今理解できなくても

〜ヨハネ福音書講解説教(60)〜
イザヤ書25章1〜10節
ヨハネ福音書16章1〜15節
2005年9月4日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)ボンヘッファーとM・L・キング

 9月になりました。かつて日本の教会では9月第一主日を振起日と呼んで、信仰を奮い起こして、秋の信仰生活のスタートを切る日曜日としておりました。振起日という名前は、最近は使いませんが、そうした思いで、祈ってスタートしていただきたいと思います。
 皆さんは、この夏、どのようにお過ごしになられたでしょうか。私は、週ごとに泊りがけの行事があり、あわただしい夏を過ごしました。やっと一息ついたと思えば、「もう9月か」という感じです。しかし自分の学びのためでもありましたので、充実した夏であったと思います。8月1〜3日は、福岡の西南学院を会場に開かれたボンヘッファー研究会の全国研修会に、8月22〜24日は、軽井沢で開かれたマーティン・ルーサー・キング研究会の全国研修会に参加してまいりました。ボンヘッファーもM・L・キングも、共に20世紀の殉教者と呼ばれる神学者・牧師であり、私が多くのことを学んでいる、いわば私の思索と行動の源泉であります。
 M・L・キング研究会は、梶原寿先生という方が始められた会ですが、この梶原先生を、私たちはこの9月25日の特別礼拝と講演会でお招きしております。
 今日のように、力を持つ者が正義の何たるかを規定し、正義の執行者であるかのようにふるまっている時代には、ボンヘッファーやM・L・キングのような人たちから、真の平和への道を学んでいくことは急務であるように思います。ボンヘッファーは、第二次世界大戦中に、ユダヤ人に対して、深く自らの罪責、国家の罪責、そして何よりも教会の罪責を認識しつつ、まず自らの悔い改めから平和を実現しようとしていた人でありますし、M・L・キングは、力ではなく、非暴力によって、愛と寛容によって平和を実現しようとした人であります。

(2)ピースフル・トゥモロウズ

 梶原寿先生は、キング牧師の思想の今日的継承の一つとして、ピースフル・トゥモロウズというNPOの活動を積極的に紹介しておられます。この団体は、9・11の同時多発テロ事件の被害者の家族によって始められたものですが、9・11以降、それを口実に戦争への道を突き進んでいったアメリカ政府に対して、そして世界に対して、「自分たちの家族の犠牲を、さらなる戦争の口実に利用してくれるな」ということを訴え続けております。アメリカは、あたかもその戦争が聖書の神様の主権を示し、その正義を代行するかのようなふりをしてきました。梶原先生は、このピースフル・トゥモロウズの活動記録を記した『われらの悲しみを平和への一歩に』という書物を訳して、岩波書店から昨年出版されました。梶原先生には、9月23日、霊南坂教会で開かれる西南支区社会担当の講演会でもご奉仕いただきますが、こちらでは「共生への突破口」と題して、このピースフル・トゥモロウズの最近の活動をご紹介くださる予定です。
 今日お読みいただきましたヨハネ福音書16章にこういう言葉があります。

「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(2〜3節)。

 非常に今日的な言葉ではないでしょうか。戦争をしかけたアメリカもそうですが、それ以前にテロでもって世界を変えようとする過激派も「自分は神に奉仕している」と考えているのかも知れません。しかしそれももちろん、神様の御心を知らないと言わなければならないでしょう。

(3)悲しみに沈む弟子たち

 さて私たちはヨハネ福音書を読み進めて、今日から16章に入りました。これは内容的には13章21節から続くイエス・キリストの弟子たちへの別れの言葉の一部です。
 イエス・キリストは、弟子たちに向かって、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない」(5節)と言っておられます。
 もっともこの長い話が始まった頃、ペトロは「主よ、どこへ行かれるのですか」(13:36)と尋ねておりますし、トマスも「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」(14:5)と、食いつくように尋ねていました。だんだん主イエスの話を聞いているうちに、弟子たちも、黙り込んでしまったのでしょうか。主イエスは、「わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」(6節)と続けて言われました。
 そうした中、主イエスが弟子たちを懸命に励まそうとされているのが伝わってきます。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(7節)。

 この弁護者というのは、これまでも何回か出てまいりました(14:15等)。聖霊のことです。肉体をもったイエス・キリストと、共に過ごすことが許された弟子たちは、とても幸運であったと思いますが、その時イエス・キリストは、ある特定の場所におられたわけです。ですから逆に言えば、肉体をもったイエス・キリストが去って行かれるからこそ、肉体に束縛されない聖霊(弁護者)として、いつでもどこでも、どの弟子に対しても、共にいてくださることが可能になる。イエス様はそのことを、弟子たちに、告げようとされたのです。

(4)罪、義、裁き

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(8節)。今、罪とはこういう風に考えられている。義とはこういう風に考えられている。裁きとは、こういう風に考えられている。しかしそれらは全部誤っている。聖霊が、この三つについて、その正しい理解を与えてくれると、おっしゃいました。しかしその後のイエス・キリストの説明は、なかなかわかりにくいものではないでしょうか。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(9〜11節)。

