私も憎まれた

〜ヨハネ福音書講解説教(59)〜
エレミヤ書26章1〜11節
ヨハネ福音書15章18〜27節
2005年7月24日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)「憎しみ」の段落

今日、お読みいただきましたヨハネ福音書15章18節以下のところは、「迫害の予告」と題されています。イエス・キリストが、弟子たちと最後の夕食をとり、洗足に引き続いて語られた言葉です。翌日には十字架にかけられる。そうした緊迫感が伝わってくるようです。
 これまでの1〜17節では、「愛」という言葉が軸となって、イエス・キリストと弟子たちとの関係が語られていました。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(9節)。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。

 ところが、今日の18節以下では、一転して「憎しみ」という言葉が軸になっております。イエス・キリストと「この世」、ひいては、弟子たちと「この世」の対立関係が、ここに示されるのです。ちなみに「憎む」という単語は、新約聖書全体では40回、またヨハネ福音書全体で12回出てくるそうですが、そのうち7回が、今日のこの段落に集中しています。イエス・キリストと弟子たちがいかに強烈にこの世の憎悪の標的になるかということが、ここに示されているようです。

(2)イエス・キリストと「世」

 「世があなた方を憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(18節)。先ほど申しあげましたように、イエス・キリストはこの翌日に十字架かけられて死んでいくことになるのです。そのことを承知しながら、この言葉を語られたのでしょう。
 イエス・キリストと「世」の関係は、二面的です。一方で、「世」(この世)はイエス・キリストの伝道の対象であり、愛の対象でありました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16〜17)。

 しかし他方では、「世」はイエス・キリストを知らず、イエス・キリストを憎むのです。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(同1:10〜11)。イエス・キリストは「世」のために祈られるのですが(17:21)、「世」は聖霊を受け入れないし(14:17)、従ってイエスを受け入れません。それゆえに、イエス・キリストは「世」を裁くために来たのではないにもかかわらず(3:17)、結果として「世」に対する裁きとならざるを得ないのです。「信じない者はすでに裁かれている」(3:18)という言葉は、そうした状態を指しているのだと思います。しかしイエス・キリストは、そういう「世」に打ち勝っていくのです(16:33)。
 「世」はイエス・キリストを憎み、迫害し、殺そうとする。それはなぜかといえば、イエス・キリストが真実な光であるがゆえに、「世」の偽善性を見抜き、その「罪」を明らかな光のもとに置くからではないでしょうか。イエス・キリストの存在や言動は、当時の人々にとって、大きな脅威でありました。その言葉は真実をついているがゆえに、無視できない存在なのです。イエス・キリストという光がまぶし過ぎたのです。イエス・キリストは、父なる神という太陽の光をこの「世」という場所で映し出す鏡のような存在であったと言えるかも知れません。そこでは何もかも映し出されてしまう。神の方はまぶしくて見えないけれども、自分自身は、見たくないところまで見えてしまう。だから人はその鏡を壊してしまえば、もう安全だと思い込むわけです。

(3)預言者エレミヤもそうであった

 旧約聖書の時代には、主なる神の意志を伝える人として、預言者が立てられました。誰も言おうとしない、しかし誰かが言わなければならない真実を告げるのが、預言者でした。それゆえに彼らは憎まれ、迫害されたのです。
 預言者エレミヤもそうです。エレミヤは、ある日、主なる神から「主の神殿の庭に立って語れ」と命じられた。

 「ユダの町々から礼拝のために主の神殿に来るすべての者に向かって語るように、わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。彼らが聞いて、それぞれの悪の道から立ち帰るかも知れない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。彼らに向かって言え。主はこう言われる。もし、お前たちがわたしに聞き従わず、わたしが与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わしたわたしの僕である預言者たちの言葉に聞き従わないならば、−お前たちは聞き従わなかったが−わたしはこの神殿をシロのようにし、この都をすべての国々の呪いの的とする」(エレミヤ26:2〜6)。

 シロとはエルサレムの前に最初に主の神殿のあった町です。それが退けられて、エルサレムに神殿が建てられた。しかしこのエルサレムも悔い改めて御心に沿う歩みをしなければ、あのシロと同じように、退けられるという厳しい言葉を語ったのでした。
 この言葉を聞いた人々はどのような反応をしたでしょうか。

「祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕えて言った。『あなたは死刑に処せられねばならない。なぜ、あなたは主の名によって預言し、「この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者も亡くなる」と言ったのか』と」(エレミヤ26:9)。

 ところがこの後おもしろいことに、二つのグループに分かれていきます。一つは祭司と預言者たち(宗教的指導者)、もう一方は、高官たちと民のすべての者です。民衆は民の高官の側にまわりました。祭司と預言者たちは、エレミヤの正しさを見抜いていた高官たちと民衆に向かって「この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました」(26:11)と言いました。都に敵対する発言をしたから死刑だというのです。それが本当のことかどうかということより、その都、あるいは国に対して敵対的かどうかということが判断基準となるのです。

