ザカリアの賛歌

〜共に喜び歌え、主を迎えて(2)〜
マラキ書3章1節
ルカ福音書1章67〜80節
2003年12月14日
経堂緑岡教会   牧師  松本 敏之


(1)ベネディクトゥス

 今年のアドベントとクリスマス、私たちは「共に喜び歌え、主を迎えて」というクリスマス標語にちなんで、ルカ福音書に記された4つの賛歌から御言葉を聞いております。先週は、マグニフィカートと呼ばれる「マリアの賛歌」を読みましたが、今日はそれに続くザカリアの賛歌をご一緒に読んでまいりましょう。このザカリアの賛歌は、やはりラテン語訳聖書の最初の一語をとってベネディクトスと呼ばれるものです。ベネディクトゥスというのは、「ほめたたえられよ」「ほむべきかな」という意味です。日本語でも新共同訳聖書では、「ほめたたえよ」という言葉が一番最初になりました。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」というのは、Benedictus Dominus Deus Israel という言葉です。このザカリアの賛歌は、ザカリアがエリサベトによって、後に洗礼者ヨハネを呼ばれるようになる子どもが与えられた時に、預言して歌ったものであります。

(2)天使に脅えるザカリア

 少しさかのぼりまして、その背景を説明しておきましょう。ザカリアとエリサベトは子どものいない老夫婦でありました。ザカリアはイスラエルの祭司でした。祭司は全部で24の組に分かれていましたが、ザカリアはその中で第8の組であるアビア組に属していました(ルカ1:5)。それぞれの組は、年に2回、神様の前で務めをする順番が回ってくるのですが、当番の時期になりますと、祭司たちは神殿に集まって、朝夕くじを引いて、それぞれの務めを決めたそうです。その務めの中で最も大切なものは、香を焚いて祈りをする務めでありました。この当時イスラエルには2万人以上の祭司がいましたので、それを単純に24で割りますと、それぞれの組には1000人近い祭司がいたことになります。多くの祭司にとって、主の聖所に入って香を焚くというのは、一生に1回あるかないかの務めでありました。この時ちょうどアビア組にそれが回ってきて、ザカリアにくじが当たり、神様の前で香を焚く務めにあたることになったわけです。恐らくザカリアにとっても、この時が最初で最後であったことであろうと思います。ちなみにザカリアというのは、「神に覚えられた者」という意味であります。
 ザカリアが香を焚いて祈っている間に突然天使が現れて、香壇の右に立ちました。「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」(11節)とあります。この気持ちは何かよくわかるような気がいたします。一生に1回あるかないかの務めです。非常に緊張している。ザカリアにとっては何事も無くつつがなく終わって欲しい、という思いであったでしょう。間違うことのないように、と思ってどきどきはらはらしている。私たちの数十人から百人位の礼拝でも、最初に司会をする時というのは、とても緊張するものでありますが、それをはるかに超える出番でありますので、ザカリアにとっては、とにかく早く終わって欲しいという思いであったに違いありません。神の聖所で祈りを捧げながら、そこで神と出会うことは期待していなかったのではないでしょうか。そこへ天使が現れたわけです。ザカリアにしてみればありがた迷惑な話です。何かとんでもないことが起こりかけているということをご想像くださるといいのではないでしょうか。

(3)神が介入される

 私たちの信仰生活も、それと似た面があるかも知れません。そこに神様が介入してこられることは期待していないのです。つつがなく自分の人生を歩んでいきたい。ですから自分の人生、あるいは毎日の生活の中で、神様が直接語りかけて、それを乱されては困る、さえぎられては困るのです。教会の営みというのも、そこに神様が介入してこられることを考慮に入れず、私たちの計画、私たちの行いという風に考えてしまうことがあるのではないでしょうか。そうしたところ、私たちの計画が遮られた形で、神様が入ってこられるのです。ただし本当は私たちの人生、私たちの教会の歩みというのは、そうしたところから変わっていくのであろうと思います。
 ザカリアに対して、天使はこう言いました。

「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(13〜17節)。

 この言葉は、今日のザカリアの賛歌を内容的によく説明しているものであります。
 ザカリアはこの言葉を聞いた時に、「何によって、それを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)と反論します。彼は一種のしるしを求めたわけですが、そのせいで、その子が生まれるまで口が利けなくなるという「しるし」が与えられました。その後、天使が予告した通り、ザカリアとエリサベトの間には、洗礼者ヨハネが与えられました。

(4)神への賛美と感謝

 そういうことを背景にして、私たちはこのザカリアの賛歌を読んでいきたいと思います。このザカリアの賛歌は、68〜75節と、76〜79節の二つの部分に分けられます。まず前半は、第1行に端的に表れていますように、神様への賛美、感謝の祈りであります。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」(68節)。

 マリアの賛歌もそうであったのですが、このザカリアの賛歌も、ほとんど全部、旧約聖書を背景にしています。
 「イスラエルの神である主」と言うと、私たちは何か現代のイスラエルという国家を思い浮かべてしまいますが、そうではありません。「イスラエル」というのは、もともとはアブラハムの孫であったヤコブの別名です(創世記32:29)。今日はヤコブの人生について詳しく語る時間はありません。興味のある方は、どうぞ創世記の25章以下を読んでください。
 「イスラエル」とは、「神は支配される」という意味であります。やがてヤコブ、すなわちイスラエルには12人の息子が与えられるのですが、その子孫がイスラエルの民と呼ばれるようになるのです。イスラエル12部族には、ヤコブの息子たち12人の名前が付けられています。
 ここで単に「主をほめたたえよ」(68節)というのではなく、「イスラエルの神である主をほめたたえよ」と言います。何か漠然とした神様、あるいは一般的な、観念的な神様ではなく、そういう歴史的背景をもった神様、具体的にイスラエルの歴史において、人間とかかわりをもってきた神様のことを指しているのです。アブラハム、イサク、ヤコブの神様、サラ、リベカ、ハガル、ラケル、レアの神様。彼らと親しく交わられた神様であればこそ、今日も私たちの歴史にかかわり、私たちと親しく交わってくださる神様であることがわかるのではないでしょうか。

