キリストの平和

〜ヨハネ福音書講解説教(56)〜
エレミヤ書6章13〜16節
ヨハネ福音書14章25〜31節
2005年5月22日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)聖霊の二つの働き

 先週のペンテコステ礼拝において、私たちはイエス・キリストの力強い約束の言葉を聞きました。「肉体をもった自分は、ここを去っていくが、父なる神様が私に等しい方、聖霊を送ってくださる。あなたがたを決してひとりぼっちにはさせない。」
「聖霊を信じる」とは、「そのイエス・キリストが、今日も私と共におられるということを信じる」ということに他なりません。言い換えれば、それは「どんなに孤独に思える時でも、私はひとりぼっちではない」ということです。
 今日の箇所は、それを受けて始まります。

「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(25〜26節)。

 このところに聖霊とは一体どういう方であるかが、よりはっきりと示されています。二つの点に注意してみましょう。
 一つは、「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ということ、もう一つは、「あなたがたにすべてのことを教える」ということです。イエス・キリストは、「わたしの名によって遣わされる聖霊」と言われました。聖霊はイエス・キリストの代わりに、イエス・キリストの名によって働かれるのです。
 聖霊に満たされて何かをする、あるいは何かを語るということは、どんなに新しいことを語ろうとも、これまで誰もしなかったようなことをしようとも、それは必ずイエス・キリストの言葉につながっています。イエス・キリストの言葉に根拠がある。イエス・キリストの言葉に根をはっている。そこから離れてしまうならば、どんなに熱くなって語ろうとも、キリストの聖霊によるものとは言えないでしょう。そしてもはやそれはキリスト教の信仰とは言えません。何か糸の切れた凧のように、どこかへ飛んでいってしまうでしょう。
 もう一つは、「(新しく)すべてのことを教えてくれる」ということです。聖霊は、今私に働きかけて、その都度その都度、今何をなすべきかを教えてくれる。いつも新しい教えとして、聖書の言葉が迫ってくるのです。そうでなければ、イエス・キリストの言葉、イエス・キリストの業、それは過去のものになってしまうでしょう。「いつも新しい」ということと「必ずキリストの言葉にさかのぼることができる」ということ。信仰者は、この二つの緊張関係の中にあるのです。

(2)三位一体の神

 ヨハネ福音書は、14章の前半のところで、イエス・キリストが父なる神様と一体であるということを語っておりました。

「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなた方は父を知る。いや、既に父を見ている」(7節)。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)。「わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい」(11節)。

 そのイエス・キリストが、聖霊という形で、今日の私たちと共にいてくださるのです。
 今日は、教会の暦では三位一体主日と呼ばれます。父と子と聖霊、この三者が、三つにして一つであることを、特に覚える日曜日です。今のことを整理して申し上げるならば、三位一体の神様を信じるということはどういうことであるか。それは、イエス・キリストによって明らかになった父なる神の意志が、今、聖霊によって、私に直接働きかけるということを信じるということができるのではないでしょうか。

(3)取り繕いの平和

 イエス・キリストは、次にこう言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(27節)。
 キリストが与える平和は、この世が与える平和とは、違うというのです。一体どこが違うのでしょうか。イエス・キリストのもたらす平和は、単に表面的に争いのない状態ではありません。表面的に争いはないけれども、本当の平和ではない状態として、いわば二つの「平和もどき」が考えられるのではないかと思います。
 今日は、ヨハネ福音書に先立って、エレミヤ書6章を読んでいただきました。

「身分の低い者から高い者に至るまで
皆、利をむさぼり
預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して
平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレミヤ書6:13〜14)。

 これは取り繕いの平和です。本当は深いところでは平和がないのに、一見、平和であるかのように見せかけているのです。
 私たちは、あまり事を荒立てることを好みません。日本人は特にそうでしょう。ある集団の中で、ちょっと違った意見を言うと嫌われます。本当は和解していないのだけれども、現状維持を望むのです。安易な和合です。こういう状況は一見平和に見えます。穏やかです。しかし問題は何も解決せずに、先送りにしているだけです。
 確かに暴力をふるって、事を解決しようとする野蛮な考えよりはずっとましであるかも知れませんが、よく考えてみると根は同じではないかという気がします。
 そしてそのように事を荒立てないことを好む人は、往々にして、自分自身は損をしない立場にいながら、犠牲になっている人に向かって、妥協を呼びかけることが多いのではないでしょうか。

(4)力による平和

 もう一つの「平和もどき」は、力による平和です。力と抑圧によって相手を封じ込めて「平和」を実現しようとするのです。
古代ローマ帝国の時代に、パックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる比較的穏やかな時代がありました。それはローマ帝国が圧倒的に強い軍事力をもっていたので、周辺諸国が刃向かわなかったのでした。しかしその状況をよく見てみると、特権階級のもとに、その犠牲になって働く人が大勢いて、社会が成り立っています。その仕組みをくつがえさないように、武力で押さえつけているのです。弱い立場の人に我慢を要求し、「平和」の名のもとに人権を侵害し、自由を奪っている。これは真の平和であるとは言えません。
 今日の時代はパックス・ロマーナをもじって、パックス・アメリカーナ(アメリカの平和)の時代だと言われます。アメリカの圧倒的な軍事力によって、世界中を黙らせる、というものです。しかし決してそのような形で平和は実現されないということが、日々明らかになってきているのではないでしょうか。

