道・真理・命

〜ヨハネ福音書講解説教(54)〜
詩編119編33〜40節
ヨハネ福音書14章1〜14節
2005年5月1日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)ニーバーの祈り

 ヨハネ福音書第14章は、イエス・キリストの別れの説教の一部であります。
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」(1節)。弟子たちに与えられた遺言のような言葉です。イエス・キリストは、この前のところで、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできない」(13:36)と言われましたので、弟子たちは不安になり、胸騒ぎを覚えたのでしょう。この「(心を)騒がせる」というのは、本来、水が掻き立てられる動きを意味する言葉であります。
 この言葉から、私は20世紀の偉大な神学者の一人であったラインホルト・ニーバーの有名な祈りを思い出しました。

「神よ、変えることのできないものを受け入れる平静さを、
変えるべきものを変える勇気を、
そしてこの両者を見分ける知恵をお与えください。」

 この祈りは、最近では、日銀総裁であった速水優さんが座右の銘とされている祈りとして有名になりました。非常に深い内容をもった、すばらしい祈りであると思います。ここで「平静さ」と訳された言葉は原文ではセレニティー(serenity)という言葉です。セレニティーは、晴朗、うららかさ、のどかさ、というような意味であり、そこから、「心の平静、落ち着き、沈着」という二次的な意味になった言葉です。
 ここでニーバーが神さまに向かって「私たちに与えてください」と祈った「平静さ」、「勇気」そして「知恵」。この三つは、信仰の賜物であると思います。これはすばらしい賜物です。
 先日、ある病気をなさった方から、こういう言葉を聞きました。「私は、今本当に信仰をもっていてよかったと思います。今まで何年も何十年も信仰をもってきたつもりですが、こんなにありがたいことだとは思いませんでした。心の平安を保っていられる」。期せずして、他の方からも同じような言葉を聞きました。信仰をもつというのは、すばらしいなと思いました。

(2)「宗教はアヘン」か

 もっとも誤解しないように注意しなければなりません。信仰をもたない多くの人は、考えます。「宗教というのは、人間が心の平安を保つためにあるのだ。」しかし、そのことと先の言葉とは、一見同じようなことを言っているようでいて、全く違います。何が違うか。後者の言葉の前提には、宗教とは、心の平安を得るために、人間が作ったものだという理解があります。そこに神様がいるかいないかは問題ではありません。神様と出会っていない人の言葉です。それは空しいものです。そのようにして本当の平安(セレニティー)を得られるのだろうかという気もします。
 「宗教はアヘンだ」というマルクスの言葉があります。この言葉は、それなりに大事な意味をもった、そして信仰を持つ人間には、自己吟味の言葉として、真剣に聞くべき言葉でありましょう。マルクスがこの言葉を語った時には、実際に、宗教がアヘンのように、人々の心をマヒさせてしまうような働きをしていました。確かにそんな宗教であれば、それは社会変革を妨げるものでありましょう。
 しかし、先ほどのニーバーの祈りは、そのような偽りの宗教とは、全く質的に違います。あるいはそうした次元を超えた深いものです。むしろ本当に必要なものの原動力になる勇気を与えてくれるものこそ、信仰である、と言えるのではないでしょうか。
 ニーバーの祈りにからめて言いますならば、偽物の宗教というのは、誤った三つのものを与えようとします。まず「偽りの平安」。本当は、平和はないのに、平和を装って、平安を与えようとする(エレミヤ6:14参照)。次に「偽りの勇気」。「無謀さ」と言ってもいいかも知れません。狂信的になって、人間をそういうところへ追いやっていくこと。これもやはり、間違った宗教が起こすことです。さらに「偽りの知恵」、言い換えれば、「無分別」。「神を信じるなんていう人間は何をするかわからない」と思われるように、時に私たちの冷静な判断を狂わせるような働きをする。宗教がそんなものであるとすれば、マルクスであれ、他の無神論者であれ、批判されても仕方がないであろうと思います。
 しかし本当の信仰というのは、私たちに確かな知恵を与え、深い平静さを与え、真の勇気を、同時に与えてくれるものです。

(3)根底にあるものこそが大事

 もっとも「心の平静さ」というのは、信仰の賜物ではありますが、信仰の目的ではありませんし、信仰の条件でもありません。
 信仰をもっている人間であれば、どんな時にも平静さを保っていることができるのだろうと思われがちですが、必ずしもそうではありませんし、その必要もありません。
 椎名麟三というクリスチャン作家が何かの対談で、「自分が死ぬ時には、きっと『死にたくない。死にたくない』と言いながら、往生際の悪い死に方をするに違いない」と言っていました。印象深く読みました。
 私なども、今は、何とでも偉そうなことも言えますが、自分の死が間近に迫ってきたら、椎名麟三と同じように、どういうことになるかわからないという気がします。
 ある牧師が晩年になって、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言ったという、笑うに笑えないようなエピソードもあります(きっと認知症だと思いますが)。私は、それでもいいと思うのです。それでもいい。最も大事なことは、私たちの心が平安であるかどうかということではない。もっと大事なことが、その奥、その根底にある。それはイエス・キリストが共にいるという事実。イエス・キリストが私たちを受けとめてくださっているという事実。その事実こそが、最も大事なことなのです。

