ぶどうの木と枝

〜ヨハネ福音書講解説教(57)〜
詩編80編9〜20節
ヨハネ福音書15章1〜10節
2005年6月5日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)わたしはまことのぶどうの木

 ヨハネ福音書を読み進めてまいりましたが、いよいよ15章に入ります。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)。今日の箇所は、この有名な言葉で始まります。ぶどうは、オリーブと共に、パレスチナ地方では、いたるところに栽培されていた植物で、聞く人々にもとても身近なたとえとして受けとめられたことでしょう。
 これまでも、「わたしは何々である」(エゴー・エイミ)というのは、ヨハネ福音書独特の、イエス・キリストの自己表現、自己規定であることを申し上げてきました。ヨハネ福音書の中に全部で7つ出てくるのですが、これが7つ目で最後の定式です。
 「わたしはまことのぶどうの木である」という表現は、「わたしはよい羊飼いである」が、偽物の羊飼いとは違うということがあったのと同様、そこにはまことではない「偽りのぶどうの木」というのが想定されていて、それとは違うのだと言おうとしているのでしょう。

(2)神のわざ、ぶどうの木の栽培

 先に述べましたように、パレスチナ地方はぶどうの産地であり、人々に親しまれた植物でしたので、旧約聖書においても、しばしばイスラエルの民がぶどうの木にたとえられました。先ほど読んでいただきました詩編の80編もそうであります。

「あなたはぶどうの木をエジプトから移し
多くの民を追い出して、これを植えられました。
そのために場所を整え、根付かせ
この木は地に広がりました。
その陰は山々を覆い
枝は神々しい杉をも覆いました。
あなたは大枝を海にまで
若枝を大河にまで届かせられました。」
(詩編80:9〜12)

 ここでは、神様のなさった業というものを、「ぶどうの木の栽培」でたとえているのです。さらにその後の苦しみについて述べた後、詩編の詩人はこう言います。

「わたしたちはあなたを離れません。
命を得させ、御名を呼ばせてください。
万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、
御顔の光を輝かせ
わたしたちをお救いください。」
(詩編80:19〜20)

 「わたしたちはあなたを離れません」という言葉は、今日のヨハネ福音書15章の「ぶどうの木と枝」の言葉をほうふつとさせるものではないでしょうか。

(3)悪しきぶどうの木

 もう一つ、ぶどう畑の有名な箇所として、イザヤ書5章1〜7節があります。

「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために
そのぶどう畑の愛の歌を。
わたしの愛する者は、肥沃な丘に
ぶどう畑をもっていた。
よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り
良いぶどうが実るのを待った。
しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」
(イザヤ5:2)

 神様がイスラエルの民をいかに愛されたかが伝わってくるようです。しかし、イスラエルの民は、神の期待に反して、悪しきぶどうの実を結ぶ、野ぶどうとなってしまったというのです。それが「偽りのぶどうの木」であると言えるでしょう。
 イスラエルの民は自分たちが神の選びの民であり、神の祝福の継承者であると誇っていたけれども、神様が選ばれただけでは、「まことのぶどうの木」とは言えない。神様の約束が真実なものとして宿っているイエス・キリストご自身、その「まことのぶどうの木」にこそ、私たちはつながらなければならないということを、ヨハネ福音書は語ろうとするのです。イスラエルの民であることが救いの条件ではなく、イエス・キリストにつながって、実を結ぶ者こそが救いにあずかるのであるということです。

(4)宣言と命令

 「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(2節)。「わたしはまことのぶどうの木」という宣言に続いてすぐ、このような厳しい警告が発せられますが、続けて主の慰めと励ましの言葉が語られます。
 「しかし、実を結ぶものみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くされている」(2〜3節)。
 私たちは、よい実を結ぶように、自分で一所懸命、清くならなければならない、と思うかも知れませんし、そうならなければ、自分は切り捨てられるのだろうかと不安になるかも知れませんが、イエス様は「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くされている」のだと、言ってくださいました。命令以前に、事実として、そう宣言されたということを心に留めたいと思います。
 これは洗足の出来事の中で語られた「既に体を洗った者は、全身清いのだから足だけ洗えばよい」(ヨハネ13:10)という言葉を思い起こさせるものです。イエス・キリストにあって、イエス・キリストにつながっている者は、それだけで既に主の言葉によって清くされているのです。
 「イエス・キリストはぶどうの木」、「父は農夫」、「あなたがたはその枝」。父なる神様と、イエス様と、私たちクリスチャン、この三者の関係が、そういう風にたとえをもって語られました。
 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(4節)。私たちに呼びかけると同時に、イエス様自身がそのように私たちに手を差し伸べておられる。そういう姿勢がよく表れているのではないでしょうか。
 「あなたがたは枝である」(5節)という宣言と「わたしにつながっていなさい」(4節)という命令は、一見矛盾するようです。しかしその表現は、信仰の本質をついていると思います。イエス・キリストはぶどうの木として、わたしたちに関係をもち、私たちひとりひとりをその枝として結び付けてくださる。しかもそれを自分から積極的に言われる。それは確かな事実です。
 しかし私たちは、それをそのまま受けとめるわけではありません。私たちはそれを見失い、離れて行ってしまう。深いところでは、受けとめられているけれども、私たち自身がそれを認識していなければ、実際には離れているのと、同じ状況になってしまうのではないでしょうか。「信じない者は既に裁かれている」(ヨハネ3:18)と言われているとおりです。「従っていく」という呼びかけへの応答が伴っていなければ、本当に「聞いた」「信じた」ということにはならないでしょう。

