悲しみは喜びに

〜ヨハネ福音書講解説教(61)〜
詩編126編1〜6節
ヨハネ福音書16章16〜24節
2005年9月18日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)先の先まで

 イエス・キリストの弟子たちへの別れの言葉が続いています。イエス・キリストは、とにかく弟子たちに慰めと励ましの言葉を残そうとしておられるのがよくわかります。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。弟子たちは、イエス・キリストの言葉と態度に、何かしら、いつもと違うただならぬものを感じ取っています。はりつめた空気が漂っています。しかし、その言葉の真意を悟ることができません。
 この時になっても、まだイエス・キリストが明くる日に十字架にかかって死ぬことになるということを、誰も信じることができなかったのでありましょう。
 弟子たちは互いに、言い合いました。

「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」。また言った、「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」(17〜18節)。

 この後の展開を知っている私たちにしてみれば、もどかしい気もいたします。「ここまでイエス様がおっしゃっているのに、どうしてわからないのか。」何か映画やドラマのあらすじを知っている者が、その物語の中の登場人物が、それがわからずにいるのがもどかしく見えるのに似ているかも知れません。すぐ横に解決のヒントがあるのに。キーパーソンがいるのに。でもそれに気づかないで、通り過ぎていく。韓国ドラマなどを見ていると、こちらも、じれったくていらいらしてきます。「ほらそこにいるのに、どうして気づかないの。すぐそこにいるじゃないの。そっちじゃない!」テレビを見ながら、本気で叫んでいる人もいます。「うしろ、うしろ!ああ、行っちゃった」。それでまた、ドラマが5時間ほど延びたりします。
 しかし考えてみると、私たちのイエス様の関係も、これと似たところがあるかも知れません。すぐそばにおられるのにわからない。すぐそばに解決のヒントがあるのに、それに気づかないのです。それをもう一つ、外側の枠組みで見ることが可能だとすれば、「救いはそこまで来ているのに、どうして気づかないの」ということになるかも知れません。
 この時、弟子たちは不安と恐れのただ中にありました。まだ悲しみはそれほど感じていないかも知れません。主イエスがまだ目の前におられる訳ですから。しかし、主イエスは彼らの悲しみを先取りして、しかもその悲しみは一時的なものだと言って慰め、その先には喜びが待っていると告げられるのです。「しばらくすると」という言葉が2回出てきます。これから「しばらくすると」自分はいなくなる。しかしまた「しばらくすると」帰ってくる。イエス・キリストは、二つ先まで読んでおられるのです。三度目、同じ言葉が出てきます。

「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とわたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(19〜20節)。

(2)しばらくすると

「しばらくすると」とはおもしろい表現です。日本語訳の幾つかの聖書を読み比べてみましたが、どの聖書も「しばらく」という言葉を使っていました。「しばらく」というのは、「ほんのわずかの間」という意味です。ちなみにギリシャ語では、ミクロンという言葉です。ミクロンというのは、現代では1ミリの1000分の1を指す単位です。ミクロの世界という言葉もあります。目に見えない小さな世界です。それほど小さな間、というニュアンスでしょう。
 時間の感覚というのは、非常に主観的なものです。「しばらく」というのも、それがどれ位の長さなのかは、状況次第ですし、人によって受けとめ方が違います。「しばらくぶりですね」と言うと、それほど短い時間ではない。ある程度経っている感じがするのではないでしょうか。「今日はしばらくぶりに何々さんが礼拝にお見えになりました」というと、「久しぶりに」というニュアンスがあるように思います。
 同じ時間でも、楽しい時間はあっという間に過ぎますが、苦しい時間は、言いようもなく長く感じたりします。「テレビドラマの30分はあっという間なのに、説教の30分はなんでこんなに長いのか」と感じている人もあるかも知れません。逆ならいいですけど。まあそういうことは滅多にないでしょう。
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Uペトロ3:8)。永遠と時間が交錯するのが、聖書の世界だと言ってもいいでしょう。
 弟子たちにとって、主イエスといる「しばらく」の間は、あっという間に過ぎたでしょうが、その後の悲嘆にくれる「しばらく」の間は、とても長く感じたことでしょう。しかしそれもずっと続くわけではない。この「しばらく」の間は、あなたがたを苦しめる者が勝ち誇ったように喜ぶことになるが、それはやがて過ぎ去る、やがて覆されることになる。そういう風に、イエス様はおっしゃったのです。
 この最初の「しばらくすると」の後は、イエス・キリストの受難、十字架の死を指していると思いますが、その次に「喜びに変わる」時とは、復活を指していると読むこともできますし、「聖霊降臨」を指している、と読むこともできまるでしょう。
 もともとヨハネ福音書は、これまでも言ったことがありますが、ルカのようにはっきりと復活の40日後に聖霊降臨という出来事があったという書き方をしておりません。復活と聖霊降臨が同時的です。復活のイエス・キリストが弟子たちの家を訪れ、(鍵がかかっているのに、ドアをすり抜けて)、そして息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われるのです(ヨハネ20:22)。

(3)終末の日

 しかしまた、この「しばらくすると」は終末の日を指し示している、という風に読むこともできます。未だこの約束は実現していない。私たちにはまだ悲しみが残っている。そのことは、22節以下の言葉を読む時に、私たち自身にあてはまることとして、一層、強く思うのです。
 「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(22〜23節)。それはあの復活と聖霊降臨の日に起こったことであると言えますが、現代の私たちにしてみれば、今もイエス・キリストは見える形ではおられません。分かる人にだけ分かる、目に見えない形で臨在してくださっています。しかし終わりの日にはすべての人の目に明らかなように、謎が解けるような形で一緒にいてくださる。23節を見ますと、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」とあります。なぜ尋ねないのか。もうあきらめたのか。そうではありません。すべての疑問が解けるのです。イエス様と顔と顔を合わせて一体となるような世界が実現するということを言おうとしているのではないでしょうか。

