天使たちの賛歌

〜共に喜び歌え、主を迎えて(3)〜
イザヤ書9章5節
ルカ福音書2章8〜20節
2003年12月21日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)グローリア・イン・エクセルシス

 クリスマス、おめでとうございます。キャンドルに4つ火が灯りました。本来の教会暦では、12月25日の前の日曜日ということで、待降節第4主日でありますが、日本の教会の慣例に従って、クリスマス礼拝を行っています。12月の4回の主日礼拝において、私たちは「共に喜び歌え、主を迎えて」という標語にちなんで、ルカ福音書に記された4つの賛歌に心を留めております。これまで第1章の「マリアの賛歌」「ザカリアの賛歌」を読んでまいりましたが、今日はいよいよ第2章のクリスマス物語の中に記された「天使たちの賛歌」であります。これは他の賛歌に比べますと、非常に短いものです。

「いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ」
(14節)。

 たった1節、2行だけの賛歌ですが、大事な意味をもった歌です。「マリアの賛歌」が古来マニフィカートとして親しまれ、「ザカリアの賛歌」がベネディクトゥスとして親しまれてきたように、今日の「天使たちの賛歌」も「グローリア・イン・エクセルシス」という表題で知られ、昔から歌として歌われてきました。「グローリア・イン・エクセルシス」と言えば、皆さんの中にも「あれだ」と思われる方があるでしょう。そうです。「あら野の果てに」(263番)という賛美歌の折り返しの部分で、「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」と歌います。あれは、「いと高きところには栄光、神にあれ」という意味なのです。(「デオ」は、「神に」という意味)。「ラテン語はわからないが、あれだけは知っている」という方もあるのではないでしょうか。
「あら野の果てに」の他にも、このフレーズが入ったクリスマスの賛美歌はたくさんあります。265番(旧114番)

「『天なる神には、み栄えあれ
地に住む人には、平和あれ』と
み使いこぞりて、ほむる歌は
静かにふけゆく 夜にひびけり」

もそうですし、262番、

「聞け、天使の歌『み子には栄光
地には平和あれ、世の人々に』
ダビデの村に、生まれしみ子を
世界の民よ、共にあがめて
聞け、喜びの歌、おとずれの歌」

もそうです。これは随分訳が変わりましたので、古い歌詞で言った方がよくおわかりかと思います。以前の歌詞では

「あめにはさかえ、み神にあれや
つちにはやすき、人にあれやと
みつかいたちの たたうる歌を
ききてもろびと、共によろこび
今ぞうまれし、君をたたえよ」
(旧98番)

となっていました。
 あるいは「神の御子はこよいしも」(旧111番)でも3節で、

「『神にさかえあれかし』と
み使いらの声すなり」

と出てきました。
 そのように、クリスマスの賛美歌を調べてみますと、実にたくさんの賛美歌の中に、この言葉が出てまいります。あるいはこの言葉そのものは出てこなくても、「み使いたちの歌を聴き」とか「天使たちと声あわせ」などというのも、内容的には、この

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」

という、この天使たちの賛歌を指しています。

(2)羊飼いたちに天使が告げる

 この賛歌が歌われた場面を確認しておきましょう。まずこの天使たちの歌の聞き手は羊飼いたちでありました。彼らは、野宿しながら夜通し羊の群れの番をしていました。そこへ一人の天使が近づき(この段階では、まだ一人の天使でありました)、主の栄光がまわりを照らし出しました。この栄光というのが、グローリアという言葉です。彼らは非常に恐れました。恐れている羊飼いたちに対して、天使はこう言いました。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かせてある乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10〜13節)。

 一人の天使がこの言葉を告げ終わったとたんに、天の大軍(前の聖書では天の軍勢)が加わって、この歌を歌ったのです。

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」。

 これは「救い主が生まれた」ということが告げられた後に歌われた最初の賛歌です。ということは、この天使たちの歌こそが、最初のクリスマス・ソングであったわけです。この最初のクリスマスの賛歌がさまざまな形で(すなわちさまざまな言語、さまざまなメロディーで)歌われ、クリスマスになると、世界中で、この天使たちの賛歌が響き渡って、こだましているのだということができるでしょう。

(3)頌栄

 この天使たちの歌は、教会用語で「頌栄」と言います。「神様の栄光をたたえる」ということです。神様の栄光をたたえる、とは、神様を神様として立てるということです。ですから、私たちの礼拝もしばしば頌栄に始まり、頌栄に終わる。少なくとも最後には頌栄を歌います。それが礼拝の基本なのです。礼拝をするということは神様の栄光をたたえることであり、神様を神様として立てることに他ならないからです。
 このことは礼拝の時間だけではなく、私たちの生活の基本でもなければなりません。私たちは地上での生活を送っています。天上ではありません。私たちの身近な関心事は地上のことでしょう。そこには当然、地上の平和のことが含まれます。今年も世界のあちこちで戦争が起こりました。イラクは戦場になりました。パレスチナとイスラエルの紛争も続いております。チェチェンとロシアの対立も続いています。地上の平和を願わずにはいられません。その平和を願いつつ、いやそれに先立って、神様を神様として立て、栄光をほめたたえるのです。
 偽物の「頌栄」はだめです。「神に栄光あれ」と言いながら、実は神様の名前を勝手に持ち出して、神様の御心に反するようなことを正当化していく指導者があちらにもこちらにもいますから、注意深く、それを見極めなければなりません。神様に栄光を帰しているように見せながら(あるいは自分でもそう信じ込んで)、実は自分の栄光を照らしているのです。この巧妙なトリックについては、私はしばしば語ってきましたので、今日はそれ以上は申しません。真の意味で神様に栄光を帰することによって、地上での平和もはじめて、見えてくるのだと思います。そのことを抜きにして、地上の平和はありえないでしょう。どんなに戦争に勝っても平和は来ないのです。どんなに軍備を増強して平和を得ようとしても、より心配の種が増えていくのです。