(4)弟子もイエスも、心を騒がせた

 この時の弟子たちは、信仰をもっていたにもかかわらず、動揺したのです。弟子の中心にいながら、心を騒がせざるを得なかった。それでも、主イエスに受け入れられていました。
 そして何よりも、イエス・キリストご自身も心を騒がせられたということが記されています。ご自分がこれから受けるべき苦難を預言するような言葉を語りながら、「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃったのです(12:27)。さらに、イスカリオテのユダが自分を裏切ることになると言われた直後、「イエスはこう話されると、心を騒がせ、断言された」(13:21)と記されています。イエス・キリストご自身が、必ずしも心の平静さをいつも保っておられたわけではなかったことがわかります。
 むしろ先ほどのニーバーの祈りに重ねて考えるならば、真剣に神様に祈られる中で、「変えることのできないものと、変えるべきものを見分ける知恵をお与えください」と祈られたのではなかったでしょうか。あのゲツセマネの祈り(マタイ26:39参照)も、そういう祈りではなかったかと思います。「これが本当にあなたの御心なのでしょうか。これが受けるべき定めなのでしょうか。できることなら、これを私から取り去ってください。」そう祈りながら、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈り、セレニティーが与えられていった。セレニティーが与えられると同時に、それを引き受けていく勇気も与えられていきました。

(5)永遠の世界へ招き入れるために

 さて、主イエスはそうおっしゃった後で、こう続けられました。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(2〜3節)。

 この言葉はしばしばお葬式の時に読まれる箇所でありますが、これはただ単に死後の世界のことを言っているのではありません。イエス・キリストはどういうお方であるのか、一体何をするために、この地上へ来られたのか。それを端的に語っている言葉であると思います。イエス・キリストのふるさと、父のふところ、天の住まい、別の言葉で言えば、永遠の世界から、私たちの、この限られた時間を持つ世界に来られた。神が人になられたとは、そういうことであります。無限のお方が有限の中へ、永遠のお方が時間の中へ入ってこられた。何のためにそうなさったのか。それは私たちを永遠の世界へと招きいれるためであります。ですから、これは私たちが生きている時であろうと、死ぬ時であろうと、そうです。主イエスがこの世界に来てくださることによって、私たちは今すでに永遠の世界をかいま見ることが許されている。そして主イエスに連なって、そこへ行くことが許されているのです。
 私たちは信仰をもっていても、しばしばそれがわからなくなってしまいます。トマスがこう尋ねました。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるのでしょうか」(5節)。フィリポも言いました。「主よ、御父を示してください。そうすれば満足できます」(8節)。信仰の不安を語っています。フィリポに対して、イエス・キリストは、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」(9節)と言われました。信仰を持っていても、それが分からなくなるのです。トマスには、こう答えられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(6節)。
 イエス・キリストこそが、この父のふところ、永遠の世界へと導いてくれるのです。このお方によらずしては、私たちはその世界を知ることはできません。人間から神様の方へ行く道はないのです。それはバベルの塔という象徴的な物語(創世記11:1〜9)に記されていますが、人間が神のようになろうとする道は、閉ざされているのです。唯一それがつながるとすれば、神の方から道がつけられた時です。そしてそれを切り結んでくださったのが、イエス・キリストであります。私たちは、そのお方につながることによって、永遠の世界、天の父の住む家に連なることが許されるのです。
 「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(7節)。旧約聖書では、「人間が神様を見ることはできない。神様を見た者は死ぬ」と言われていました(出エジプト33:20等参照)。しかしそうした中で、イエス・キリストは、見える形をとって、私たちの世界に来られた。そのお方を通して、父なる神を見るのです。それは質的に等しいことなのだ、と言います。
 この後、イエス・キリストと父なる神様はいかに一体であるかということを、言葉を変えながら語っていますが、私は本質的なことは、すでに最初の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとへ行くことはできない」という言葉に尽くされていると思います。

(6)指し示す方が、指し示される

「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)。これは、ヨハネ福音書がこれまで何度も用いてきた「私は〜である」(エゴー・エイミ)という定式にのっとったものであります。「道」というのは、旧約聖書に何度も何度も、あらわれます。今日読んでいただいた詩編119編でも、少し前の33節で「主よ、あなたの掟に従う道を示してください」と記しています。
「それではその道はどこにあるのか」という問いに対する答えのようにして、「私こそがその道だ。真理を知る道だ。命に通じる道だ」とおっしゃった。この「道」は、単に「通路」ということではないでしょう。日本語の「道」という言葉も、「書道」「華道」「剣道」「柔道」など、もっと深い意味で使われます。そこでは、道を究めることそのものが目的であります。
イエス・キリストは、「真理を知る道」「命に通じる道」であるだけではなく、「真理」そのもの、「命」そのものであり、深い意味で「道」そのものです。道として指し示すお方が、同時に「救い主」として指し示されていると言えるでしょうか。この方を通して、私たちが永遠の世界とつながっているのは、何と幸いなことかと思います。

(7)イエスの名によって願う

 最後に、主イエスは、こうおっしゃいました。「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。……わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(13、14節)。この約束が私たちに与えられているのです。イエス・キリストは、父なる神様と一体であるがゆえに、ただ一人それを語ることを許され、ただ一人それを語る権威をもっておられるのです。
 「父は子によって栄光をお受けになる」(13節)。イエス・キリストによって、逆にまた父なる神様ご自身も栄光をお受けになると言う。私たちもこの方を信じ、この方のもとに集いましょう。イエス・キリストは、言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」(1節)。この約束の言葉を、私たちが受けとめていく時に、セレニティー(平静さ)が与えられる。勇気が与えられる。そして知恵が与えられるのではないでしょうか。


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