一つになるために

〜ヨハネ福音書講解説教(65)〜
イザヤ書45章20〜24節a
ヨハネ福音書17章20〜26節
2005年10月2日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)世界聖餐日・世界宣教の日

 本日、10月第一日曜日は、世界聖餐日であり、同時に日本キリスト教団では、この日を世界宣教の日と定めています。
 私たちは今、ヨハネ福音書を続けて読んでおり、今はまだ16章の途中なのですが、今日は世界聖餐日・世界宣教の日にちなんで、この17章20節以下の御言葉を読むことにいたしました。この中にこういう言葉があります。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(22節)。この言葉こそは、ジュネーブにあるWCC(世界教会協議会)の本部前に刻まれているエキュメニカル(世界教会)運動の基礎となった言葉なのです。
 この「わたしたち」というのは、イエス・キリストと父なる神のことですが、イエス・キリストと父なる神が一つであるように、弟子たちも、そしてさらに後のすべての人たちが一つであるように、というイエス・キリストの祈りの言葉です。
 世界聖餐日というのは、「第二次世界大戦の前に、アメリカの諸教派でまもられるようになったもので、戦争へと傾斜していく対立する世界の中で、キリストの教会は一つであることを、共に聖餐にあずかることによって確認しようとしたもの」であります。「戦後、日本キリスト教団でもまもられるようになり、同時に『世界宣教の日』として、キリスト教会は主にあって一つなのだから、世界宣教を共に担う祈りと実践の日と定め」られました。(大宮溥、『信徒の友』2004年10月号より)。
 今年も、この世界宣教の日を覚えて、日本キリスト教団世界宣教協力委員会から『共に仕えるために』という小冊子が送られてきました。私も、これに1991年から98年まで8回にわたって、ブラジルからの宣教報告を書かせていただきましたので、なつかしい思いで読みました。

(2)ブラジルの宣教

 ただそこに私の後任として、10年間サンパウロ福音教会の牧師を務めてくださった小井沼國光牧師、真樹子牧師が、國光牧師の病気(難病)のために、辞任せざるを得なくなったことが記されていました。辛いことですが、祈りに覚えていただければと思います。小井沼牧師夫妻は、『信徒の友』今年の10月号にも、サンパウロ福音教会の様子や、真樹子牧師のデイサロン「シャローム」についてのレポートを寄せておられます。デイサロン「シャローム」は、日本からブラジルへ移住された、お年寄の方々のためのデイサービスを実施し、週に2回、そこで日本語を母国語とする人たちの憩いの場となっています。移住者の多くの方々は本当に苦労に苦労を重ねて、ブラジル社会で生き抜いてこられました。おりしも、NHKでは今晩から五夜連続で、「ハルとナツ」というブラジル日系移民の物語を放映するようですので、ぜひご覧くださるとよいと思います。

(3)エキュメニカル運動

 この世界宣教の日が世界聖餐日にあわせて定められたというのは、興味深いことです。というのは、世界宣教というのは外へ外へと延びていくことですし、世界聖餐日は、違ったものの一致を目指すものだからです。遠心的な運動と求心的な運動、下手をすると矛盾しかねない。欧米の教会は、20世紀前半まで、世界のまだキリスト教を知らない地域にキリストを知らせるということで世界中に宣教してきました。そのおかげで日本にもキリスト教が伝わり、私たちもイエス・キリストの福音に触れることができました。しかし、それは欧米列強の進出と裏表であったことも覚えておかなければならないでしょう。教会がそれを正当化してきたという面もあるのです。今日の世界の争いもそうしたことと無関係ではありません。世界聖餐日がそうした背景、つまり争いへの反省から始められたというのは意義深いことであると思います。
 世界が一つであるために、まず教会が一つでなければならない。そのためにはまず共に聖餐式をまもること、それが無理でも、それぞれの聖餐式で、世界の教会に思いをはせること、教派の違いを超えて祈りあうこと、国を超えて祈りあうこと、それが出発点だということが込められているのではないでしょうか。その後、エキュメニカル運動というのは20世紀の後半になって非常に大事な、教会の宣教の根幹にかかわる運動になっていきます。

(4)エキュメニカル聖書

 日本でもエキュメニカル運動は大事な働きをしてきましたが、その最も大きな、画期的な産物は、私たちが今手にしております『新共同訳聖書』(初版1987年)でありましょう。同じ御言葉、同じ翻訳で礼拝、ミサができるように、カトリックとプロテスタントの学者が集まって、一つの聖書を作った。それまでは、イエス様の名前すら違っていました。カトリックでは「イエズス・キリスト」でした。
 ちなみにブラジルにもエキュメニカル・バイブルというのがありました(初版1995年)。これはまずフランスで出版されたもの(初版1975年)を基に、ポルトガル語版が作られたようですが、興味深いことは、カトリックとプロテスタントだけではなく、(いわゆる)旧約聖書の部分は、ユダヤ教の学者も一緒に翻訳しているということです。ユダヤ教では、聖書の配列が違うのですが、旧約聖書の部分は、ユダヤ教の聖書の配列に従っております。カトリック中心のラテン世界では、プロテスタントだけではなく、自分たちの歴史の前と後ろの両方の広がりを見据えて、ユダヤ教とカトリックとプロテスタント、三者による共同訳、エキュメニカル・バイブルが実現しているのです。

