つまずきを乗り越えて

〜ヨハネ福音書講解説教(25)〜
エレミヤ書30章21〜22節
ヨハネ福音書6章52〜71節
2003年10月26日
経堂緑岡教会   牧師 松本 敏之


(1)命のパンの物語

 今日は、ヨハネ福音書の第6章の52節以下を読んでいただきました。6章に入って4回目であります。前回も申し上げましたが、6章は全体で大きな一つの物語になっております。今日の箇所はそのまとめのような部分ですが、その結論はあまり喜ばしいものではありません。6章全体を「命のパンの物語」と呼べることができるでありましょう。
 最初は、イエス・キリストが少年の差し出した5つのパンと2匹の魚を用いて、5千人の人々を養われたという奇跡でありました。群集はその奇跡に驚き、「この人こそ来たるべき預言者に違いない」と言って、イエス・キリストを王に持ち上げようとしました。しかしイエス・キリストはその話には乗らず、一人そっと山に退かれます。その後イエス・キリストは、水の上を歩く奇跡を経て、弟子たちとカファルナウムに行かれます。一方群集の方は、イエス・キリストを捜し求めて、ようやくカファルナウムで見つけるのです。

「ラビ、いつここにおいでになったのですか」。

 しかし彼らは、あの奇跡を深い意味を悟っていたわけではありません。イエス・キリストは、彼らに向かって、「あなたがたはわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と冷たく言われます。イエス・キリストは、そこで永遠のパンの話を始められました。彼らも最初のうちは、一生懸命聞こうとしていました。「神のパンは、天から降って、世に命を与えるものである」(33節)とイエス・キリストが言われると、彼らは「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)と言いました。イエス・キリストは、

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)

と、おっしゃいました。そのあたりから両者の違い、つまり彼らが求めているものと、イエス・キリストが伝えようとしておられるもの、また与えようとしておられるものとの違いが明らかになっていきます。
 そこで彼らはつぶやき始めました。

「これはヨセフの息子ではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」(42節)。

 4章に出てきたサマリアの女とイエス・キリストとの対話においても、最初は同じようなずれがありましたが、あそこではだんだんと話の焦点がぴたっとあっていきました。サマリアの女は、イエス・キリストと話をしているうちにだんだん心が変わっていったのです。ところが今日の6章の方では、むしろそのずれが決定的になって、修復するよりも、彼らは憤慨して、イエス・キリストのもとから離れ去ってしまう。

「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」(60節)。

(2)挿入部分

 「こんな話」というのは、具体的に何を指すのか。これを考えるには、実はちょっと難しい問題があります。というのは、聖書には、本来の著者が書いた部分と、どうも後の人が挿入したと思われる部分があるのですが、この直前の箇所は、どうも後の人が挿入したというのが、多くの学者の意見なのです。厳密にどこからどこまでかを申し上げますと、6章51節「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」というところから、58節の終わり「このパンを食べる者は永遠に生きる」というところまでです。それはあくまで学者の仮説なのですが、確かにこの部分を抜いて読んだ方がわかりやすいです。話がすっきりして、この方がわかりやすいと思います。
 なぜ多くの学者がここは挿入だと判断するのかと言えば、何よりもまず、ここだけ話の筋が横道に逸れるのです。これまでイエス・キリストが天から降ってきた命のパンである、という話をしていたのに、ここで全く別の話になります。ここで議論されていることは、聖餐式についてですね。これはこれで大事なことを語っているのですが、ともかく話が横道に逸れます。
 第二は文体や語彙が少し他の箇所と違うということです。特に日本語だけ見ても気がつくことを申し上げますと、それまで「パン」という風に言っていたのに、ここで「肉」という言葉が使われるのです。それは51節の終わりのところから始まっています。

「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。

 そしてここでは、「肉」というのは、イエス様の体のことを指していますから、もちろんいい意味で使われています。いい意味どころか、かなりのキーワードです。ところが、63節を見てみますと、こう書いてあります。

「命を与えるのは『霊』である。肉は何の役にも立たない」。

 ここでは「肉」という言葉が否定的な意味で使われています。こちらの「肉」というのは、この世の事柄とか、目に見える事柄とか、あるいは実際の食物とか、そういう意味です。どちらかと言えば、ネガティブな意味あいです。文脈が違うので矛盾ではありませんが、同じ人が続けて書いたならば、こういう風には書かないのではないかという判断です。
 もちろん別の人が書いたものであるからと言って、そこに意味がないということでは全くありません。もともとヨハネ福音書自体が前から申し上げていますように、誰が書いたものであるかわからないのです。伝統的には、使徒ヨハネが書いたと理解されてきましたが、恐らくそうではないというのが現代の大体の共通理解です。ですから挿入であろうとなかろうと、いずれにしろ使徒ヨハネが書いたのではないとすれば、どちらが価値があるかと言うのは意味のない話でしょう。今、申し上げようとしているのはそういうことではなくて、ここを抜いて読んだ方が、話が単純になって、すっきりとよくわかるということです。