(5)信仰生活に卒業はない

 ですから私は、こういう風に命令と宣言が同時に語られる時に、そこには、私たちに、「本来的な自分に帰れ。イエス様が何をしてくださったか。そしてそのイエス様の言葉の中に留まり、その愛に生きる道なのだ」と言っているように思うのです。
 私たちは、信仰をもって生きる時に、どこまでも、このまことのぶどうの木から離れることができないということを、わきまえておかなければなりません。信仰生活が長くなりますと、もう立派なクリスチャンで、これでひとり立ちできるかなと思うかも知れません。一般の社会ではそういうこともあるでしょう。「もう先生の世話にならなくて、自分ひとりの力で大丈夫。」ところが信仰ということについて言えば、それはあり得ないのです。そのまことのぶどうの木、先生であり、友と呼んでくださるそのお方から、一歩離れてしまっては、もはや信仰とはいえない。ですから教会で私たちが信仰生活を続けるというライフスタイルには、卒業ということはあり得ない。一生、ある意味で求道者であり続けるのです。そして一生つながっていなければ、命を失ってしまうものです。私たちは、しばしばそれを見失って、忘れてしまいますが、そこへいつも立ち帰って行くようにということが促されているのではないでしょうか。

(6)何でも願いなさい

 そしてイエス様は続けられました。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる」(15:7)。
 これは、これまでのところでも出てきました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(14:13)マタイ福音書では、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)という(無条件の)表現でした。しかし私たちは、いつもそういう言葉を聞きながら、「本当にそうかな。必ずしもそうはならないではないか」という思いを持つのではないでしょうか。私は、以前にも申し上げましたが、「求めなさい。そうすれば、与えられる」というのは、私たちが、求めているものがそのままで与えられるということではないと思います。イエス様こそが、私たちに本当に何が必要であるかをご存知であって、私たちが求めているものとは違った形で、あるいはそれを超えた形で、答えられることがしばしばあるのです。また私たちが求めている時に答えられるとは限らない。時を延ばされて、違った時に答えられるということもあるでしょう。最もふさわしい時に、最もふさわしい形で、(それは時に私たちの期待に反するような形であるかも知れませんが)、答えられるのではないでしょうか。
 ヨハネ福音書の「わたしの名によって願うことは何でも」とか「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にあるならば」とかいう条件付きの表現は、「どんなわがままな願い、非人間的な願いも、すべて言うとおりにかなえられる」ということではないということを示していると思います。「神さま、どうかあの人を殺してください。あの国を滅ぼしてください」というような願いが、そのまま全部答えられるわけではないということは、かえって救いであると思います。その奥にある願いは何であるか本当は何を求めているのか。それを私たちよりも一つ高い次元で受けとめてくださって、答えてくださるのではないでしょうか。そうであってこそ、私たちのまことの主であると思います。

(7)わたしの愛にとどまりなさい

「わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(ヨハネ15:9〜10)。

 この言葉は、二つのことを指し示しています。一つは、私たちがこの愛を受けて生きているということを、いつも思い起こしなさいということです。イエス・キリストこそが愛であることを忘れないようにしなさい。それが「わたしの愛にとどまりなさい」ということの第一の意味でありましょう。もう一つは、「あなたもその愛に生きよ」ということです。イエス様自身が示してくださった、その愛をあなたたちも生きなさい。それがまことのぶどうの木につながる枝として、私たちに求められていることでありましょう。

(8)アルセンヌさんの仮放免実現

 本日の週報にも載せましたし、先ほどの司会者の祈りの中にもありましたが、グロジャ・アルセンヌさんが一昨日、6月3日に仮放免になりました。アルセンヌさんは、コンゴ民主共和国における戦禍を逃れて、日本に庇護を求めてきた人ですが、これまで9ヶ月の間、入国管理局に収監拘束されてきました。今日は私たちの礼拝に連なっておられますが、それは大きな喜びであります。こんなに早く、仮放免になるとは想像もしていませんでした。今日のみ言葉、「(わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、)望むものを何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる」(15:7)が真実であるということを、恐れをもって、実感するものです。(ただし仮放免も1ヶ月ですし、在留特別許可が最終目的ですから、署名活動も継続します)。
 彼のことは幾度となく話したり、書いたりしてきましたが、祖国で家族全員が虐殺されるような厳しい試練を経験しながらも、いつもほほ笑みを忘れずに、優しく人と接することができる。その力は一体どこから来ているのだろうかと、私は不思議に思っています。それは、まさにこのイエス・キリストの愛を自覚する中でしかなしえないことではないかと思うのです。
 そのことは一人の証しでありますが、私たちもそのようにして、私たち自身が生かされていることを知り、そしてそれをまた人に伝えていく。ただ言葉によって伝えるだけではなく、私たちの生きざまによって伝えることによって、まことのぶどうの木の枝が広がっていくのではないでしょうか。そこから一旦離れてしまう時に、ちょうど植物が養分を補給できないように、その命は止まってしまうものです。
 これから私たちは聖餐にあずかります。パンとぶどう酒によって、イエス・キリストが制定された儀式であります。これを受けることによって、イエス様ご自身を私たちの中に受け入れ、私たちもその愛にとどまり、その愛に生きる者となりたいと思います。


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