懲らしめられても

〜ヨハネ福音書講解説教(67)〜
哀歌3章25〜33節
ヨハネ福音書18章12〜14、19〜24節
2006年1月29日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)アンナスとカイアファ

 本日のテキストは、イエス・キリストが大祭司のもとに連れて行かれ、そこで尋問を受けたという物語であります。もう一度最初の部分を読んでみます。

「そこで、一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである」(12〜13節)。

 ヨハネ福音書の受難物語は、他の福音書と違っている部分が幾つかありますが、そのひとつは、イエス・キリストがまずアンナスのもとに連れて行かれたということです。他の福音書では、いきなり大祭司カイアファのところへ連れて行かれます。このアンナスと言う人は、カイアファのしゅうとであったとのこと。逆に言えば、カイアファはアンナスの娘婿であります。大祭司というのは、祭司の中の最高責任者、最高権威です。
 13節によれば、「カイアファがその年の大祭司であった」となっていますので、1年交替の職務であるかのように思えますが、元来は、一度大祭司になれば生涯大祭司、終身制であったようです。ちょうどカトリック教会のローマ教皇のような存在でしょうか。ところが歴史を見てみますと、紀元15年にローマの総督としてエルサレムに着任したヴァレリウス・グラートゥスは、時の大祭司アンナスをその地位から下ろし、別の人物を大祭司にしたということです。さらにその後も、しばしば大祭司の更逐を行い、次々に交代させました。宗教的権威を骨抜きにし、ローマへの従属意識を高めることを狙ったのでしょうか。
 アンナスは紀元6年から15年まで大祭司でありました。その後、イシマエル、エレアザル、シモンと続き、カイアファは紀元18年に大祭司になったということです。彼は、18年から36年まで、18年間、大祭司を務めました。
 しかしこの大祭司交代劇においても、例えばエレアザルはアンナスの息子でありましたし、カイアファは娘婿ですから、いかにこの一族が権力を持ち続けたかが、伺えます。ローマの総督のあずかり知れぬところで、策略を駆使したのでしょうか。カイアファの時代になっても、このアンナスという人物は影響力を持ち続けたようです。
 今、NHKで「チャングムの誓い」という韓国の宮廷料理人のドラマを放映していますが(金曜日の夜11時)、そこでも一族で権力を保ち続けようとする、似たようなことが出てきます。チェ一族というのがチェゴサングムという王様の御膳をお出しする責任者の地位をずっと牛耳っているのです。チェ一族以外の者には絶対譲らない。一時、今は他の人の手に渡っているのですが(チョン・チェゴサングム)、その次はやはりチェ一族が取り戻そうとする。そのためにありとあらゆる手段を用いようとします。
 この大祭司アンナスも、ローマの総督によって退けられ、イシマエルという人物に交代させられるのですが、その後、うまく自分の息子エレアザルを就任させ、さらに娘婿カイアファにその地位を継がせるのです。そしてカイアファは、大祭司として長く安泰しました。政治的に動くことに長けていた人のようです。何かどろどろした権力の連携というものを感じます。この時、アンナスはすでに大祭司ではありません。そのことは13節からして、福音書記者ヨハネが知らないはずはありません。しかしあたかも間違いに気づかないかのごとく、19節では、アンナスのことを「大祭司」と呼んでいるのです。福音書記者ヨハネは、ここでわざと裏で影響力を持っているアンナスを大祭司と呼んでいるのでしょうか。

(2)真の大祭司キリスト

 祭司とは、本来、人を神に執り成す仕事です。ところがそういう権威が集中するところであるからこそ、人のことよりも自分のことを考えることが起きてくる。人間のエゴイスティックになっていく姿が見えてくるようです。ですからこのアンナスもカイアファも、大祭司にふさわしい人物であったとは言えません。この時、目の前で裁かれているイエス・キリストこそ、まことの大祭司にふさわしいということが浮かび上がってきます。イエス・キリストは、誰を犠牲にするよりも、あるいはどんな動物の犠牲を捧げるよりも、自分自身を犠牲の捧げ物にして、父なる神様に私たちを執り成してくださったお方です。だからこそ、あの17章のイエス・キリストの長い祈りも「大祭司の祈り」と呼ばれるのです。
 ヘブライ人への手紙は、「大祭司キリスト論」を展開しています。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:14〜15)。
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(同5:8〜10)。

 受難こそが、イエス・キリストを大祭司たらしめているのです。

(3)軍隊の出動

 さらにヨハネ福音書は、イエス・キリストを捕らえた人についても、他の福音書と違った書き方をしております。他の福音書では、祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆が、剣や棒をもってゲツセマネの園に押しかけたことになっていますが、ヨハネ福音書では、最初から官憲、ローマの軍隊が動いているのです。「一隊の兵士と千人隊長」(12節)とあります。「一隊の兵士」とは、恐らく「百人隊」であろうかと思います。その隊長である「百人隊長」というのは、しばしば聖書に出てきます(マタイ7:5、マルコ15:39等)。しかしそれを指揮していたのは、百人隊長ではなく、その上に立つ千人隊長であったというのです。これも他の福音書にはありません。他の福音書では小さな拉致事件のようですが、ヨハネでは大掛かりな軍隊を率いての逮捕として描かれています。