(3)クリスマスのつまずき

 そういう風にこの部分を抜いて読むならば、51節の

「わたしは天から降ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」

 という言葉から、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」となります。
 イエス・キリストが、実は天から降ってきたパンであるというのは、間接的にクリスマスのメッセージを語っていると思います。神の子であるお方が、この地上にやって来られたということです。つまりイエス・キリストが、実は神の子であったということです。
 確かにこのことは現代の私たちにとっても、大きなつまずきであるに違いないと思います。今日でも聖書を読む多くの人は、「聖書というのはいいことが書いてあるけれども、イエス・キリストが神の子だというのは、どうも受け入れられない」と言います。それは論理の飛躍だと言います。確かにその通りでしょう。私たちの頭で考えて、「何々、何々である。それゆえにイエス・キリストは神の子である」とはならないのです。これはそう宣言されて、それを「アーメン」と言って受け入れるか、退けるかのどちらかです。だから「信仰」と言うのです。だから「信じる」という言葉を使うのです。「疑う」ということと裏表なのです。「疑う」ことがある中で、自分は信じる方にかけるということです。「信仰」は決断を伴うのです。同じことを見聞きしても、同じ聖書を読んでいても、すべての人がそこで信仰にいたるわけではありません。

(4)復活と昇天のつまずき

 さてそれを聞いておられたイエス・キリストは、こう言われます。

「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」。

 この「てんてんてん」の部分は、「もっとつまずくに違いない」というようなことでしょう。「人の子が降る」ことがクリスマスを指し示しているとすれば、「もとにいた所に上る」というのは、復活と昇天のことを指し示していると言えるでしょう。確かにこれはクリスマス以上に大きなつまずきであるでしょう。
 使徒言行録17章にこういう話があります。パウロがギリシアのアテネの広場で、イエス・キリストの話をしていました。エピクロス派やストア派の哲学者たちと議論をしていたのです。広場はアゴラと呼ばれていました。アテネの人々は知的好奇心が強く、聞いたことのない話があれば、何でもよく耳を傾けました。「このおしゃべりは何を言いたいのだろうか」と言う者や「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいました(使徒17:18)。とうとう彼らはパウロにアレオパゴスというもっと正式な評議所で話をしてくれ、と頼みました。そこで彼は、イエス・キリストの話をするのです。その説教は深い内容をもったものですが、今日はそこまで触れることはできません。
 ただ最後の言葉だけ申し上げますと、パウロはこういう風に言いました。

「神はこの方(イエス・キリスト)を死者の中から復活させて、すべての人にその確証をお与えになっていたのです」(使徒17:31)。

 この言葉がアテネの人々をつまずかせました。

「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒17:32)。

 それまで話を聞いていた人々が、それを聞いてあざ笑ったのです。馬鹿にしたのです。今まで一生懸命まじめに話を聞いていて損をした。時間の無駄だったと思ったのです。そして丁重に断って、立ち去った。ギリシア人だからこういう反応をしたのでしょう。ユダヤ人だったら「神を冒涜している」として憤慨したことでしょう。
 私たちのいわゆる「論理」で言えば、イエス・キリストが天から降ってこられた神の子であるということも、あるいは復活して神のもとへ帰ったということも、論理的には証明できないことです。そこには論理の飛躍があると言われても仕方がないことなのかも知れません。頭のいい哲学者はあざ笑って、去っていくのです。ところが同じように、ひっくり返して言えば、イエス・キリストが神の子でなかった、ということも証明できないのです。証明できたように思ったとしても、それはあくまで私たちの了解している論理の枠組みの中の話に過ぎないことなのです。ですからそこでは、それを証言している人々の言葉や、それを信じて生きている人々の生き様を見ながら、そこに私たちも自分の人生を賭けていくかどうかという決断が重要になってくるのです。そしてそのように決断して生き始める時に、それまでには見えなかったものが見え始めるのです。信仰をもつということは、何か狭い枠の中に自分を押し込んで生きることだと考えている人がありますが、そうではない。それまでこちら側から見ていた世界を、こちら側(反対側)から見るようになる。ですからそこには全く同じだけの広がりの世界があるのです。あるいはそれ以上の広がりをもつ世界があるというのが、信仰を通して私たちが実感することではないでしょうか。

(5)人の知恵より神の愚かさ

 実はこの使徒言行録17章の続きを読んでみますと、こう書いてあります。

「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」(使徒17:34)。

パウロの同じ話を聞きながら、それに真実なものを見出して、それに賭けた人々もわずかながらいたのです。
 パウロは、コリントの信徒への手紙一でこう言っています。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」(コリント一1:18)。
「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(コリント一1:22〜25)。