(5)歴史を思い起こす

 「主はその民を訪れて解放し」(68節)と続きます。イスラエルの民と歴史的にかかわられた神様。その民を親しく訪れて、解放された。遠くからながめておられたわけではありません。近くに来られて、奴隷状態の中から解放してくださった。ここでは二つの解放が思い起こされます。一つは、エジプトの地からの解放です。私たちは主日礼拝において、出エジプトの物語を読んできましたので、ご存知の方も多いであろうと思います。もう一つ忘れてはならないのが、バビロン捕囚からの解放でしょう。
 そうした過去において、自分たちの先祖を訪れて解放してくださった神様が、ザカリアの時代の人々をも解放してくださることを覚えて、ほめたたえているのです。ひいては、その方が現代の私たちをも訪れ、解放してくださる方であることを指し示していると思います。

「われらのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(69節)。

 「救いの角」というのは、「救いのための強力な助け」ということです。詩編の中にも、「角はあげられる」という表現があるのですが(詩編75:11など)、それは「強められ、高められる」という意味です。つまり「ダビデの家から救い主が生まれる」というクリスマスの出来事を語っております。

「昔から聖なる預言者たちの口を通して、語られたとおりに」(70節)。

 ずっと長い間、預言者たちが語ってきたこと、イスラエルの民が長い間待ち望んできたこと、それが今、実現した。もううれしくて、うれしくて仕方がないという気持ちがよく表れております。あの祭司の当番の時には、恐れて震えていたようなザカリアが、ここでは喜びがはちきれんばかりです。実際に息子が与えられることによって、神様は誠実なお方だ、そして不可能を可能に変えることのできるお方だと知ったからでしょう。

(6)敵とは?

「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」(71節)。

 この敵とは一体誰でしょうか。歴史的な意味では、イスラエルの民の前に立ちはだかったのは、エジプト人であり、ペリシテ人であり、アッシリア人であり、バビロニア人でありましたが、そういう特定はあまり意味がないのではないかと思います。社会の中で強い力を持ち、弱い立場の民族、人々を抑圧する人がいる。そこからの解放ということに、まず目を向けたいと思います。先程イスラエルと言えば、今日のイスラエルという国家を思い浮かべてしまうと申し上げました。その「イスラエル」が「我らの敵」と言えば、パレスチナということになりそうです。しかし今日の力の関係、強い者と弱い者という構図から言えば、反対です。イスラエルが軍事力でペリシテ人の子孫であるパレスチナ人を蹂躙しているのです。
 さらに「我らの敵」ということで言えば、もっと広く、そうした社会的地平を超えたところも視野に入れておく必要があるでしょう。それは私たちを脅かすすべてのものです。それは死であり、病気であり、罪であり、貪欲です。これが、もっと手ごわい敵であるかも知れません。私たちはそうしたものに取り囲まれて、不安の中にあります。
 しかしこう続くのです。

「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の前に清く正しく」(73b〜75節)。

 歴史的な過去を振り返ることから、現在のこと、将来のことへと、話が大きくなっていきます。
 「恐れなく仕える」。自分が向き合っている神様が本物であるということを悟った時に、「恐れとおののき」を覚えるものでありますが、その神様ご自身が「恐れるな」と言って近づいてくださる。この時も天使ガブリエルがザカリアに「恐れるな」と言って近づいてきました。まさにクリスマスのメッセージであります。そこで私たちは、びくびくしながらではなく、喜んで、心から、主に仕えることが許されるのです。とても新約聖書的な感じがいたします。

(7)洗礼者ヨハネの働き

 さて後半の76〜79節では、ザカリアの息子となる洗礼者ヨハネの働きについて語っています。

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる」(76節)。

 洗礼者ヨハネ自身が「いと高き方」なのではありません。彼はあくまで預言者、その方について証をする者です。しかし預言者の中の預言者、旧約聖書の預言者の系譜に連なりながら、イエス・キリスト以前の最後にして、最大の預言者でありました。

「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを、知らせるからである」(76b〜77節)。

 この言葉は、先程読んでいただきましたマラキ書3章1節から来ています。

「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、かれが来る、と万軍の主は言われる」。

(8)暗闇に輝く光

 洗礼者ヨハネの働きについて述べた後、そのヨハネが指し示した方へと、再び話の焦点が戻っていきます。ヨハネの方を向いていた私たちが、そのヨハネの指に従って、すっと視点を移されるような感じがいたします。

「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(78〜79節)。

 まさにこれは、イエス・キリストによって起こる出来事について語っています。
 私たちはクリスマスと言いますと、単純に明るく、楽しいお祭りだと考えがちですが、むしろクリスマスというのは、暗闇の中にある人を照らす、そういう喜びを告げるものであるということを、心に留めたいと思います。皆さんの中には、もしかすると、つらい思いをし、苦しい経験をして、とてもクリスマスをお祝いするような気持ちになれないという方もあるかも知れません。今年、大事な人を失った方もあるでしょう。しかしむしろそういう中でこそ、クリスマスのメッセージが届いて欲しいと思うのです。暗闇が濃ければ濃いほど、クリスマスの光は強く輝くからです。そのような思いをもって、私たちもザカリアと共に主をほめ歌いながら、クリスマスを待ち望みましょう。