御心が成就するため

〜ヨハネ福音書講解説教(64)〜
イザヤ書9章5〜6節
ヨハネ福音書17章6〜19節
2005年11月27日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)手をつなごう、世界はひとつ

 今日からアドベント、待降節が始まりました。アドベントというのは、クリスマス(12月25日)の4週間前の日曜日から始まります。日本の多くの教会では、12月25日の直前の日曜日、すなわち待降節第4主日礼拝を、便宜上、クリスマス礼拝としてまもっています。そうした流れは、日本の風習からやむを得ないような面もありますが、12月25日から降誕節が始まりますので、本当は12月25日、あるいはその直後の日曜日にクリスマスを祝う方がふさわしいのです。今年は、12月25日が日曜日に重なりましたので、私たちも本来的な形で、待降節の日曜日をきちんと4回まもった後、5本目のろうそくを中央に灯して、クリスマス礼拝を迎えることになります。
 さて、今年のクリスマス、経堂緑岡教会では、「手をつなごう、世界はひとつ」というテーマを掲げて歩むことになりました。ロンドンの柳敬一郎さん、悦子さんご夫妻のご長女、柳さやかさんにチラシのデザインをお願いしたところ、すてきな絵を描いてくださいました。円状に人の顔が丸く連なっていて、円の中にも模様があるものです。皆さん、このデザインをご存知でしょうか。これはピースマークと呼ばれるものです。平和と反核運動の象徴です。もともと、このピースマークは、CND(Campaign for Nuclear Disarmament)というイギリスの反核団体のシンボルマークが起源だそうです。鳩の足跡という説もありますが、それは俗説のようです。それにしても、いろんな人種の顔でピースマークを描くというのは、まさにイギリスで勉強してこられた柳さやかさんならではの、大胆な発想だと思いました。皆さん、これを積極的に、有効に用いていただきたいと思います。何枚でもお持ちください。ご友人へ、クリスマスカードに同封して、一緒にお送りいただいたら、いかがでしょうか。

(2)歴史の意味と目的

 さて私たちは、ヨハネ福音書を続けて読んでいます。前回も申し上げましたが、ここはイエス・キリストの大祭司の祈りと呼ばれるところです。祭司の中の祭司、大祭司として、イエス・キリストが執り成しの祈りをしてくださっているのです。十字架にかかられる直前の長い祈りです。これほど長いイエス・キリストの祈りが記されている箇所は、他にありません。これは弟子たちへの長い別れの説教に続く祈りです。弟子たちを置いて去って行かなければならない。その弟子たちのための執り成しの祈りです。
 そしてこの後、18章からいよいよ受難物語が始まるのです。そういう意味からすれば、これはどちらかと言えば、待降節よりも受難節に、あるいはその直前に読むのがふさわしいように思われるかも知れませんが、私は、待降節にこの言葉を読むことは意味のあることであり、幸いなことであると思います。
 なぜならば、ここにはイエス・キリストがどのような方としてこの世界に来られたか、また何のために来られたかということが示されているからです。ここに神様の歴史(それは救いの歴史に他なりません)が、大きな視野で描かれています。歴史の意味と目的が、ここに示されています。その大きな流れの中で、クリスマスの意義を考えることは意義深いことではないでしょうか。
 「(あなたが)わたしをお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)。ここに「わたしをお遣わしになったように」と、さらりと記されていますが、これがクリスマスということに他なりません。前回の17章2節には、「あなたは子にすべての支配する権能をお与えになりました」という言葉がありました。それは先ほど読んでいただいたイザヤ書9章5節で預言されていたことの成就であると言えるでしょう。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、『驚くべき指導者、力ある神、
永遠の父、平和の君』と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵の業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
(イザヤ書9章5〜6節)

 この「万軍の主の熱意」こそが、クリスマスを生み出したのです。この預言は、イスラエルの歴史を通して成就するのですが、それを超えて神様の支配は全世界に及んでいくということまで指し示しているのではないでしょうか。イエス・キリストによって、その御心が成就し、さらにイエス・キリストから弟子たちが派遣されることへとつながっていくのです。そしてそこには、大きな一つの目的があります。
 「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。ここに歴史の意味と目的が記されています。私たちの今年のクリスマスのテーマ、「手をつなごう、世界はひとつ」も、そのことを指し示しています。ここにこそ、神様の御心があると言えるでしょう。

(3)世と弟子たちの関係

 さて、今日は17章の6〜19節を読んでいただきました。ここには、これまでも何度も語られてきた事柄が、それを確認するように、イエス・キリストの父なる神への祈りの言葉として出てまいります。
 特にここでは、世と弟子たちの関係について、詳しく記されています。「世」というのは、日本語で呼びにくいので、「この世」と言ってもいいでしょう。この世と弟子たちが、どういう関係があるか。今日の箇所を注意深く読んでみますと、四つの言葉でまとめられるのではないかと思います。

(a)世から選び出された
第一は、弟子たちは、世から選び出された者であるということです。「世から選び出して、わたしに与えてくださった人々」とあります。この世から召しだされている。最初、弟子たちのいた場所は、他の人々と同じ場所であります。そこから、自分の弟子として選び出されていく。出発点です。最初は、クリスチャンとこの世の間には区別はなかったと言うことができるでしょう。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」(6節)。しかしもっとさかのぼって言えば、もともと神様のものであったけれども、今、その神様がはっきりとわかるようにしてくださったということになるでしょうか。

