永遠の命

〜ヨハネ福音書講解説教(63)〜
詩編90編1〜17節
ヨハネ福音書17章1〜5節
2005年11月6日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)召天者記念礼拝

 本日は、1年に一度の召天者記念礼拝であります。私たちはこの9月に『恵みの中を歩んで』という教会員と召天者の「信仰の記録」の書物を発行いたしましたので、これまで以上に特別な思いで、今日の日を迎えられたのではないでしょうか。これを手にして、召天者記念礼拝をもつことによって、それぞれの召天者の方々の歩み、そして人となりがよくわかるようになったと思います。私は「序文」にも書きましたが、私たちの教会は「おびただしい証人の群れに囲まれている」ことを、強く感じるものであります。
 この1年の間に天に召された教会員は、野原幸生兄(12月3日)、後藤梅子姉(3月3日)、佐伯多喜姉(3月4日)、木原道姉(3月28日)、高橋正美兄(4月1日)、岩本功兄(7月11日)、加賀野井清志兄(7月24日)の7人であります。その他に、教会関係者として、谷亀吉郎兄のご長男、谷亀吉美兄が7月5日に召天され、教会で葬儀を執り行いました。
 この8人の方々を思い起こす時に、当たり前のことですが、全く違う人生があり、それでいて不思議にそれぞれの形でイエス・キリストを指し示された人生であったことを改めて思います。

(2)大祭司の祈り

 私たちは、ヨハネ福音書を続けて読んでおりますが、今日は17章1〜5節が与えられました。イエス・キリストの弟子たちに対する長い別れの説教に続く、これまた長い祈りです。
 イエス・キリストの祈りは、福音書のあちらこちらに小さなものが記されています。主の祈りがそうですし、有名なゲツセマネの祈り(マタイ26:39他)もそうです。十字架上の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)という祈りを数えることもできるでしょう。しかしそれらはすべて断片的なとても短いものであります。その意味で、今日、私たちが目にしているこの祈りは、1章全体におよぶとても長いものであり、イエス・キリストの祈りを知る上で、とても貴重なものであります。
 これは「大祭司の祈り」と呼ばれております。それは、ここでイエス・キリストが弟子たちのために、祭司の中の祭司、大祭司として、父なる神様に執り成しの祈りをしてくださっているからであります。これまで弟子たちに向けていた目を、今度は神様に向け、神様に向かって語り始められる。今度は人間の側の代表として、神に向き合っておられるのです。大祭司としてというのは、そういう意味であります。ちなみに旧約聖書では、神と人間の間に立つ職務として、預言者、祭司、王という三つがありました。神の言葉を人間に取り次ぐ預言者、人間を神に執り成す祭司、神に代わって人間を治める王、この三つです。預言者が神から人間に向かう方向の仕事であるとすれば、祭司というのは、人間から神に向かう方向の仕事であると言えるでありましょう。
 イエス・キリストというお方は、この三つの職務、預言者、祭司、王の三つを兼ね備えた方として、私たちの世界に来られました。まことの預言者、預言者の中の預言者、言葉の中の言葉、神の言葉そのものが肉となった(受肉)お方です。
 祭司の中の祭司、大祭司。祭司というのは、犠牲の供え物をして、執り成しの祈りをしていましたが、イエス・キリストは動物の犠牲ではなく、ご自身の体を唯一無比の犠牲の捧げものとして、人間のために執り成し、十字架に向かわれた方であります。
 そして王の中の王、(キング・オブ・キングズ)として、私たちのまことの支配者となられたお方であります。
 このところでは、そうした言い方をすれば、これまで預言者として語っておられたお方が、祭司として神に向き合われたと言ってもいいでしょう。もちろんここでもなお、預言者として、その言葉を通して、私たちに、父なる神の御心を伝えておられるのは言うまでもありません。

(3)時が来ました

 イエス・キリストは「時が来ました」と厳かに祈り始められました。これまでイエス・キリストは「私の時はまだ来ていない」と言われていましたし、福音書記者ヨハネも「イエスの時はまだ来ていなかったからである」と記していました。(ヨハネ2:4、7:6、7:30、8:20など)。しかしその後、12章23節に来ますと、「人の子が栄光を受ける時が来た」と厳かに言われました。そしてそれに続けて、有名な言葉を語られました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12:24)。
 人間の考える時と神の定められる時は必ずしも同じではありません。私たちにとって、この神の定められた時を知るということがとても重要ではないかと思います。人の目に今がその時と思えても、神にとってまだその時ではないこともしばしばあるでしょう。人の目にまだ早すぎると思えても、神にとっては、時であることもあります。そのことを私たちは厳粛に受け止めなければなりません。
 また何か物事に成果が表れない時など、私たちは、どうしてなのかといらいらしたり、失望してしまったりすることがあります。しかし神様が必ず、よい時を定めておられる。今はその時ではないから、むしろこれを耐え抜いて、今自分にできること、与えられたことを一生懸命するべき時なのだ、と悟ることもあります。
 親しい人が突然、天に召された時などは、「どうして今なのか。どうしてあんなに堅い信仰を持っている人が、今、召されなければならないのか」という思いに、困惑のうちに立たされることもあるでしょう。それは、私たち人の目にはわからない。牧師といえども、「神様、どうしてなのですか」という思いをもつことが、しばしばありますが、そこで祈って耐えながら、神様の答えを聞く。そうした姿勢が求められるのではないかと思います。

