必ず共にいる

〜ヨハネ福音書講解説教(55)〜
創世記28章10〜17節
ヨハネ福音書14章15〜24節
2005年5月15日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)ペンテコステ

 本日は、ペンテコステであります。聖霊降臨日、聖霊降臨祭とも言います。私たちは、ヨハネ福音書14章の「別れの説教」と呼ばれる部分を続けて読んでおりますが、今日は、まさに聖霊降臨日にふさわしい箇所が与えられたと思います。
 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。この言葉には深い意味があります。
 イエス・キリストという方は、「インマヌエル」すなわち「神がわれらと共におられる」という神の約束が見える形で実現したお方でした。見える形、人の形をとって、この世界に宿られたということは、永遠に存在するお方が、あえて時間の中に入ってこられたということを意味しています。あるいは場所に限定されないお方が、ある場所の中に入ってこられたということを意味しています。
 これはとても大きな福音でありますが、それだけでは私たちの時間と空間とは関係がない、2000年前のユダヤ・パレスチナ地方の一角における出来事に過ぎないということになっていたでありましょう。2000年前にユダヤ・パレスチナ地方で起きた出来事が単に遠い昔の遠い国の話ではなくて、今の私に、あるいは今の私たちに深い関係があるのだと言うこと、それを告げ知らせるのがペンテコステであります。「神がわれらと共におられる」。2000年前のあの出来事は今もなお有効である。そして今なお、生きて私、私たちに働いておられる神こそ、聖霊なる神なのです。
 ですから、極端に言えば、ペンテコステがなければ、クリスマスもイースターも、私とは、そして私たちとは、関係がないということになります。ペンテコステこそがクリスマスとイースターを私、私たちに関係あるものにしているのです。
 使徒言行録によりますと、イエス・キリストは、復活の後、40日間、復活の体をもってこの地上に留まられましたが、その後天に昇られました。「昇天」と言うのは、イエス・キリストが地上から離れて行かれた出来事ですから、それだけでは寂しいことのように思えますが、この昇天があったからこそ、イエス・キリストはあの時の時間と場所に限定されることなく、私たちと共にいてくださることが可能になったということができるでありましょう。

(2)ユビキタス(遍在)の神

 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。
 イエス・キリストという肉体をもった神の子は去って行くけれども、去って行ったからこそ、いつでもどこでも私たちと共にいてくださることが可能になりました。ちなみにコンピューター用語に「ユビキタス」という言葉があります。ラテン語で「遍在」という意味です。「いつでもどこでもインターネットに接続可能」というようなことを指していますが、このユビキタスというのは、実は元来、神様の一つ特質を表す神学用語でした。神様は、いつでもどこにでもおられるお方だということであります。それは聖霊なる神として、私たちの上に実現したということができるでありましょう。

(3)みなしごにはしない

 こう続けます。「この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」(17節)。今、霊が働いているということを、この世の次元で見るならば、誰も認めようとはしない。受け入れようとしない。ところが、信仰を持つ者は違うと言います。
 信仰を持っていても聖霊はよくわからない、という方が時々ありますが、イエス様を信じることができるということは、実は聖霊の働きを認めているということに他なりません。そうでなければ、2000年前の遠い国のイエス・キリストを、自分の救い主として告白することはできません。あのイエス・キリストが、今の私に関係があると信じることができるということは、聖霊を受け入れていることなのです。
 「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(17節)。今も、そして永遠に変わることのないお方が、私たちと「共に」、そして「内に」いてくださる。この二重の表現も意味深いものではないでしょうか。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(18〜19節)。

何と力強い言葉ではないでしょうか。

(4)カナダ合同教会の新信仰告白

 カナダ合同教会が、1968年に採択した「新信仰告白」(A New Creed)というものがあります。これは古典的な使徒信条など、三位一体の神を信じるという信仰告白を、現代の言葉で言い表したものです。

 「牧師 キリスト教の信仰を現代的表現で共に告白しましょう。人間は一人ではありません。人間は神の世界の中に生きています。」
「牧師と会衆 私は、かつて世界を創造し、今も創造の業を継続したもう、和解し、新しくするために、まことの人間イエスにおいて、この世に来られた神を信じ、この神に信頼します。
神は私たちが神の教会であるようにと私たちを招いておられます。教会は、神の現臨を祝福し、他者を愛し、他者に仕え、正義を求め、悪に抵抗し、十字架につけられ、よみがえられた、われわれのさばき主であり、われわれの希望であるイエスを宣べ伝えます。
生においても死においても、死を超えた生命においても、神は私たちと共におられます。私たちはひとりではありません。神に感謝します」(森野善右衛門『世の命キリスト』p.112)。

 この最後の部分が「我は聖霊を信ず」と告白してきたものを現代的に言い直したものに他なりません。「聖霊を信じる」ということは、神は今もなお生きて働いておられるということを信じるということです。「神は今もなお生きて働いておられる」ということは、私たちはどんなに孤独に思える時であってもひとりぼっちではない、ということです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」イエス・キリストは、そう言い残して行かれました。