(4)形式的尋問

 大祭司の尋問も、あまり本質的なことに踏み入っていません。「お前は来るべきメシアであるのか」とか、この後でピラトが尋ねるように、「お前は王であるのか」とかいうようなことは、尋ねていません。「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた」(19節)とあります。いわば周辺的な問いです。
 また主イエスの方も、この尋問に対して直接答えてはおられません。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜわたしを尋問するのか。わたしが何をしたかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい」(20〜21節)。
 確かに2章から12章にいたるまで、ユダヤ人との対論がさまざまな形で行われています。そこで十分、教えを語った。弟子たちもどのような者たちであるか。どのような弟子訓練をしたか、すべて公にしてきた。今更何を聞こうと言うのか、ということでしょう。アンナスにしてみれば、これは証人喚問です。「今までのことを、ここで改めて述べよ」ということかも知れません。しかしアンナスもカイアファも、この男をどうするかということは、すべて決めています。表面的なやり取りに過ぎなかったのです。だからこそ、イエス・キリストも、もう何もここで改めて語ることはないとおっしゃったのでしょう。その教えについて、本気で聞こうというのであれば、もう一度福音書の記述を最初からやり直さなければならなくなってしまいます。

(5)カイアファの助言

 アンナスの質問が形式的であることは、先ほど言いましたように、彼らが実はすでにイエス・キリストに対して、裁きの判決を決めてしまっていることを示しています。いつ彼らがそれを決定したのか。それは11章47〜53節に記されています。

「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』」(11:47〜48)。

 下からの暴動が起きると、それによって自分たちが倒されてしまうかも知れないし、そうでなかったとしても、ローマ軍がそれを鎮圧しにやってきて、自分たちの居場所もなくなってしまう。すると、カイアファがこう言うのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(49〜50節)。
 これは、非常に説得力のある論理でした。そこでは、その人間が正しいのかどうかということは二の次です。その男を犠牲にすることによって、みんなが助かるのであれば、それでいいじゃないか、ということを、カイアファは提案したのです。ですから、既に、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらん(でいた)」(11:53)のです。陰で殺そうというのではありません。ユダヤの最高議会で、それを決定したのです。あの時、カイアファが口にした言葉の通りに、ことは進んでいきます。福音書記者ヨハネは、それを確認するかのように、ここでもう一度、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」(14節)と記すのです。
 表面的には、カイアファの思惑通りにことが進んでいるように見える。それは、非常に人間的なこと、政治的なことです。イエス・キリストの死というものは、そのレベルですべて説明がつくような事柄であるかも知れません。「なるほどイエス・キリストは、それでみんなの犠牲になって死んだのか。」ところが、そこには、神様の意志が働いていた。カイアファをして、神が語らしめた。カイアファは知らないのです。「一人の人間が民の代わりに死ぬ方がよい。」それは神様のご意志でもありました。そのことがこの後、粛々と進められていくのです。

(6)体を差し出すイエス

 イエス・キリストのアンナスへの返答を聞いていた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」(22節)と言って、イエスを平手打ちしました。「お前はどなたと話しているのか分かっているのか」という風に、イエス・キリストをしかったのです。これも滑稽な情景です。この下役こそ、今、自分の目の前にいるのがどなたであるか、分かっていない。彼はいかにも権力におもねる人間です。権力をもっている人間と、そのまわりを取りまいている人間。それに対して、地上的な意味では、何も持たず、しかも手が縛られている状態で、イエス・キリストが立っている。この対比の中で、むしろイエス・キリストの力強さ、真の権威が浮き上がっているように思うのです。
 この下役がイエス・キリストを平手打ちした時、イエス・キリストは、「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」(23節)と語られた。この言葉を聞いて、下役は恐らくひるんだのではないでしょうか。
 「あれ?イエス様は、『誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』(マタイ5:39)」と言われたではないか」と思われる方もあるかも知れません。確かに、イエス・キリストは、口では相手を批判されていますが、体は、左の頬どころか、体全体を差し出して、ここに立っておられます。ここに受動的ではなく、能動的に十字架に向かっていくイエスの姿があります。

(7)私の罪

 受難物語を読んでいると、人間の罪の現実、謀略、あさましさ、そういうものを見せつけられる思いがいたします。私たち自身もイエス・キリストを裁く側に立っていることを思わざるを得ません。
 「パッション」という映画を皆さん、ご覧になったでしょうか。メル・ギブソンという俳優が監督を務めた映画です。2年前に、世界中で大きな話題になりました。残虐なシーンが次々と出てくるので、あまり観たくないという方もあろうかと思いますが、監督メル・ギブソン自身が一瞬だけ出てくるのです。と言っても、顔は出てこない。手だけです。横たわった十字架にイエス・キリストを釘付けにする場面、ハンマーで打ち付ける場面です。あのハンマーを持つ手が、メル・ギブソンの手だということです。なぜそんなことをしたのかと言うと、「イエス・キリストを十字架につけたのは、他ならぬ私である」と、自分に思い起こさせるためだそうです。
 私たちは、「イエス・キリストを十字架につけたのは、他ならぬ私である」とわかる時に、同時に、それを赦してくださるイエス・キリストの偉大さもわかるのではないでしょうか。イエス・キリストは、私のためにも体をはって立っておられる。引こうと思えば引けたはずのイエス・キリストが引かないで、私を赦すために立っておられる。そのことを深く心に留めたいと思います。
 カイアファの「一人の人間が民の代わりに死ぬ方がよい」という言葉が、私にも妥当している。イエス・キリストは、この当時の人々のためだけではなく、私のためにも、代わりに死んでくださったのです。


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