~共に喜び歌え、主を迎えて(1)~
詩編98編1~9節
ルカ福音書1章46~56節
2003年12月7日
経堂緑岡教会 牧師 松本 敏之
アドベント第二主日を迎えました。今年、私たちは「共に喜び歌え、主を迎えて」というクリスマス標語を掲げて、この季節を歩んでいます。これは先ほど読んでいただいた詩編98編の中の言葉です。このクリスマス標語にちなんで、今年の12月の4回の礼拝説教において、私はルカ福音書のクリスマス物語の中に記されている4つの賛歌を取り上げることにいたしました。それは「マリアの賛歌」「ザカリアの賛歌」「天使たちの賛歌」「シメオンの賛歌」の4つであります。今日はその第1回目として、「マリアの賛歌」についてお話いたします。
この歌はラテン語訳聖書の冒頭の言葉をとって、マグニフィカート(あるいはマニフィカート)と呼ばれています。そしてこの部分をテキストにして、昔からこれは歌として歌われてきました。グレゴリオ聖歌の中にもありますし、その後もモンテヴェルディやJ・S・バッハを初め、いろんな作曲家が、このマリアの賛歌(マニフィカート)に曲をつけております。皆さんの中にもそれらをお聴きになったことのある方があると思いますし、あるいは歌われたことのある方もあるかも知れません。ちなみに先ほど歌いましたインドネシアの賛美歌「あがめます主よ」(『讃美歌21』178番)も、このテキストに基づいた歌であります。またこの後歌います「わが心は、あまつ神を尊み」(同175番)という賛美歌もこのテキストに基づいています。
歌ということで言えば、クリスマスにはカトリック教会などでは、アヴェ・マリアがしばしば歌われます。グノーがJ・S・バッハの旋律(「平均率クラヴィーア曲集」第1巻第1曲)にかぶせて作ったアヴェ・マリアやシューベルトのアヴェ・マリアなど古今東西たくさんのアヴェ・マリアがあります。ブラジルはカトリック中心の国ですので、今日でも新しいアヴェ・マリアが作曲されていますし、ポピュラーの歌手もクリスマス・シーズンになりますと、好んでさまざまなアヴェ・マリアを歌います。
ちなみにブラジルには、マリアという名前の女性がたくさんいます。「マリア・ダ・グラッサ」(恵みのマリア)とか「マリア・ダ・コンセイソン」(懐胎のマリア)など、いっぱいいます。女性を呼ぶ時に、「ちょっとそこのマリーア」と言うと、半分くらい当たっている、と言う程です。さすがに「イエス」という名前の人は恐れ多くてそれほどいませんが、それでも英語圏に比べると、「イエスさん」も、時々います。
さてプロテスタント教会では、マリア崇拝につながることはいたしませんが、実はこのアヴェ・マリアは、ルカ福音書1章28節の「おめでとう、恵まれた方」と始まる天使の挨拶に由来しています。これはラテン語では「アヴェ・マリア・グラティア・プレーナ」と言う言葉で始まります。これに1章42節以下にありますエリサベトのマリアに対する挨拶
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」
という言葉などが付け加えられて、アヴェ・マリアのテキストができていきました。
おもしろいことに、宗教改革者のマルティン・ルターや、スイスでカルヴァンの宗教改革以前にもっとラディカルな宗教改革を試みたツヴィングリでさえも、このアヴェ・マリアの祈りを祈っていたそうです。それはもともとこの挨拶が、マリアを神格化するよりも、この一人の娘であった女性に与えられた天使の挨拶を、弱く、小さな自分たち自身への祝福の挨拶であると受け止めたからであろうと思います。
マリア崇拝については、私は次のように考えています。まず、先ほど申し上げましたように、プロテスタント教会では、マリアを神格化して崇拝することはいたしません。マリアとは、あくまで私たちと同じレベルにある存在です。しかも低い身分です。そういうマリアに神様が目を留めてくださったということにこそ、福音の本質があります。マリアは他の人々(ヨセフであるとか、羊飼いであるとか)を超える存在ではないのです。ですからマリアをそれ以上の存在に高めてしまうのは、逆に福音に反することであり、神様の恵みを薄めてしまうことになりかねないと思います。天の神様と私たちの間に立ちうるのはイエス・キリストだけであり、しかもそれで十分なのです。その他に仲保者(とりなし手)が欲しいと願うのは、イエス・キリストこそ、唯一にして完全な仲保者であるということに徹し切れないからであろうかと思います。
しかしそういうことを踏まえた上で、私はマリア崇拝というのを、心情的には理解できるような気がしています。そもそもマリア崇拝が生まれてきたのは、私たちの歴史が、父権制社会が、神様をあまりにも男性的にしてしまったからではないかと考えているからです。神様は本来、男をも女をも超えた存在であるはずなのに、なんだか男のように考えられている。「父なる神」ということを強調するあまり、母なる方でもあることがわからなくなってしまった。マリア崇拝というのは、無意識のうちに、そのひずみを補正しようとしているのではないでしょうか。本能的に「おかあさん」としての神様を求めているのです。そしてそれはある意味で正しいし、自然なことであると思います。神様は、本来、そういう面を持っているはずだからです。
私はプロテスタント教会の牧師として言うならば、マリア崇拝という形ではなく、天の神様は男も女も超えた存在であり、母なる神でもあることを、信仰的に、聖書の中から読み上げていくことによって、そのひずみを正していかなければならない、神様の豊かなイメージを回復していかなければならない、と思っております。
さていよいよマリアの賛歌に入りましょう。マリアの賛歌はこのように始まります。「わたしの魂は主をあがめ」(47節)。この「あがめる」というのは、「大きくする」という言葉です。ギリシャ語ではメガルノーという動詞ですが、「メガ」というのは、「大きい」ということです。「メガフォン」「メガバイト」などの「メガ」です。先ほどから申し上げている「マグニフィカート」というのはラテン語で、「私は大きくする」という意味です。「マグニ」というのも「大きい」という意味で、「マグニチュード」という地震用語なども、この「マグニ」から来ています。
