裏切られても

〜ヨハネ福音書講解説教(68)〜
ホセア書14章2〜8節
ヨハネ福音書18章15〜18、25〜27節
2006年2月5日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)最初の嘘

 本日は、自他共にイエス・キリストの一番弟子であると認めるシモン・ペトロが、イエス・キリストを「知らない」と言った、有名な物語を、ご一緒に読みました。ヨハネ福音書では、他の福音書には出てこない「もう一人の弟子」という人が、ここに登場しています。

「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた」(15〜16節)。

 つまり、このもう一人の弟子のおかげで、ペトロも門の中へ入ることを許されたという訳です。
 この門番の女中がペトロに、こう尋ねました。「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」(17節)。すっと潜り抜けられると思ったのが、そう簡単にはいきませんでした。一言、尋ねられたのです。この時、ペトロはとっさに「違う」と言いました。まさか、こんなところで、問われるとは思っていなかったのではないでしょうか。そしてとっさに「違う」と言ってしまった。人間誰しも、最初の嘘とは、そういうものではないかと思います。嘘をつくつもりではなかったけれども、不意を突かれて「いや違う」と言ってしまった。ところが、だんだんと一つの嘘が次の嘘を生み、そして嘘で固めていくようになってしまうのです。自己防御反応です。

(2)同時進行する2つの裁判

 今日の箇所と前回の箇所は、それぞれ二つにまたがっています。かわるがわるに出てくるのです。12節以下で、イエス・キリストが大祭司のしゅうとであるアンナスのもとに連れて行かれ、15節以下で、ペトロが大祭司の屋敷に入る話が出てくる。そしてまた19節以下で、イエス・キリストが大祭司の尋問を受けて、25節以下で、ペトロがイエス・キリストを繰り返し否定することが記されている。そういう構成になっています。このことは、場面転換がはかられることによって、時が経っていることを示す効果があろうかと思います。しかしそれと共に、イエス・キリストの宗教裁判が行われている時に、実は同時進行的に、もう一つの裁判が行われていたのだということを対比的に告げているのではないでしょうか。
 ペトロは第一関門を何とかくぐり抜けて、僕や下役たちが焚き火にあたっているところで一緒に、恐らく少し顔を隠すようにしてじっとしていました。そこで「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」(25節)と尋ねられるのです。この時は、門番の女中の時と少し違ってきております。尋ねたのは複数であり、もう少し公的な性格が出てきている。ペトロも恐らく最初の時よりも、もっと大きな声で、「いや違う」と強く否定したのではないでしょうか。このあたりからだんだんまわりを警戒するようになってきます。「何とかしなければならない」というあせりも出てきます。
 その時、何と大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が出てきました。はっきり見ていたのです。自分の身内を傷つけた者を忘れることはない。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」(26節)。「もうあなたは言い逃れをすることはできませんよ。私が証人です」と、強く言ったのです。その時ペトロは、再び、いや三度、それを打ち消しました。するとその時、鶏が鳴いたのです。もはや、「とっさのことであった」という言い訳はできません。

(3)イエス・キリストの予言

 ペトロは鶏が鳴いた時に、イエス・キリストが自分に語られた言葉を思い起こしました。かつてペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と言った時に、イエス・キリストは、こう答えられました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:36〜38)。
 ペトロはこの言葉を思い出したのです。他の福音書は、この時ペトロは激しく泣いたということを記しています。イエス様に申し訳ないことをした。自分は何と強がりを言っていたのか。しかしその言葉のとおりにはできなかった。自分を責め、自分の弱さを嘆き悲しんだことでありましょう。

(4)従うために来た

 それにしても、ペトロはどうして、この屋敷の中にまで入っていったのでしょうか。他の弟子たちはすでに逃げ去っています。「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」(15節)。「従った」という言葉にはっとさせられるのです。この「従う」というのは、ペトロがイエス・キリストに召しだされて「網を捨てて従った」(マタイ4:20)という時と同じ言葉であります。この時、他の弟子たちが逃げ出していく中で、とにかくペトロはイエス様に従おうとしていたのです。彼は、ただ単に興味本位で、イエス・キリストを見ようとしたのではない。心配で見に来たというのでもない。最後まで従いたいと思った。だからこそ、こんな危険を冒してまでここにいるのです。
 しかしイエス・キリストを否定しながらも従って行こうとする、このペトロの行動は不可解です。最初の時の反応はとっさであったとしても、恐らくその後の否認は、ひやひやしながらも何とか切り抜けようとしていたのではないでしょうか。今は大祭司によるイエス・キリストの尋問が行われています。宗教裁判のようなものです。ペトロは、そこへ行くことはできません。もう少しすればあのピラトによる裁判が始まる。群衆の目の前で、イエス・キリストの裁判が始まる。とにかくその時まで持ちこたえなければならない。今ここで捕まることはできない。もしもイエス様の裁判の時に、イエス様に不利なことが起きれば、自分が飛び出そう。そしてイエス様がどんなに素晴らしい方であったか、どんなに素晴らしいことをしてくださったか、自分が証人になろう。それでも差し止めることができなければ、自分も一緒に裁きを受けよう。自分もイエス・キリストの弟子だと名乗ろう。死んでも構わない。そう思って、チャンスを伺っていたのではないか。私はそういう風に想像するのです。
 確かに彼のような性格の人は大舞台になればなるほど肝が座るタイプ、実力以上の力が出せるタイプ、本番に強いタイプではないかと思います。そして愛するイエス様のそばであれば、それだけの力がペトロに出てきたということは想像がつくことです。彼はその時を待っていたのではないでしょうか。ところがイエス・キリストの大裁判が始まる前に、実はペトロに対する小さな裁判がすでに始まっていたのです。ペトロはそのことに気づいていませんでした。ペトロにしてみれば、こんなところはまだ自分の出番ではない、と思っています。こんなところでつまずいてはいられない。こんなつまらない場面で、大騒ぎになってリンチで殺されでもすれば、一体何のためにこんなところまでやってきたのか。ここは何としてでも切りぬけなければならない。女中の言葉などに、自分の命をはる価値はない。その辺の人々の言葉、そんなものに自分の命をかける必要はない。そういう思いであったのではないでしょうか。

