私が選んだ

〜ヨハネ福音書講解説教(58)〜
エレミヤ書1章4〜10節
ヨハネ福音書15章11〜17節
2005年7月10日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)人生の枠組み

 私は、7月6日から8日まで、横浜のフェリス女学院高校1年生の修養会の講師として、天城山荘へ行ってまいりました。今回の修養会テーマは、「生きる意味」というものでありました。高校1年生といえば、これから自分の進路を決めていくべき大事な時期ですが、そのような時に、ただひたすら受験勉強をするのではなく、三日間だけでも、全く普段の生活から離れ、聖書を通して自分をかえりみる機会が与えられているのは、とても有意義なことであると思いました。またそのようなことを大事にしている学校の姿勢を心強く感じました。
 今回、「生きる意味」というテーマに即して、私はマタイ福音書第25章の「タラントンのたとえ」(14〜30節)「すべての民族を裁く」(31〜46節)をテキストに2回の講演をいたしました。
 なかなか優秀なお嬢さんたちで、私の話もよく理解してくれているなあと、手ごたえを感じました。突っ込みもなかなか鋭く、批判もします。神様がいると信じて生きている者とそうでない者とでは立っているところが違うので、批判は当然でしょう。
 タラントンのたとえの講演では、「主人が僕を呼んでおられる。これが私たちの生(Life)の根源的枠組みだ。このことに気づくかどうか、このことを認めるかどうかで、私たちの人生のありようは全く異なってくる」ということを語りました。
 そのことに気づく時に、自分の人生という枠組みに、もう一つ外側の大きな枠組みがあったことを知るのです。そしてそれまでは気がつかなかったさまざまなことに目が向くようになります。これまでは自分の決断で、自分で自立して決めていたと思っていたことも、実はそのお方によって道がつけられ、そのように導かれていたのだと気づく。それが信仰であります。

(2)主体的に選び取る時に

 このことは、今日の聖書の箇所の中に出てくる言葉、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)という言葉と深い関係があります。同じことを別の言葉で言っているということもできるでしょう。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。何と深遠な言葉でしょうか。この言葉を、自分に語られた言葉として受けとめる時に、私たちの人生は変わり始めるのではないでしょうか。
 生徒たちは、「主人が僕を呼んでおられる。これが生の根源的枠組みだ」という話はなかなか理解できなかったようです。当然のことと思います。これがすぐにわかるようであれば、生徒たちは全員クリスチャンになってもおかしくはありません。
 おもしろい応答もたくさんありました。「神様から預かったものをいつかお返しする日が来る」と言いましたら、「天の国とはツタヤ(レンタルビデオ屋)みたいなものか。主人はツタヤの店長、天使はアルバイトの店員。私たちはビデオテープ、赤ちゃんは新作ビデオ」という感想を書いてきた生徒がいました。今の高校生は、すごい発想をしますね。
 あるいは、「神様が命を与えたということは、それを受け取る者があるということ、だとすれば、その受け取る主体は、自然発生したものではないか」という質問(意見)がありました。ちょっと理屈っぽいですが、なるほどよく考えたと、感心いたしました。その生徒は、「絶対、答えてください」と、鬼の首を取ったかのように書いていました。
 私は、「いやその受け取る主体も実は、神様から与えられた命だと思う」と答えましたが、そこから先は、人生をどう観るかという人生観、あるいは世界観の違いということになります。「聖書は、そういう見方をするのだということを、まずしっかり受けとめてもらいたい。それを受け入れるかどうかは、あなたがたの自由だ。いつかこのことが皆さんの心にぴんと来る日が来ることを信じている。」そう話しました。
 この礼拝説教でも同じことです。聖書の言葉をできるだけわかりやすく、そして生きた言葉として伝えるのが私の役割ですが、科学的真理のような言い方はできませんし、強制もできません。あるところから先は、他の人が踏み込んでいくことはできないものです。自分自身でそれを見出し、自分自身で、直接、神様と出会っていくしか仕方のないものです。
 どちらが正しいかという証拠は、どこにもありません。そこで迷ってしまう時には、どちらの人生に意味があるか、どちらの人生を歩みたいと思っているのかと言うことになるでしょう。しかしそれを選び取って始めて、するするっと謎が解けるように、見えてくるものがあるのです。自分がそれを選び取ったと思ったけれども、実はそうではなかったということも、そこで初めてわかってくる。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ということが、真理として響いてくるのです。

(3)恵まれた人にとって

 この言葉は、恵まれた人生を歩んでいると感じている人にとっても、逆に人目に不運と見られるような経験をしている人にとっても、それぞれに大きな意味を持った言葉であると思います。
 環境に恵まれ、お金に恵まれ、あるいは才能に恵まれている。人からそう思われ、自分でもそう思う。そういう人は、ただ、自分はラッキーだと思ったり、いや自分の努力でそれを得たのだと思ったりしてはならないでしょう。そこに私たちの傲慢が入ってきます。またその恵みを自分自身のために用いるにとどめてはならないと思います。神様は何らかの意図があって、そうした恵み、そうした賜物を与えられたのだということを、考えなければなりません。そこに神様の選び、目的というものを見抜く目を持っていただきたいと思います。