(5)エキュメニカル讃美歌

 今日、最初に歌いました「すくいの道を」(『讃美歌21』409番)は、画期的な讃美歌です。右上にECUMENICALという題が付けられています。「プロテスタント教会とカトリック教会が共に歌える讃美歌を出そう」と言うことで、1976年に『共に歌おう』(通称、第3編)が出版されました。「すくいの道を」は、このエキュメニカルな讃美歌集のための委嘱作品として、プロテスタントの牧師である由木康氏とカトリックの作曲家高田三郎氏の共作として作られ、『ともに歌おう』第1番として収められていたものでした。
その中の2節に、

「時代はうつり、風土は変わり
主にある民は分かれても
みことばをのべ、ともにパンをさく
主の教会は ただひとつ」

 という歌詞があります。
これは、プロテスタントの由木康先生だから書けた歌詞かなと思います。カトリックの聖餐(聖体拝領)に、プロテスタントの信者が与ることは、まだ実現していないからです。もちろん信仰の幻として、「ともにパンをさく」ということが見据えられているのは言うまでもありません。
 そういう世界の教会はひとつというエキュメニカル運動は、プロテスタント側では、冒頭で述べましたWCCによって、主に担われてきました。WCCの大会は7〜8年に一度開かれてきましたが、1998年の第8回大会は、南部アフリカ、ジンバブエの首都ハラレで行われ、一色義子先生もそれに参加されました。次の第9回大会は、2006年2月、ブラジルのポルトアレグレにおいて、史上初のラテンアメリカにおける大会として開催されることになっております。私たちは今、そういう時代に生きているのです。

(6)後の時代の弟子たちのために

 さてヨハネ福音書は、13章後半から16章まで、イエス・キリストの弟子たちに対する長い別れの言葉を記していましたが、その後の17章は、イエス・キリストの長い執り成しの祈りです。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」という言葉に続いて、「父よ、時が来ました」(1節)と、イエス・キリストの祈りが始まります。
 6節から19節は、イエス・キリストの目の前にいる弟子たちのための執り成しの祈りでありますが、それを受けて、今日の20節から26節は、後の弟子たちのための執り成しの祈りであります。
 「また、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。
イエス・キリストの祈りは、空間的にも時間的にも、大きく広がっていきます。「彼らの言葉によってわたしを信じる人々。」まだ存在しない後の教会の人々をも見ておられる。信仰の幻です。その人々のために、イエス・キリストがここで祈られたということは、この祈りには、私たちも含まれているということです。私のために、私たちのために、イエス・キリストは、すでに十字架の前夜、祈ってくださっていたのでした。また「彼らの言葉によってわたしを信じる」ということで、宣教のわざが、まさに説教という手段によって担われてきたということを、改めて深く、重く思います。
 そして「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(21節)。ここでイエス・キリストと父なる神はすでに一体であるということが前提になっています。父なる神様はイエス様のうちにおられ、イエス様も父なる神様のうちにおられる。三位一体というキリスト教の教義があります。父と子と聖霊が三つにして一つであるという教義です。それを基礎にしながら、イエス様と父なる神様の交わりのただ中にすべての人を入れるような、大きな祈りです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。何とスケールの大きな祈りでしょうか。イエス様の宣教の目的が、外へ外へと広がって、すべての人がひざをかがめてあがめるようになることと同時に、すべての人が一つになる。イエス・キリストの名のもとに一つになるということが見えてまいります。
 「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(23節)。エキュメニカル運動というのは、ただ単に伝統や思想の違う教会がお互いに妥協して、一致点を見出してやっていくことではありません。イエス・キリストがすでに、父なる神様との間にもっておられる豊かな交わりに、私たちも引き入れられて一つになっていくということが根底にあるのです。

(7)宣教の最終目的

 「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)。
 ヨハネ福音書では、「世」と言う言葉が二重の意味で用いられていることを何度も申し上げてきました。「世」はイエス・キリストや父なる神様と敵対するものであると同時に、イエス様が愛して、愛して、愛し抜かれた、イエス様の愛の対象でありました。「世」の方はそれを知りませんでした。
 「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」(24節)。今日は、おりしも午後に墓前礼拝をもちますが、この祈りがそこまで響いていることを強く思います。イエス様が「わたしのいるところに彼らもおらせてください」と祈られたのですから、これほど力強く、慰めに満ちた言葉はないでしょう。「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。
 そして続けます。

「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(25〜26節)。

 イエス様の壮大な祈り。ここに宣教の最終目的が記されています。まだ見ていない、弟子たちの言葉によってこれから信じるようになる人々。空間的にも時間的にも大きな広がりをもっています。その人たちがすべて一つになる。主をあがめ、紛争がなく、愛の内に一つとなっていく。イエス様はそういう幻を見ておられたのです。そしてそうしたことは、やがて終わりの日に完全に達成されるものでありましょうが、私たちはやがてくるそうした神様の御国を仰ぎ見ながら、それをすでに先取りするように一致の幻を見ることを許されているのではないでしょうか。聖餐式というのは、まさにそうしたキリストにあって私たちが一つであることを心にする時であり、またそれを味わうことによって、キリストご自身が私たちの身に宿っていただく時であります。
 イエス様よりもはるか昔に、預言者第二イザヤはこう言いました。

「地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。
わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。
わたしの前に、すべての膝はかがみ
すべての舌は誓いを立て
恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。」
(イザヤ書45:22〜24)

 私たちもこうした言葉を心にとめ、一つであるために祈りを重ねていきましょう。


HOMEへ戻る