(5)ボンヘッファーのファネー講演

 このことについて思う時に、私はディートリッヒ・ボンヘッファーが、すでに1934年に、ある講演で言っていることを興味深く思い起こすのです。「ファネー講演」と呼ばれるものです。

「いかにして平和はなるのか。平和の保証という目的のために、各方面で平和的な再軍備をすることによってであるか。違う。……その理由の一つは、これらすべてを通して、平和と安全とが混同され、取り違えられているからだ。安全の道を通って<平和>に至る道は存在しない。なぜなら、平和はあえてなされなければならないことであり、それは一つの偉大な冒険であるからだ。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、『相手に対する不信感』をもっているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争を引き起こすのである」。

 1934年と言えば、ヒトラーが台頭してきた時でした。彼はまさにその時に、この講演をしたのでした。

(6)ご自身の犠牲に基づく平和

 それでは、イエス・キリストは一体どういう平和をお与えになるのでしょうか。有名なエフェソの信徒への手紙2章の言葉を心に留めたいと思います。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊……されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2:14〜17)。

 「両方の者」という時、パウロは二つの違った立場があることを認めています。このキリストによって、両方の者が、キリストの犠牲の上で、一つの霊に結ばれるのです。「キリストが与える平和」とは、誰か自分以外の人に犠牲を強いるのではなくて、むしろイエス・キリストが自分の体を裂かれたことの上に、つまり十字架の上に成り立つ平和なのです。
 そして、今日の箇所ではこう語られます。

「心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去っていくが、また、あなたがたのところへ戻ってくる』言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである」(27〜28節)。

 弟子たちにしてみれば、イエス・キリストとの別れを喜ぶなどということは考えられないことであったでしょうが、イエス・キリストの「どうかそのことに心を合わせて欲しい」という思いが伝わってくるような気がします。

(7)事が起こる前に

 「事が起こったときに、あなたがた信じるようにと、今、その事が起こる前に話しておく」(29節)。イエス・キリストは、ここで遺言のようにして多くのことを語られましたが、それらの言葉が弟子たちの記憶に残っていたでありましょう。
 「今私が何を言っているかあなたがたにはわからないかも知れないけれども、きっと後に、あなたがたのうちで生きてくる。そのために、今私は話しているのだ」とおっしゃったのでしょう。
 私は、御言葉を蓄えることの大切さを思います。私たちは今年度の年間聖句として、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)という言葉を掲げました。自分のうちに蓄えられた御言葉が、今はそれ程力を持っていないかも知れないけれども、何かしらの危機にあった時に、生きてくるのです。
 先週も申し上げたことですが、私は今回、アルセンヌ・グロジャ氏の仮放免を求めるために、署名活動をはじめ、いろんなことをやってきましたが、そうした一つ一つのことの中で、聖書の言葉が生きた言葉として私に迫ってくるという経験をしました。
 聖書の言葉はそのままでは蓄えです。しかし蓄えたいろんな聖書の言葉が、何か大きな課題にぶつかった時、危機に遭遇した時に、自分の中で眠っていたものが起き上がってくるようにして、生きて語りかけてくるのです。いろんな聖書の言葉を知っていればいる程、それだけ神様とのパイプが多いと言えるでしょう。聖霊は、そのように蓄えられた御言葉を通して、私たちに働きかけてきます。聖霊が、イエス・キリストの言葉を、新しく私たちに思い起こさせてくださるのです。そのようにして「あの時イエス様がおっしゃったのは、こういうことだったのか」と思うことがしばしばあるのです。
 聖書をぱっと開いて、目に飛び込んできた言葉が、語りかけてくるということもあるかも知れませんが、むしろ今まで自分がいろんな機会に聞いてきた言葉が、何かの折にぱっとひらめいて、語りかけてくるという方が多いのではないでしょうか。

(8)復活の後で

 イエス・キリストは、復活の後、再び弟子たちの前に現れます。弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、家の中に鍵をかけて閉じこもっていました。しかしどのようにしてかわかりませんが、イエス・キリストがそれを通り抜けて、すっと入って来られました。そして弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)と言われました。そして御自分の手とわき腹をお見せになるのです。その手には釘の跡がありました。わき腹には、槍で刺された傷跡がありました。その傷跡を見せながら、重ねて「あなたがたに平和があるように」(20:21)と言われました。先ほどのエフェソの信徒への手紙の言葉が彷彿としてまいります。キリストの平和は、この傷跡の上に成り立っているのです。イエス・キリストは、御自分の体を見せることによって、それを弟子たちに示そうとされたのではないでしょうか。
 そして息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」(20:22)。
私たちは、日々新しく聖書の言葉に触れ、聖書の言葉に励まされて、その日その日を過ごしています。イエス・キリストは、「さあ、立て。ここから出かけよう」(31節)と、弟子たちに呼びかけられました。私たちも、このイエス・キリストの言葉を聞きながら、聖霊を受けて、ここから出て行き、力強くイエス様の弟子としての道を歩んでいきましょう。


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