勇気を出す

〜ヨハネ福音書講解説教(62)〜
詩編118編5〜16節
ヨハネ福音書16章25〜33節
2005年10月9日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)『恵みの中を歩んで』の発行

 今日、私たちに与えられたヨハネ福音書16章25〜33節は、13章より4章にわたって長く続いたイエス・キリストの別れの説教のしめくくり部分であります。その一番最後に、こう語られています。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。何と力強い、そして慰めに満ちた言葉でしょうか。すべての注釈を抜きにして、私たちの心に、直接、響いてくる言葉です。これこそが聖書の究極のメッセージであると言ってもいいのではないでしょうか。
 9月に、ようやく教会員と召天者の信仰の記録、『恵みの中を歩んで』が完成いたしました。皆さんは、もうすでにお読みになられたでしょうか。「夜中まで読みふけりました」という方もありましたが、なかなか読み始めると止まらない、とても興味深いものであります。
 私は、原稿の段階ですでに読んでおりましたが、本になって改めて、皆さんは愛唱聖句として、どういう箇所を選んでおられるかと思って、ざっと見てみました。一番多くの方が選んでおられる書物は、何だとお思いでしょうか。それはヨハネ福音書でした。その中でも、第15章の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉を選ばれた方は、何と10人近くありました。その次に多かったのが、ヨハネ福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉です。やはりヨハネ福音書を好きな方が多いのだな、と改めて思った次第です。

(2)私の好きな聖句

 私が好きな聖句として選んだのは、実は、今日のテキストの中の、先ほどの聖句であります。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」他にもこの聖句を選ばれた方があるかな、と思ってみてみましたが、ありませんでした。聖書の言葉を、一つあるいは二つだけ選ぶとなると、なかなか難しいものです。牧師を長くしていますと、好きな聖句がたくさんできて、選べなくなってしまいます。
 私は、学生時代に所属していた教会の青年会報か何かの自己紹介で、好きな聖句として、この言葉を選んだことがありました。ちなみに以前の口語訳聖書では、「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」という訳でした。
 今回も結局、迷いに迷った末、初心にかえって、この聖句にいたしました。力強い言葉で、昔からこの言葉にどれほど励まされてきたか、わかりません。特に、私は二浪していましたから、それなりに悩み多き青年でした。ウェルテルほどではありませんが。また浪人していましたので、勝つとか負けるとかいう言葉に敏感であったかも知れません。
 若者には若者なりの悩みがあります。壮年には壮年の、熟年には熟年の悩みがあります。いや子どもにだって、子どもなりの悩みがあるものです。どうしてもそこから抜け出すことができない。そこで押しつぶされそうになる。このところで、苦難、悩み、と訳された言葉は、圧迫、重圧というニュアンスのある言葉です。それはどんなに文明が発達しようと変わらないものです。医学は発達し、さまざまな病気が克服されてきましたが、それと同時に、新しい病気も生まれてきました。
 機械は発達し、多くのものを作れるようになりましたが、それだけ忙しくなりました。乗り物が発達し、どこへでも行けるようになりましたが、それだけ活動半径が広がり、仕事が多くなり、かえって押しつぶされそうになります。コンピューターが発達し、どんどん世界が広がりましたが、それだけ問題も世界規模で広がってしまいました。現代人には、現代人ならではの悩み、ストレスがあります。メンタルクリニックが、これまで以上に重要な時代になってきました。
 そうした中、先ほどの16章33節の言葉こそは、私たちが、どんな困難な課題、苦しみ、悩みに遭遇しようとも、自分を見失わないで生き抜く、そしてそれを乗り越えていく人生の秘訣が含まれているのではないでしょうか。しかもそれは単なるまやかし、先のことを見ない、深く悩まない、というのではなくて、真の解決が、ここに示されていると思います。イエス・キリストの遺言とも言える長い別れの説教の締めくくりの言葉でありますが、まさに遺言中の遺言、結論です。この言葉を告げるために、イエス・キリストは、この世に来られたと言っても過言ではないでしょう。

(3)もはや、たとえによらない

 さて私たちに与えられた16章25節以下の言葉を見てまいりましょう。
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(25節)。ヨハネ福音書の中で、たとえと言いますと、「わたしはよい羊飼いである」とか「わしはまことのぶどうの木である」とかを思い起こしますが、そういうさまざまな言いかえをなしながら、ご自分が誰であるかということを示されてきました。しかしもう今はたとえには頼らない。今ここで、十字架への道を歩み始めようとする。まさにその行為、歴史的な行為を通して、自分が何をするために来たかを示されるということです。

(4)イエス・キリストの御名によって

 「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」(26節a)とあります。これは、前回の終わりの言葉を受けています。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(24節)。
 この時、イエス・キリストは、まだ肉体をもった形で、弟子たちと共におられました。しかし去っていかれた後、「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と言われているのです。ですから私たちは、今まさに、「その日には」という時を生きているということになるでしょう。
 私たちは、「イエス・キリストの御名によって祈ります」という祈りのフォーム、形式をもっています。教会へ初めてやって来て、どうやって祈ったらいいかわからない、という中で、私たちはそうした祈りの枠組み、呼びかけとこの締めくくりの言葉を学ぶのです。「イエス・キリストの名によって祈ります」という時に、イエス・キリストが確実に父なる神様のもとに届けてくださるという風に、私たちは理解しています。