つまり「あがめる」というのは、相手を大きくすることなのです。自分よりも大きくするのです。私たちは、信仰をもっていると言いながら、自分を大きくしようとしたり、見せかけたりすることがあります。信仰を、自分を大きくしたり、自分を飾ったりする道具にしてしまう。人生の飾り。確かにあるにこしたことはないけれども、なかったらないでそれほど困らない。あくまで自分の人生の中心には自分がいる。でもそれは本当の信仰とは言えないでしょう。神様を「あがめている」とは言えない。神様を大きくする前に、自分を大きくしているのです。このマリアの歌はそうではありません。いやもしかしたら、そこまで意識もしていないかも知れません。自分で自分の信仰はどうか、という前に、マリアの魂が、マリアの心が動き始めて、自然に神を大きくほめたたえているのです。
「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)。
「魂」というのは「プシュケー」という言葉(ハート、ソウルに近い)、「霊」というのは「プニューマ」(スピリットに近い)言葉です。心と精神、日本語ではなかなかこの区別は難しいのですが、ここでは両方語っているので、それほど厳密に区別する必要はないでしょう。全身全霊で、全存在をかけて、心の底から神様をあがめ、神様を喜びたたえるのです。
そしてその理由が、次に記されます。神は「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」(48節)。神様をあがめる、たたえるというのは、自分の力で高くかけのぼるのではなく、神様が取るに足らないこの私を、心にかけてくださることを覚えるのです。向こうからこちらに駆け寄ってくださるのです。このマリアを見て、それをあがめるのではなくて、マリアが仰ぎ見ているお方を、私たちも横に並んで仰ぎ見る。そこでこそ何が起こっているのかがよくわかるのではないでしょうか。
神はそのはしため、身分の低いマリアを心にかけられた。ここにルカ福音書の大きなテーマがすでにあらわれております。ルカがこれから福音の中心的な事柄として語っていくのは、神は貧しい者の神であるということ、神は困難の中にある者の神であるということ、苦しみの底に沈んでいる者の神であるということであり、そういう低いところに降られて共に歩み、そこから本当の意味での高いところに引き上げられるということです。私たちは、その神のわざによって、心も高くあげられるのです。それが、ルカ福音書の序曲のようにして、このマリアの賛歌の中に、すでにあらわれていると思います。
このルカ福音書のメッセージは、その次の言葉で、よりはっきりと示されます。
「主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く引き上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます」
(51~53節)。
これらの言葉は、何かクリスマスにふさわしくない不穏なことが記されているように思えます。ある人は、これは革命の歌だと言いました。ルカ福音書は、こうした逆転を語るのです。
私たちはこういう言葉を聞くと、何か不安な気持ちにさせられます。耳障りもよくないので、しばしば読みすごそうとしますが、それは許されないでしょう。かと言って、あまりにも社会的次元で、例えば革命を支持する言葉として読むことも平面的であると思います。これは終末論的な言葉なのです。イエス・キリストが来られる時に、どういうことが起きるかということです。そこでは、私たち人間の基準と価値観が根底から覆されるのです。
こうしたことは、ルカ福音書6章(「平地の説教」)で、もっとはっきりと示されることになります。
「貧しい人々は幸いである。
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである。
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は幸いである。
あなたがたは笑うようになる。」
(6:20~22)。
「しかし富んでいるあなたがたは、
不幸である。
あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、
あなたがたは、不幸である。
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である。
あなたがたは悲しみ泣くようになる」
(6:24~25)。
これは終末的逆転を語っています。比較的「富んでいる」側にいる私たちは、このような言葉を読むと、ぐさりと来るのではないでしょうか。私は、そうしたセンスは大事にしたいと思います。しかし同時に、これは単純な審きの言葉ではなく、「今のままで満足しているならば」という風に読むべきであろうと思うのです。「貧しい人々」「今飢えている人々」「今泣いている人々」、その人たちは慰められ、笑いを得るようになる。こう語りながら、富を確保して、今の状態に満足している人々に対しては、「いつまでもそのままではないですよ」と語り、悔い改めを呼びかけ、「わかちあい、共に生きるように」と招いておられるのです。
ルカはそうしたことを、イエス・キリストのメッセージの中心として語りました。マタイは、この「貧しい人々」というのを「心の貧しい人々」(マタイ5:3)と記すことによって精神的な面を強調したけれども、ルカはそれを「心の」とは書かずにあくまで社会的な地平のままに置いたと、言われる通りであります。
私たちはクリスマスを祝う時にも、そうしたルカの視点を忘れないようにしましょう。神様がそこで何をなさろうとしておられるのか。今私たちが持っている価値観、今私たちが持っているものがそのままではなく、くつがえされる時が来る。そして神様のもとで新しい世界が始まるのです。貧しい側にいる人も、このマリアの言葉をただ「ざまあみろ」という思いで読んだのでは意味がないでしょう。やせがまんでもないでしょう。そういうことはむなしいし、意味がないと思います。
大事なことは、私たちがこの言葉によって、もう一つの視点、今の状態を超えた視点を与えられて、悔い改めて、新しく生き始めることです。富める者、持てる者には悔い改めと分かち合いの心を、持たざる者には、力強い約束を、同時に語っているのです。そこで初めて、「共に喜び歌う」ことができるのです。
マリアも心からの喜びの心をもってこの歌を歌いました。
「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(48節)。
今年のクリスマス、私たちもそのような神様のわざに巻き込まれて、まことの喜びへと導かれたいと思います。