(4)ネガティブに見える事柄も

 しかしまた逆に、「よりによって、自分はどうしてこんなつらい経験をしなければならないのか」と思う人にも、この言葉は心に響いてくるのではないかと思います。同じヨハネ福音書9章のところで、生まれつきの盲人の話が出てきます。彼を見ていた弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(9:2)と尋ねました。主イエスは、それに対して、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)とお答えになりました。自分の人生に対して否定的な思いを持っていた多くの人が、この言葉によって生の転換を経験してきました。
 「神様は、何らかの理由があって、これを自分に委ねられたのだ。」もちろん、これは決して他人がどうこういうことはできないものです。「あなたがこういう障碍をもっているのも、賜物の一つだ」と言うのは、無責任な押し付けでしょう。それが賜物として受け入れられるかどうか、恵みと感じられるかどうかは、やはりその人と神様との関係におけることだと思います。
 この高校生の修養会では、レーナ・マリアさんという手足の不自由な女性の生きざまを描いたビデオを観ました。彼女は、1988年ソウルで開かれたパラリンピックの水泳部門で、数々のメダルを獲得しましたが、その後、専門的な歌の勉強をして、ゴスペルシンガーになりました。その活き活きとした、明るく、前向きな生きざまを見ていて、私はつくづく、「この人にとっては、障碍に見えることも賜物であり、恵みなんだな」と思いました。

(5)同性愛の人への招きの言葉

 私が、この言葉、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」という言葉を、ある種のショックをもって受けとめたのは、ニューヨークのある教会において、でありました。それはウォール・ストリートという金融街にある聖公会のトゥリニティー・チャーチという教会でした。アメリカ最古の教会の一つであります。その教会の玄関に小さなパンフレットがあり、その頭にこの聖句が記されていました。それは、同性愛の人々を招くためのパンフレットでした。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
皆さんは、同性愛の人に対して、さまざまな思いをもっておられることと思いますが、今日の医学や社会学など、さまざまな学問での共通理解は、同性愛というのはその人自身が、好きで選んでいるのではないということです。それが先天的であるのか、後天的であるのか、そこにはさまざまな要因があるようですが、とにかく気がついてみたら、自分は同性愛者であったということです。そしてそれは隠すことはできたとしても、変えられるものではありません。それが最もまじめな同性愛についての議論の実情です。そうであれば、それを隠して生きるのか、あるいは積極的に受けとめるのか。同性愛の人自身が、非常に大きなチャレンジを受けています。それを否定しなければ、自分の人生は祝福されないのか。神様は果たしてそういう生を与えるだろうか。これは信仰にかかわる問題です。
 この聖公会の教会は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」という言葉によって、そうした同性愛の人の「生」を肯定し、積極的な意味づけをしているのです。厳しいかも知れないけれども、また逆風の中を歩むことを強いられるかも知れないけれども、神様は何らかの意図があって、あなたにそういう「生」を与えたのだというメッセージです。私は目から鱗が落ちたように思いました。そしてその後の私の歩みにも大きな影響を与えるものになっております。

(6)預言者も神に召された人

 神様が、何らかの目的、何らかの思いを持って、私たちをこの世へと送り出された。神様のご用を直接にするような大きな働きもあるでしょうし、毎日の生活の中で、神様を証しするような地道な働きもあるでしょう。内容的にもさまざまでありますが、神様の召しがある。選びがある。そのことに気づいていただきたいと思いました。
 旧約聖書の預言者たちも、神様に立てられた時に、躊躇をいたしました。今日はエレミヤ書を読んでいただきましたが、エレミヤもそうでした。

「主の言葉がわたしに臨んだ。
『わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。』
わたしは言った。
『ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者にすぎませんから。』
しかし、主はわたしに言われた。
『若者にすぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ
遣わそうとも、行って
わたしが命じることをすべてを語れ。
彼らを恐れるな。
わたしがあなたと共にいて
必ず救い出す』と主は言われた。」
(エレミヤ書1:4〜8)

 そのようにして、エレミヤは神様の選びを自分のものにしていくのです。

(7)真の友なるイエス・キリスト

 しかし神様は、無責任に私たちを選び、召されるのではありません。このところで、イエス・キリストは愛について語られました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。こうした真実な愛と言うのは、私たちの世界でなかなか見ることはできないものでしょう。たとえそう見えても、どこかで自分自身を犠牲にしているという思いがつきまとうものです。この言葉を最もよく示しているのは、イエス・キリストの生涯、そして死であると思います。ご自分の命を賭けて私たちを選び、招いておられる。そしてそこから「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(12節)と言われるのです。
 イエス・キリストが友として、わたしたちのために命を捨ててくださった。そしてそのイエス・キリストご自身が、私たちを友と呼んでくださった。

「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(14〜15節)。

 僕、召使いは、主人の言われたとおりにしなければなりません。自分の判断を差し挟む余地はありません。しかし私たちと主イエスの関係は、そうではない。イエス・キリストの思いを知って、納得してそれに従う。だから「友」だとおっしゃるのです。
 その「友」は、私たちのこの世のすべての友を超えています。この世の友は、どんなに親しくても裏切られる可能性があります。「世の友われらを捨て去る時も、祈りにこたえて慰められる」(『讃美歌21』493)。この世の友がどうであろうと、イエス・キリストだけは真の友としていてくださる。そのイエス・キリストが、ご自分の命をかけて、私たちを召されるのです。そうしたことを受けとめて、この方に従っていきたいと思います。それを受け入れる時に、私たちの人生が新しく見え、新しくなっていくのではないでしょうか。


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