリストに、私たちはつながっているということを、今日、この世界聖餐日に覚えたいと思います。
 イエス・キリストが語られた「与える」という言葉には、「わけ与える」という意味と同時に、「死に引き渡す」という意味が含まれております。イエス・キリストは、パンを分け与えるように、ご自分の命を与えられました。イエス・キリストの十字架の死、それこそが、このパンに込められたもう一つ奥深い意味であることも、心に留めたいと思います。