(4)国益に反する

 国益を損なうような発言、国の体制を脅かすような発言をする者は憎まれ、時には殺されそうになる。今日でもそういうことがしばしばあります。フセイン政権下のイラクがそうでありましたし、北朝鮮の現政権下は、今でもきっとそうでしょう。1980年代までの東欧の共産主義政権下もそうでありました。しかし共産主義政権下だけではありません。それらとは政治的には全く対極にある体制においても、同じように、言論の規制、迫害、弾圧が起きます。たとえば、私が住んでいましたブラジルを初めとするラテンアメリカの(反共産主義の)軍事政権下でも、1960〜70年代に、厳しい迫害がありました。国の体制を批判する人々が誘拐されて行方不明になったり、不当逮捕され、殺されたりしました。
 私たちの日本においても、戦前、戦中においてはそのような言動の規制がなされていたのではないでしょうか。そのところで町に対して、国に対して、敵対する発言をするまいと思っても、それを超えて、深いところで、国や町を愛するがゆえに語らざるを得ないということが出てくるのではないでしょうか。
 この時のエレミヤも、決してエルサレムを憎んでいたわけではありませんでした。エルサレムを憂え、神様が愛されているということを何とか告げようとして、このような形になったのだと思います。

(5)内村鑑三の「二つのJ」

 有名な無教会の指導者で、内村鑑三という人がいましたが、内村鑑三は、「自分のふたつのJを愛する」と言いました。これは、彼もモットーのような言葉でした。二つのJというのは、Japan と Jesus であります。彼にとって、イエス・キリストを徹底して愛するということと日本を愛するということは、一つのものでありました。表面的には、日本がやっていることに敵対しているような言動にならざるを得ないこともありましたが、それはまさに日本への愛のゆえでありました。
彼のお墓には

I for Japan
Japan for the World
The World for Christ
And all for God

 と刻まれております。日本語では、

「我は日本のため、
日本は世界のため、
世界はキリストのため、
そしてすべては神のために」

となります。

(6)イエスの弟子ならば

 イエス・キリストを愛するがゆえに、信仰者として、憎まれることも起こり得る。それはイエス・キリストご自身とこの世との関係においてすでに起こったことでした。

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(18〜19節)。

 イエス・キリストの弟子であろうとするクリスチャンであれば、当然そういうことは起こってくるであろうとおっしゃった。そうでなければ本当のクリスチャンではないということまでは言えないでしょうが、この時、ヨハネ福音書を読んでいた人々は、実際にそうした迫害の最中にありました。その時に「イエス様もそうだった」ということを思い起こしたのです。それは大きな励ましと慰めであったでしょう。
「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するであろう」(20節)。
イエス様に従おうとする時、私たちは自分の十字架を担って従っていくのだということを思います(マタイ16:24参照)。

(6)しかし自分を正当化せず

 さてそれらを踏まえながらでありますが、私たちは、これらのイエス・キリストの言葉を、自己正当化するように聞いてはならないと思います。私たちが誰かに非難されたり、批判されたりする時に、自分たちが間違っているにもかかわらず、それをイエス・キリストの弟子として正当化することがしばしばあるのではないでしょうか。そこで私たちはまた、別の間違いを犯し始める。「自分はクリスチャンだから、イエス様に従っているから、こういう目にあうのだ。」自分を正しい側に置き、自分の敵対者を悪者にしてしまう。「あっちが間違っている。」そういう構図で考え始める時、私たちはかえって神様の御心から離れていくことがあると思います。
 現在起きている世界中の戦争も宗教戦争のような様相を呈していますが、それも自分たちを神様の側、正しい側に置いて、自己正当化しているのでしょう。そこでは、本当に自分(たち)は御心に従っているだろうかと、徹底的に吟味しなければならないと思います。
 私は、ここでのイエス・キリストの言葉は事柄としてはわかるのですが、自分自身にあてはめてみる時に、やはり自分の中にまだ、イエス・キリストに属する部分と、イエス様の言う「世」に属する部分があることを思います。並列しているのです。そして自分自身の中で対立が起きている。それをむしろ自覚しながら、世に属して、世に従っていこうとする古い自分を、イエス・キリストと共にいることで、克服することが求められているのだと思います。
 そうは言っても、自分でできることではないでしょう。そこでこそイエス・キリストにつながっていることを覚える。この15章は、ぶどうの木のたとえで始まりました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)。私たちが必死になってぶどうの木にしがみついくということではなく、まことのぶどうの木に、私たちがすでに連なっているのだという事実を、福音として聞き取りたいと思います。

(7)真理の霊

 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(26節)。最後に、聖霊について触れられています。この聖霊こそが、まことの弁護者であり、私たちがいかなる状態にあっても、励まし、力づけてくださいます。また間違いをおかしていたら、ただしてくださるでしょう。
 パウロは、「"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)と言いました。
 そういう風に「聖霊が私たちを導いてくださる。イエス・キリストと一つにしてくださる」という信仰を持って、自分を謙虚に見つめながら、苦しみにあう時には、イエス様の姿を思い起こしながら、苦難に打ち勝っていきたいと思います。


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