(4)日常生活における平安

 地上の生活と言えば、私たちにとっては世界の平和のことより、自分の毎日の生活の方が気になるというのが本音かもしれません。イラクの情勢よりも、日本の年金制度の方が心配だという方もあるでしょう。毎日の生活、明日の生活、家族のこと、自分の進路のこと、仕事のこと、子どもの教育のこと、老後のこと、つまり日常生活における平和、平安を願うのです。日本でも、家内安全、商売繁盛、無病息災、と祈ります。それはそれでよくわかる話です。素朴な私たちの願いを表していると思います。
 しかしそれを自分で承知しながら、毎日の生活の場においても、私たちの長い人生のヴィジョンにおいても、まず神様を神様として立てる。神様を中心にすえる、いや中心に来ていただく。そして導いていただくのです。そこからすべてが始まる。そこから整えられていく。そのことを抜きにして、私たちの生活に、真の平和、真の平安は来ないのです。もちろん信仰を持っているつもりでも、平安が得られない場合もあります。でも神様を中心にすえるという原点を知っているのと、それを全く考慮しないのとでは違いがあるのではないでしょうか。神様に栄光を帰する生活をするということは、軌道修正する基準を持っているということです。イエス・キリストは、

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(つまり無くてならないもの)は、加えて与えられる」(マタイ6:33)

と言われました。

(5)主の祈り

 主イエスが「こう祈りなさい」と教えられた主の祈りにおいてもそうです。最初に「み名をあがめさせたまえ」と祈るのです。これは「神様に栄光を帰する」ということに他なりません。それに「み国を来たらせたまえ」が続きます。これは地上における「神の国の実現」のことです。視点が天から地上に降りてきました。しかしあくまで神様のみ業です。そして「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。天上と地上の両方を見ています。天ではすでに御心が成就していることが前提になっています。「天ではすでに実現している御心がこの地上でも実現しますように」と祈るのです。
 後半は「われらの祈り」と言われます。「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ」。ぐっと身近になりました。そこへ罪の赦しを求める祈り、誘惑から守ってくださいという祈りが続きます。この順序は逆転しません。神様を神様として立て、それに「われらの祈り」が続くのです。
 そして私たちプロテスタント教会の主の祈りでは、最後に「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という一言が付け加えられています。終わりにもう一度神様に栄光を帰するのです。

(6)御心に適う人

 さて「いと高きところには栄光、神にあれ」と歌った後、「地には平和、御心に適う人にあれ」と続きます。これは前半の言葉と対を成しています。まず「いと高きところには(天には)」という言葉と、「地には」という言葉が対になっています。次に「栄光」と「平和」が対になっていて、さらに「神にあれ」というのと、「御心に適う人にあれ」というのが対になっています。
 ここで気になるのは、「御心に適う人」という言葉ではないでしょうか。「地には平和があるように」ということだけであれば問題ないのですが、「御心に適う人に」という言葉が挿入されている。何か、人を限定しているように思えます。「御心に適う人」ということで、「善意の人」「よい行いをする人」という風に解釈されることもあります。古いラテン語の聖書でもそうした人間の善意が強調されてきました。「いい人にだけ平和を祈り、悪い人には平和がなくていい」ということになりそうです。しかしいい人の上にだけ平和を願っても、実は平和は実現しません。みんなつながっているのです。
 この「御心に適う人」というのを、洗礼を受けたクリスチャンという風に思う人もあるかも知れません。確かに私たちは、洗礼を受けてクリスチャンとして歩み始めることは、「御心に適う」ことであると思います。神様は、そしてイエス・キリストは、それを望み、私たちにそれを求めておられます。今日の礼拝においても、その決断をし、洗礼を受けてクリスチャンとして歩み始められる方々が3人おられます。これは本当に喜ばしいことであり、私たちにとっても大きな喜びであります。

(7)神の御心は大きい

 それを前提としながらも、私は「御心に適う」ということを、そうした自分たちの小さな判断の中に閉じ込めてしまうことはできないと思います。神様の御心はもっと広く、深く、私たちの想像を超えたところまで及んでいる。そのことを忘れてはならないでしょう。
 むしろそれを忘れないことこそが「神様を神様として立てる」ということであります。私たちがクリスチャンとして歩みだす決心をする。それは確かに私たち自身の決断であります。そのことは非常に大事に重みをもっています。しかし、それに先立って神様が私にかかわられるという決断をなされていたということ、神様が私を招いていてくださったということ、神様が私を選んでいてくださった。そういう神様の自由な決断が先立っていたということを忘れてはならないでしょう。そしてその決断は、クリスマスの出来事において、明確に示されるのです。それはかけがえのない独り子をこの地上に送るという決断でありました。そこには「ひとりも滅びないように」という神様の御心がありました。その御心の中にある人と言えば、私はすべての人が含まれてくるのではないかと思うのです。
 クリスマスは、その神様の御心が形をとって示された時です。私たちもそれを喜び、天使たちと共に、また代々の聖徒たちと共に歌いながら、お祝いしましょう。