(4)栄光を受ける

 この後、イエス・キリストは、こう祈られました。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(ヨハネ17:1)。少しわかりにくい言葉であるかも知れません。父なる神が栄光を受けるために、父が遣わされた子(イエス・キリスト)が栄光を受けなければならない。子なるイエス・キリストが栄光を受けることによって、父なる神様に栄光が帰せられるのです。それは、父なる神様が神様として立てられるということです。しかし、それは内容的に言えば、人の目に華々しいようなことではなく、実際には十字架にかかって死ぬことを指しています。それを通してでしか、神様に栄光が帰せられないのです。人が人として、神様の前に立つために、本当に立つためには、それを経なければならない。そのことを、イエス・キリストは、ここで心して受けとめておられたのです。

(5)永遠の命とは

 「あなたは、子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」(2節)。この前半は、先ほど申し上げた言葉で言えば、イエス・キリストは王の王として、まことの支配者として立てられたということです。そうであるがゆえに、イエス・キリストは、すべての人に永遠の命を与えることができるようになりました。
 そして有名な3節、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」永遠の命とは、まことの神様を知ることと、イエス・キリストを知ることだ。そういう風に書き記されています。この言葉は、イエス・キリストご自身の言葉であるのかどうか。あるいは、福音書記者ヨハネの言葉がイエス・キリストの言葉の中に挿入されたのであろうと言われます。イエス・キリストが、ご自分のことを指して「イエス・キリストを知ることです」という言い方は、不自然ではないか、また文体も、少し違いがあるということです。私たちにとっては、どちらでもいいことかと思います。いずれにしろ、内容的にいえば、神様を知ることとイエス・キリストを知ること、それこそが永遠の命だと、ここで宣言されているのです。
 私たちは、永遠の命と言いますと、すぐにいつまでも死なないことだと思いますが、そしてそれは必ずしも間違っているわけではありませんが、もっとも大事なこととして、神様を知ること、イエス・キリストを知ることだと言うのです。そして聖書が言う「知る」というのは非常に深い意味を持っています。交わりを指しています。聖書では特に、男女の交わりを指して「知る」と言う言葉を使いますが、そこからも分かりますように、私たちと神様が一体となること、イエス・キリストと一体となること、それが永遠の命であると、告げられているのです。
 そのことがあるがゆえに、私たちの肉体の死、それさえも絶対的なものではない。むしろイエス・キリストの命の中に、私たちも含み入れられ、神様、あるいはイエス様と一つとなること、それによって、私たちは肉体の死を超えて、イエス・キリストにつながっていることを、今生きている生の中で、すでに前もって経験することが許されているのではないでしょうか。

(6)神の人、モーセの詩

 今日は、このヨハネ福音書に合わせて、詩編第90編を読んでいただきました。

「あなたは人を塵に返し
『人の子よ、帰れ』と仰せになります。
千年といえども御目には
昨日が今日へと移る夜の一時(ひととき)にすぎません。
あなたは眠りの中に人を漂わせ
朝が来れば、人は草のように移ろいます。
朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい
夕べにはしおれ、枯れて行きます。」
(詩編90:3〜6)

 この詩は、親しい人の死に直面した時に、書いたのではないかと、私は想像するのです。この詩に、「祈り。神の人モーセの詩」という題が付けられています。もちろん実際には、後代の詩人が、モーセの名前でモーセの心を詠んだものでありましょう。
 モーセは、聖書によりますと、120歳まで生きたと伝えられています(申命記34:7)。普通の人よりも長く生きたということは、祝福のしるしでありましたが、それでもいくら長生きしようとも、いつか死ぬということには変わりありません。遅いか早いかの違いであります。これはどんなに医学が発達した現代でも同じことであります。永遠にこの肉体の命が続くことはあり得ないのです。しかしそうした私たちの肉体の命のはかなさを思いながら、この詩人は、嘆きから不信仰にいたるのではなく、信仰を貫き、告白するのです。

 「主よ、あなたは、代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(同1〜2節)。

 親しい人の死に直面した時に、私たちは人の世のはかなさを思います。そして信仰をもって歩んで来た人が、どうしてこういう死を迎えなければならないのか。この人の信仰は一体何だったのか。どうして助けてくださらなかったのか。遺された者には割り切れない複雑な思いが募ります。ぽっかりと穴が空いてしまったような空虚感。「神も仏もあるものか」と嘆くこともあるでしょう。しかしそう思ったところで、自暴自棄になったところで、慰めを得られるわけではありません。
 むしろそうした時に、神様の「時」を思い、そして神様のなさることが、私たちの思いを超えて、最もよい時を備えてくださったのだという信仰をもつ中で、生きる力を与えられていくのではないでしょうか。

(7)永遠の命を信ず

 私たちは、毎週の礼拝で「使徒信条」を唱えていますが、この「使徒信条」の一番終わりに、「永遠の命を信ず」という箇条があります。『ハイデルベルク信仰問答』では、このところの解説で、こう風に語っています。

「問57 『永遠(とこしえ)の命』という箇条は、/あなたにどのような慰めを与えますか。
答 わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、/この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、/神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。」

 私たちは今、イエス・キリストに連なることによって、永遠の喜びの始まりを感じております。前倒しに、今、この生を生きている間に、イエス・キリストを知り、神様を知る喜びを与えられております。今、すでに感じているものが、この生涯の後には、もっと完全な形となる。私たちの「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような」という表現は、この世に存在するどんなものをも、はるかに超えているということであります。私たちの持っているヴォキャブラリー(語彙)は限られています。私たちが想像できるイメージも限られています。そうした中でも、永遠の命のこともぼんやりとかいま見ることが許されていますが、全体を見ることができません。しかし彼の日には、それらすべての覆いが取り除かれて完全な祝福を受けるのです。
 天に召された方々を思う時に、皆さんの思いはさまざまであろうと思いますが、そうした信仰に立って、その方々の信仰を私たちも引き継ぎながら、私たちも新たな一歩を踏み出してまいりましょう。


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