(5)ちょっと距離を置く

 私たちの日常生活を思い起こしてみてください。些細なこと、取るに足らないことの連続であります。しかし実はそんな場面、何でもないような場面で、キリストに従うかどうかが問われているのではないでしょうか。「クリスチャンがそんなことをしていいの。」聞く方も別に本気ではありません。「まあそんな堅いことを言わずに。」そういうことは山のようにあるのではないでしょうか。妻との会話。夫との会話。子どもとの会話。職場での会話。学校での会話。そういう些細なところで、実は自分の生き方が問われている。自分がクリスチャンであることを知られたくないような小さな場面で、私たちの裁判が始まっているのです。
 ペトロは恐らく、自分がイエス・キリストを否定したとは思っていなかったでありましょう。今、ほんの少し距離を置いただけです。今でも、イエス・キリストの弟子のつもりです。だからこそ、こんなところにまでやってきたのです。いざとなれば、死ぬ覚悟をすることもあるかも知れない。そう心の準備をしようとしているところです。ほんの小さな距離。自分とキリストの関係は、こんな些細なことでは崩れないと思っております。
 私たちもそういう小さな場面で、いかにしばしばキリストに距離を置いていることでしょうか。教会の祈祷会のような場で証をすることはできますが、誰も見ていないような場面では、ちょっとキリストと距離を置きたいことがある。ペトロはあれだけのことを言っておきながら、よくも3回も「知らない」と言ったなと思われるかも知れませんが、自分に照らしてみれば、あっという間に3回位、キリストに距離を置いているのではないでしょうか。
 その時ペトロは鶏が鳴いて、はっといたしました。そして先ほどのイエス様の言葉を思い起こしたのです。イエス様のおっしゃった通りになってしまった。自分は「命を捨てます」とまで言いながら、それを全うすることができなかった。
 ペトロはそうした自分の弱さを思い起こすと同時に、イエス・キリストがそれに先立っておっしゃったことを思い起こしたに違いありません。それは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(13:36)という言葉です。これだけ聞くと、少し謎めいています。一旦は自分を「知らない」と否定するだろうけれども、後でついてくる。そこまで読んでおられたのです。

(6)ゆるしと派遣

 ヨハネ福音書は一番最後のところで、復活のイエス・キリストがペトロに出会う物語を記しています(21:15〜19)。共に食事をした後でイエス・キリストがペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」言われました。ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。そうしたことが3回も繰り返されるのです。よく言われることは、ペトロが3回「イエス・キリストを知らない」と言ったことを、ここで「わたしを愛しているか」と問いながら、それを赦していかれたということです。そして「わたしの羊を飼いなさい」というその後の使命を語られたのです。
鶏の鳴き声を聞いたことは、彼にとっては有罪の宣告を受けたようなものです。ところが同時に、赦されて、次の使命まで与えられていたことを思い出したのです(こちらを思い起こしたのは、もう少し後であったかも知れません)。イエス・キリストは、それでペトロを断罪するのではなくて、再び立ちあがらせ、自分の使徒として立てていこうとされたのです。ここに、イエス・キリストの大きな愛があります。どんなに裏切られても、どんなに捨てられても、イエス様の方からは、決して捨てることはない。そうした大きな愛を示しているのです。

(7)ペトロの証

 ヨハネ福音書と他の福音書はかなり違うのですが、不思議に共通して残している物語が幾つかあります。その一つは、パンを裂いて5千人の人を養ったというあの物語(6:1〜14)。そしてイエス・キリストご自身の受難物語を除いては、このペトロの否認の物語です。
 この後、ペトロはいわば教会の創始者になっていきます。ローマ・カトリック教会によれば、初代の教皇になります。福音書が書かれ始めた時には、すでにペトロは、おしもおされぬ大リーダーでありました。そのペトロの過去を告発するような話です。どうしてそのような話をすべての福音書が残しているのでしょうか。ペトロ自身がどこへ行っても、自分の信仰の原点として、この証をしたのではないかと思います。「あの出来事なくしては、今の自分はありえなかった。」自分の弱さをさらけ出すようにして、みんなの前で証をし、それが教会の中で伝えられていったのではないでしょうか。この神様の大きな愛、イエス・キリストの大きな愛が私たちにも注がれていることを知り、私たちもその中で立ち返っていく者となりましょう。
最後に、ホセア書の言葉をもう一度、聞きたいと思います。

「イスラエルよ、立ち帰れ
あなたの神、主のもとへ。
あなたは咎につまずき、悪の中にいる。
誓いの言葉を携え
主に立ち帰って言え。
『すべての悪を取り去り
恵みをお与えください。』
……
わたしは背く彼らをいやし
喜んで彼らを愛する。
まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。
露のようにわたしはイスラエルに臨み
彼はゆりのように花咲き
レバノンの杉のように根を張る。
その若枝は広がり
オリーブのように美しく
レバノンの杉のように香る。」
(ホセア14:2〜7)

 ペトロもこのように神様に赦され、用いられて、レバノン杉のように大きく、そして深く根をはって、教会の御業は進められていったのです。私たちもその教会の中にあり、その群れの一員であります。イエス・キリストに従って、毎日の生活を築いていきましょう。


HOMEへ戻る