(3)サウダージ

 私は、この箇所を読みながら、ポルトガル語の「サウダージ」(Saudade)という言葉を思い起こしました。サウダージというのは、ポルトガル語の中で、最も美しい言葉の一つであると言われます。ポ日辞典には、「郷愁、望郷、懐旧の念、思慕、ノスタルジア」とありました。しかしもうひとつ、しっくりきません。ポ英辞典では「longing, yearning, ardent desire, homesickness, nostalgia」とあります。
 サウダージとは、何か、本来そこにあるべきものが欠けている状態で、それを熱く求める気持ちを指している。「どこそこへ行きたい。でも行けない」「何々を失った。でも手に入らない。」「誰それに会いたい。でも会えない。」そうした熱い思いです。単なる過去への郷愁ではありません。
 私はブラジルに7年ほどいましたが、最初の4年半は一度も日本に帰りませんでした。最初のうちは平気でしたが、3年を超えたあたりから、無性に日本へのサウダージが強くなりました。急に日本の夢を見るようになりました。何でもないことですが、「日本の本屋を一日中うろうろ歩いてみたいなあ」などと思いました。
 昔、ブラジルへやってきた日本人たちがそうしたサウダージを強くもったことが何となくわかりました。サンパウロの教会員の一人は、「空港へやってきては、『あの飛行機に乗れば日本へ帰れるのだなあ』と考えた」と言っておられました。
 私はブラジルから日本へ帰ってきて、そろそろ7年になりますが、今は逆に、私の中でブラジルへのサウダージが突然、膨れ上がることがあります。夢に出てきたり、無性にオリンダの教会の人々に会いたくなったりいたします。そうした思いがサウダージです。そしてそれが実現した時、ブラジル人は、Eu matei saudade というのです。I killed "saudade"「私はサウダージを殺した」と言う意味ですが、それでは身も蓋もないという感じもします。

(4)イエス・キリスト、世界の希望

 こうしたサウダージ、そして今日の聖書箇所に記されているような状態をよく表した、ブラジルの美しい讃美歌があります。「イエス・キリスト、世界の希望」(Jesus Cristo, Esoperanca do Mundo)という曲で、ブラジル・ルーテル教会の S. Meincke, E. Reinhardt, J. Gottinari という3人によって作られたものです。
この曲の歌詞の3番から5番には、サウダージ(Saudade)という言葉が冒頭に出てきます。

1 現在の少し向こうで
未来は喜びをもって告げている。
  夜の影は去り
新しき良き日の光が射すと。

※ (おり返し)
主よ、御国を来たらせてください。
命の祝宴が新たに創られ、
私たちの期待と熱意は、
大きな喜びに変わる。

2 希望のつぼみは開く。
咲こうとする花の予感
  豊かな生命をもたらす
あなたの臨在の約束

3 邪悪のない世界、
蝶の羽と花の楽園へのサウダージ
  憎しみも痛みもない世界の、
平和と正義と兄弟愛へのサウダージ

4 争いのない世界へのサウダージ
平和と純潔への願い
  武器もなく死も暴力もなく、
体と体、手と手が出会う。

5 支配者のいない世界へのサウダージ。
強者と弱者もいない。
  宮殿とバラック小屋を生み出す
すべての構造が崩壊する。

6 私たちはすでに貴重な種を 
御国の保証を今、もっている
  未来は現在を照らし出し、
あなたは来る 遅れることはない。

 この「サウダージ」は、ただ単に過去への郷愁ではなく、神の国が実現しますようにという「熱い思い」のことだと言えるでしょう。私はこの讃美歌の日本語歌詞も作ってみましたので、少し歌ってみます。

1 今の時をこえて  未来は告げている
夜の闇は去りて  明るい日が来ると

※(おり返し)
 御国よ、来ませ  命が踊り出す
私たちの夢は   喜びに変わる

2 つぼみが花となる 徴であるように
キリストは未来の 喜びのしるし

3 憎しみもねたみも 争いもない国
真実と正義と   愛に満ちた世界

4 抑圧と力が    支配する世界は
主が来られる時に すべてが崩れ去る

5 共に手をたずさえ 共に抱き合い
誰も排除されず  誰ももう泣かない

6 未来から光が   今ここに差し込み
神の国の種が   大地から芽を出す

(5)産みの苦しみは十字架

 しばらくすると、わたしを見なくなる。そこでイエス・キリストへの「サウダージ」を強くもつことになる。しかしその「サウダージ」を「殺す」ことができる日がやってくるということです。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(22節)。
 イエス・キリストは、そこにいたるまでの苦しみを女性の出産にたとえられました。「女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(21節)。
 イエス・キリストは、男であったのに、よく女性ならではの経験を、実感をもって語ることができたと思います。私は、この言葉には、主イエス自身がこれから受けようとする受難が重ね合わせられていると思います。それはいわば産みの苦しみであった。それによって新しい人間が、まさに生み出される。それは私たち一人一人のことではないでしょうか。
 イエス・キリストに会うその日、私たちは愛する人とも再会することができると、聖書は約束しています。今日、9月召天者の記念の祈りがありますが、そうしたことを心に留めて、祈りつつ、今の時を過ごしてまいりましょう。


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