(5)アルセンヌさんのこと

 今日、皆さんに玄関で『キリスト新聞』(5月21日号)の抜き刷りをお渡ししました。このところに「アルセンヌ氏の仮放免を−日本基督教団経堂緑岡教会が署名活動決定」と出ております。経堂緑岡教会の長老会の決定事項が『キリスト新聞』の第1面のトップ記事に載ったのは前代未聞のことかと思います。私は、このことのために、ここ1〜2週間の間、多くの時間を割いてきました。このアルセンヌ・グロジャさんという方は、私たちの教会でイースターに洗礼を受けられた笹井小夜子さんのお連れ合いであります。
 アルセンヌさんは、アフリカ、コンゴ民主共和国のイツリ地区の出身ですが、その地での激しい民族抗争、暴動の中から、日本へ助けを求めて逃げてきました。彼が属しているヘマ族が根絶やしにされようとしている。さらに、彼が属している部族内での後継者争いに巻き込まれ、彼を後継者として認められない同族の反対派からも命を狙われている。そういう危機の中でのことです。系図を見せていただいて唖然といたしました。彼の(元の)奥さん、二人の子どもを初め、6人の兄弟姉妹、そのお連れ合い6人全員、甥と姪は17人中16人が虐殺されています。
 彼は国立ブニア教育大学の歴史学の助教授という地位を捨てて、2003年9月16日日本へ入国し、その後10月9日に難民申請をしましたが、認められませんでした。異議申し立てをし、それも2004年9月1日に却下され、同日品川にあります東京入国管理局に収監拘束されました。7ヶ月の後、茨城県の牛久にあります東日本入国管理センターに移送され、今日に至っています。
 彼が日本に到着した後で、彼のところに、こういう(親族の死を知らせる)メールが届きました。「これまであなたに話そうとしなかったのは、それがあなたを苦しめることが分かっていたからです。本当に辛いことです。でもあなたが望んでいるので、あえてご家族についてお話します。(中略)
 私自身も悲惨な状況を経験しました。ここではもう何も望めません。あなたの親族は、ほとんど誰もご存命ではないので、あなたもここを脱出していなければ、きっと殺されていたことでしょう。おゆるしください。あまりにも多くのことが思い出され、もうこれ以上続けられません。彼らの死が非業の死だから。(後略)」
 私は、こうしたことは遠い世界のニュースとしては了解していましたが、そのような迫害を受け、そこから逃れて日本に助けを求めてやって来ている人が、今、私のすぐそばにいるとは想像もしませんでした。しかし日本はそのように助けを求めている隣人を受け入れようとしないで、強制送還しようとしているのです。
 彼は非常に熱心なクリスチャンで、彼の信仰が今の彼のぎりぎりの状況を支えているのだということを強く感じました。

(6)聖書の言葉が生きて語りかける

 私は、アルセンヌさんが直面している課題にかかわりながら、今日のテキストを読んでいて、「今日、『我は聖霊を信ず』と告白するとは、どういうことか」と思いました。「私は今もなお、神様が生きて働いていることを信じる。」「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」このことと、アルセンヌさんのことが関係ないはずはない、と思いました。今もなお、神様が生きて働いておられることを証することが、私たちの使命です。そのようにして、私たちは神様からチャレンジを受けているのです。
 私は今回のことでは、いつも「イエス様ならどうなさっただろうか」と考えました。私自身、他の仕事を一杯抱え込んで、かなりぎりぎりの生活でしたが、何を優先すべきか、イエス様だったら、一人の人間の命、魂を優先されたのではないかと思いました。
 そのイエス・キリストを、私たちは師と仰ぎ、その方が今もなお、この世界に働いておられるということを信じているのです。
 長老会がこのことについて、「教会は、教会員の困窮を見過ごしにすることはできない、できるだけのことをしましょう」という風に、動いてくれたのを、私はとてもうれしく思いました。そしてこれをきっかけとして、日本のキリスト教会全体に訴えて行きたいと考えているのです。
 イエス様はおっしゃっています。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」(マルコ11:23)。
 奇しくも、前回、ラインホルト・ニーバーの祈りを紹介しました。

「神よ、変えることのできないものを受け入れる平静さを、
変えるべきものを変える勇気を、
そしてこの両者を見分ける知恵をお与えください。」

 私は今回のような課題を負いつつ、改めて聖書に向き合いますと、一つ一つの聖書の言葉が、びんびんと響いてくるのを感じます。それなりに信仰をもって歩んできたつもりですが、今回ほど神様からのチャレンジを強く感じたことはあまりありません。聖霊が、私のところで燃え上がろうとしている、と思いました。

(7)ヤコブに対する神の約束

 今日は、旧約聖書は、創世記28章を読んでいただきました。ヤコブは、故郷の兄エサウから追われる身でありました。彼は故郷を離れて、母リベカの故郷、叔父ラバンの元、ハランの地に向かって逃げていくのです。そしてその途中、星空のもとで野宿することになります。彼は不思議な夢を見、神の力強い言葉を聞きました。

「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28:15)

 その時、ヤコブは眠りから覚めて「まことに神がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」「ここは、何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ天のものだ」(28:16〜17)と言いました。彼はふるさとを遠く離れた地、まさかこんなところに神様はいないだろうと思うところで、神が生きて働いておられるのを知ったのです。「神がわたしと共におられる。どんなところへ行こうとも、私を見捨てることは決してない。」
 私は、この神様の約束を自分にあてはめると共に、その約束を、見失いかけている人がいるとすれば、「いや神様は生きて働いておられる。神様は決してあなたを見捨てることはない」ということを、証を込めて、行動をもって語っていかなければならないのではないか、と思いました。
 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き一緒に住む」(23節)。この御言葉を生きた神様の言葉として信じて歩んでまいりましょう。


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