(b)世から憎まれる
 ところが、世から選び出された弟子たちは、皮肉なことにというか、当然なことにというか、世に憎まれる者として立っている。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました」(14節)。この世と対立する部分がどうしても出てくる。イエス・キリスト自身が世に憎まれて、そして十字架にかかって死んでいかれたわけですから、そのイエス・キリストに従っていく弟子たちも、多かれ少なかれ、この世と対立する部分が出てきます。同じではない。その中から選び出されて、この世と対峙するかのようにして、異質なものとしてある、ということです。

(c)世に属していない
三つ目は、世に属していないということです。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(14節)。前の聖書では、「この世のものではない」という言葉でした。主イエスは、この世に来られましたが、そのふるさとは天にある者として生きられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と言われました。そのイエス・キリストに従って生きる弟子も同じように、この世に属さない者となるのです。
 それは、私たちの意志によってそうなると言うよりも、イエス・キリストが聖別してくださるのです。イエス・キリストは、こう祈ってくださいました。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」(17節)。
 前にも一度申し上げたことがある冗談ですが、こういう話を聞いたことがあります。あるミッションスクールの高校生の女の子が、夜、公園を歩いていて、痴漢に襲われそうになった。ふと学校で覚えた聖書の言葉を思い出して、それを口にした。「わたしはこの世のものではない。」そうすると、痴漢が逃げていったそうです。
私たちは、この世に属していない者として、寄留者のように生きているのです。天に国籍を持つ者として、地上を生きている。それがクリスチャンの姿です(フィリピ3:20参照)。

(d)世へと派遣される
 しかし、それで終わりではありません。この世から憎まれ、この世に属さない者として生きるのですが、この世から離れてしまうわけではありません。何か隠遁するかのように生きるのではありません。再びこの世の中へと遣わされていく。11節に、「わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」とあります。
 「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(15節)と言われました。さらに「(あなたが)わたしをお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)とあります。クリスチャンはこの世に迎合しないけれども、この世から遊離して生きるのではない。逃げることはできません。
 この世の真っ只中で生きる。この世の中から召しだされて、イエス・キリストのものとされ、聖別されて、再び、この世へと遣わされて行くのです。
 先週、村上伸先生が、洗礼を受けるということはどういうことであるか、深い洞察を示してくださいました。「洗礼を受けるということは、私たちがキリストのものとなる。キリストと共に死んで、キリストと共に復活することだ。」ローマの信徒への手紙の6章を引いて、そのようにお語りくださいました。
 キリストのものとして、この世と対立しながらも、この世の真っ只中で生きていく。そこには、イエス・キリストのこの世への愛があります。この世はイエス・キリストを憎み、イエス・キリストを死に追いやったわけですが、イエス・キリストは、この世をどこまでも愛されました。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この父なる神の愛を独り子イエスも受け継がれましたが、その弟子となる者も、同じように、世を愛していくことが求められているのです。ちなみにこの有名な御言葉(3:16)は、クリスマスを指し示すと同時に、受難をも指し示しています。クリスマスの日にその独り子を遣わされたということは、犠牲としてささげられるということを含んでいるのです。

(4)ささげられたものとなるため

 イエス・キリストは、今日の箇所の終わりのところで、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」(19節)と言われました。これから起ころうとしていること、つまり十字架にかかって死ぬということ、それを父なる神様に向かって、改めて御自分の意志としてお示しになったのです。
 「彼らも真理によってささげられたものとなるためです」(19節)と続きます。この「ささげられたものとなる」ということは、イエス・キリストの犠牲によって、その罪があがなわれたということと同時に、イエス・キリストに続く者として、私たちも自分を捧げて生きるのだという、両方の意味があるのではないでしょうか。
 私たちは、この世の中でどうやっていくか。特に、この季節になりますと、クリスマスの飾りが街を覆います。日本中の人がクリスチャンになったかのような世界になりますが、そうした中で私たちクリスチャンは、まことのクリスマスの意義を考え、そしてそこに現された父なる神の意志を深く思いながら、それが私たち自身の献身へとつながっていくことを心に留めたいと思うのです。
 「彼ら」つまり私たちが一つとなるためには、どうすればいいか。世界が分裂しているということを強く思わされる時であります。宗教の違いや、考え方の違い、文化の違いがさらに増幅するようにして、敵対心を生み出し、戦争へとつながっていく。私たちはそうした世界に生きています。それは神様の御心に反して進んでいくように見えます。
 そうした中にあっても、イエス・キリストの弟子となる者は、この世が一つとなることのために召されているのです。そのために私たちが働くということは、ある意味で、この世の流れに逆らうような面があります。この世に憎まれるようなことがどうしても出てくる。いやそうした中でこそ、私たちが何をなしていくかが問われているのです。神様の御心、イエス・キリストの御心を尋ねながら、その中で生きる者となりましょう。共に手を携えて、世界が一つになる。そうした思いを、このアドベントに深くしていきましょう。


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