(6)命をかけて

 先ほどヨハネ福音書に先立って、エレミヤ書の言葉を読んでいただきました。これは、旧約聖書の中で、イエス・キリストのことを預言していると言われる言葉です。

「ひとりの指導者が彼らの間から
治める者が彼らの中から出る。
わたしが彼を近づけるので
彼はわたしのもとに来る。
彼のほか、誰が命をかけて
わたしに近づくであろうか、と主は言われる。
こうしてあなたたちはわたしの民となり
わたしはあなたたちの神となる」
(エレミヤ30:20〜21)

 まさにイエス・キリストこそ、命をかけて主なる神に近づかれたお方でありました。そしてそのおかげで私たちはまことの神の民となり、神は私たちのまことの神となったと言うことができるでしょう。

(7)ヨハネ版、聖餐式制定の言葉

 先ほど申し上げましたように52〜58節には、聖餐式のことが記されています。私たちはこの聖餐式を通して、イエス・キリストと一体となり、それによって、父なる神と一体となるのです。

「わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(54〜57節)。

 聖書を順序どおりに読むならば、先ほどの「実にひどい話だ」(60節)というのは、この部分を指していることになるでしょう。古代ローマ帝国において、クリスチャンは迫害を受けましたが、そのひとつの理由は、「クリスチャンはどうも人の肉を食べているらしい」といううわさでありました。そしてそのうわさは、このような聖書の言葉を表面的に受け取ったことから来ていました。
 聖餐式というのは、イエス・キリストの最後の晩餐に基づいたものでありますが、ヨハネ福音書には実は最後の晩餐の記事はありません。(その代わりに十字架にかかられる前夜、弟子たちの足を洗われたという話があります。ヨハネ13章)。その意味では、この6章の話は、ヨハネ福音書版の聖餐式制定の言葉であると言えるかも知れません。

(8)イスカリオテのユダ

 最後にイスカリオテのユダのことに触れておきたいと思います。イスカリオテのユダというのは、十二弟子の一人でありながら、やがてイエス・キリストを売り渡してしまう人物です。そのことがここでちらっと出てまいります。

「『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」(70〜71節)。

 これを読むと、誰しも心が重くさせられます。ただ私はこれについて二つほどのことを申し上げたいと思います。
 一つは、イスカリオテのユダというのは特別な人物ではないということです。私たちの中にもいるということです。確かにイエス・キリストを売り渡すことになるのは彼ですが、他の弟子たちも皆その可能性はありました。ここでも「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」(64節)と複数形で語られていますし、最後の晩餐の席で主イエスが「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」とおっしゃった時には、弟子たちは代わる代わる「主よ、まさかわたしのことでは」と言い始めました(マタイ26:22)。このことは、他の弟子たちもみんな思い当たる節があった、ということを示しているのではないでしょうか。
 またここで、イスカリオテのユダが「悪魔」と言われていますが(ヨハネ6:70)、悪魔と呼ばれたのは、ユダだけではありません。自他共に認める一番弟子であったシモン・ペトロは、イエス・キリストが御自分の受難と復活を初めて預言された時に、彼はイエス・キリストの袖を引っ張って、脇へ引き寄せて小さい声で「先生、そんなこと言うもんじゃありません」といさめたのです。その時、イエス・キリストはペトロに向かって、「サタン(悪魔)、引き下がれ」とおっしゃいまいました(マタイ16:21〜23)。ですから「悪魔」はユダ一人ではありません。私たちの心の中にも同じように潜んでいるのです。
 何よりもこのペトロも一番大事な瞬間には、イエス・キリストを見捨て、「そんな男知りません」と、裏切ってしまうのです。そう言ったことから考えますと、このイスカリオテのユダもシモン・ペトロも相対的な違いでしかない。私たちも含めて、みんな同じ土俵の上に立っているのです。私はむしろこのイスカリオテのユダのような人物でさえ、選ばれて召されて、十二弟子の輪の中にいたということに、イエス・キリストの計画の大きさというか、すごさを思います。「このユダも招かれているのであれば、確かに私も招かれている」と確信することができるのです。「私も洩れていない」。それは恵みの選びです。

(9)シモン・ペトロの信仰告白

 多くの人々がイエス・キリストに失望し、あるいは憤慨して去って行った時、主イエスは弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)と言われました。シモン・ペトロはこう答えます。

「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(68〜69節)。

 私たちはどんな者であっても、恵みの御手の中に置かれている。それは客観的な事実でありますが、それを事実として認識するかどうかによって、私たちの人生の意味というのは全く変わってくるのです。私たちはすべて恵みの招きを受けています。そこでそれに決断して従っていくかどうかによって、人生のあり様が異なってくるのではないでしょうか。このペトロの信仰告白の言葉を、私たちも自分自身の言葉として生きたいと思います。