 一般的に罪とは、旧約聖書の律法に違反することと考えられていましたが、この時イエス・キリストは、イエス・キリストを信じないこと、それが最大の罪であると言われたのです。これは、逆に言えば、イエス・キリストを信じることによって、他のすべての罪から解放される、その一点に集中しているということです。それを信じないならば、どんなに自分を正しく神様の方へ持っていこうとしても、罪は残ると言おうとされたのでしょう。
 わかりにくいのは、二番目の義についてです。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」。義というのは、聖書の中で最もわかりにくい言葉のひとつでしょう。本来的には、「正しさ」、「神様との正しい関係」をあらわす言葉です。旧約聖書では、人はそれを、律法を守ることによって示すとされていました。しかし、どんな人間であっても、それを完全に示すことはできないので、矛盾に陥ってしまいます。イエス・キリストは、それとは違った道を示されました。イエス・キリストが十字架と復活を経て父なる神様のもとへ行って、一体となられる時にはじめて、私たちと神様の関係が正しい関係と認められる、「義」が成立するということを言おうとされているのではないでしょうか。
 三番目、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」。イエス・キリストの時代、そしてヨハネ福音書が書かれた時代にも、クリスチャンたちは、迫害の最中にありました。あたかもこの世の支配者であるかのようにふるまっている人たちがいました。しかしそれらすべては本当の支配者ではなくて、神様が本当の支配者であることが明らかになる時が来ると言おうとされたのではないかと思います。

(5)聖霊の二つの働き

 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」(12節)とおっしゃいました。私自身、「罪と義と裁きの話は、難しいなあ」と思っていたのを、何だか見透かされている思いがしました。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13節)と付け加えられました。「弁護者」と呼ばれた聖霊が、ここでは「真理の霊」と呼ばれます。聖霊は、私たちに真理を悟らせてくれるからです。
 「その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(13節)。ここで聖霊の二つの大事な働きについて述べられています。一つは、「自分から語るのではなく、(父なる神やイエス・キリストから)聞いたことを語る」ということ、もう一つは、「これから起こることを告げてくれる」ということです。
 これは14章26節のところで語られたことに通じます。それは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」という言葉でした。
 私はこの言葉の時にも、聖霊には二つの働きがあるということを申し上げました。一つはイエス・キリストのことを思い起こさせてくれるということ、そこから離れて行ってしまわない。しかしながら、それでいて過去のものになってしまわない。「いつも新しくイエス様の言葉がよみがえってくるという形で、私たちに何をすべきかを教えてくれる」。それが聖霊であろうと思います。今日のところでもそれと同じことが示されているのではないでしょうか。

(6)聖書にじっくり取り組む

 さてそういう風に弟子たちに慰めと励ましを与えつつ、ご自分は去って行こうとされます。長い、長い説教でありますが、「いくら言葉を尽くしても、あなたたちは今理解することはできないだろう」と言いながら、言葉を置いていかれました。この時弟子たちは、まだ不十分な理解のまま、これらの言葉をあたためていったのでしょう。そして十字架と復活の後に、「ああイエス様がおっしゃったのは、こういうことだったのか」と、新しく聖霊に教えられていったのではないかと思います。
 そのことは今日の私たちにもあてはまることであります。聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。
 今日は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それが聖書であります。私は、この秋、ぜひ皆さんに、そうした思いで、この聖書に取り組んでいただきたい、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいと思います。

(7)約束の言葉を信じて

 この後も、イエス・キリストは、ショックを受け、戸惑っている弟子たちに向けて、言葉を変えながら、確かな約束による励ましの言葉を語っていかれました。
今日は、イザヤ書25章を読んでいただきました。これもイザヤに与えられた、神様の預言、約束の言葉であります。この時、イスラエルの人々は迫害の中、苦しみの中にありましたが、そこでこそ主の約束の言葉を聞いたのです。

「主はこの山で
すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし、
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。」
(イザヤ25:7〜8)

 私たちを苦しめる最たるものは、やはり死でありましょう。死によって、私たちは愛する人と無理やり引き裂かれる経験をします。しかし、その死さえも永久に滅ぼしてくださる、と言われるのです。
 聖書を読んでいるとわからないことがたくさん出てきます。内容が難しくて理解できないということもありますし、内容はわかるけれども、今の自分には受け入れることができない、というものもあるでしょう。
 なぜこういう目にあわなければならないのか理解できない。そうした思いをもつこともきっとあるでしょう。そうした中にあって、私たちは、聖書が約束している終わりの日には、喜びが待っている。宴が待っている。その事柄に目を向けながら、今を生き抜いていく力を得たいと思います。
 キング牧師も、苦しい迫害のただ中にあって、「私には夢がある」と語り、すべての差別が撤廃される日が来ると信じて、その日を仰ぎ見ながら進んでいったことを思い起こしたいと思います。


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