(4)父なる神と一体

 「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」(26節b)。これは見放されるということではなくて、逆にもう一つ進んだ形、父なる神様と私たち自身が、もちろんその中にはイエス様もおられて一体となっている姿、それは終わりの日を指し示している状況であると思います。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」(27節)。イエス・キリストと父なる神が一つであるように、その中に私たちも引き入れられるのです。
 そしてイエス・キリストは更に「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(28節)と言われます。弟子たちはこの別れの言葉を聞き、「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(29〜30節)と答えました。
 弟子たちはイエス様の言葉を聞いて、「信じます」とはっきり告白しております。私たちのためにイエス様が来られて、その言葉と業によって、イエス様を知り、父なる神様の意志を知る。聖書の神様を信じるというのは、漠然と、「この天地を創られた方がおられるのだろうな」ということではなくて、むしろ聖書という言葉によって、イエス・キリストが誰であるかを知り、それを信じる、そういう信仰であります。

(5)私を一人にする日が来ても

 しかしそれによっても、私たちはどこまでも誤解している部分があります。この時、弟子たちも「今、分かりました」というのですが、イエス・キリストは、「今ようやく、信じるようになったのか。だか、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31〜32節)とおっしゃった。
 またまた弟子たちを不安にさせるような言葉です。しかし実際、そのようになっていくのです。このすぐ後、イエス・キリストは逮捕されます。その時、弟子たちは、去って行ってしまうのです。イエス・キリストはそのことさえも、既にご承知であった。承知の上で、弟子たちを受け入れておられる。
 そして同じように私たちを受け入れてくださっているのです。私たちも「今、分かりました。信じます」と言いながら、次の瞬間にはどうなるか分からない、そういう不安定なものであります。それを承知しながら、イエス様は、そのもう一つ先まで見越して、励ましておられるのです。
 イエス様御自身、みんな去ってしまって、ひとりぼっちになってしまうと言いながら、それでも父なる神様が共におられると語られました。これはもう一つ次の時代に、弟子たち自身が経験することです。みんなが去って、弟子たちがひとりぼっちにされてしまう時が来る。それでもあなたがたはひとではない。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(14:18)。そういう御言葉が二重写しになってくるのであります。そして「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と、締めくくられたのでした。

(6)神学校日・伝道献身者奨励日

 今日は神学校日・伝道献身者奨励日でありますが、神学校へ進んで、牧師になるという時にも、さまざまな不安や悩みに襲われるものであります。「果たして自分のようなものが立って行けるのだろうか。御言葉を取り次ぐことができるのだろうか。」今日、この同じ時間に、日本中のさまざまな礼拝で、神学生が講壇に立って説教をしております。その時に、「イエス様が共にいてくださる。私自身は弱い器、不完全なものであり、いろんな重圧に負けてしまうようなものであるかも知れないけれども、イエス様が共にいてくださるならば、何を一体恐れることがあろうか。」そういう根源的な支えに励まされて立っていくのではないでしょうか。
 牧師という仕事は、みんなから祝福されて、教会の人と共に歩む、最も幸いな仕事であると思っていますが、ある面、孤独な仕事でもあります。さまざまな問題に直面する中で、一人で向き合わなければならないことも多いものです。誰にも言えないし、言ってはならないこともあります。当然のことです。しかしそうしたところでこそ、私たちはイエス・キリストによって支えられているのだと知り、励まされるのです。
 「勇気を出す」ということは、「くよくよしていても仕方がない。とにかくがんばれ」というようなことではありません。そのようなことであれば、私たちはかえって不安になったり、それを出せない自分とのギャップに悩まされたりするものです。あるいは、先を見ないで、何か自爆テロのような形で、「勇気を出して死ね」と言われても、それはおかしなことであります。
 本当に勇気を出していい、その根拠が聖書の中にあります。私たち自身は、苦難の中、悩みの中にある。さまざまな問題に取り囲まれている。八方ふさがり。どこから突破口を見つけていいのかわからないような状態の中に置かれている時に、イエス様はすでにそれを克服しておられる。そしてそのイエス様が共にいてくださることによって、私もそれを乗り越えることができる。そうした思いを、皆さんにも持っていただきたいと思います。それが信仰の最も大きな賜物ではないでしょうか。

(7)多くの讃美歌

 今日は讃美歌を選ぶのに苦労いたしました。というのは、この御言葉にふさわしい、歌いたい讃美歌がたくさんあったからです。最初の「勝利をのぞみ」(We Shall Overcome! 471番)という歌は、マーティン・ルーサー・キングたちによってなされた、あのワシントン大行進のテーマソングのように歌われたものであります。先ほど歌いました455番は、「神は私の強い味方。誰が私に逆らい得よう。すべてのものははむかうとも、せつに祈れば逃げしりぞく」と歌います。力強い歌です。「主われを愛す」(484番)も歌いたいと思いましたが、割愛しました。このあと歌います讃美歌は、「主イエスこそわが望み」という歌であります。

1 主イエスこそわが望み、
わがあこがれ、わが歌。
昼も夜もみちびく、
わが光、わが力。
3 こころみの世にありて、
罪の力、死のなやみ、
とり囲みて 迫れど
なお主こそ、わが望み

そうした思いを持ちながら、それぞれの抱えている問題を見据えつつ、そこから逃げないで、主が共にいてくださることを信じて歩んでまいりましょう。


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