真理とは何か

〜ヨハネ福音書講解説教(69)〜
詩編20編7〜10節
ヨハネ福音書18章28〜38節
2006年2月19日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)夜明けの出来事

 ヨハネ福音書の受難物語を読み進めています。本日は、ピラトの裁判のところに入ってまいります。
 「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった」(28節)。ヨハネ福音書は、ところどころに時刻のことを書いております。ニコデモがイエス・キリストを訪ねたのは「ある夜」であったと書いておりましたし(3:2)、イスカリオテのユダがイエス・キリストを裏切るために出て行ったのも夜でありました(13:30)。象徴的な意味合いも含んでいるのでしょう。カイアファのところから、ピラトのところへ連れていったのは明け方であったというのです。これから最も苦しい経験をなさるイエス・キリストでありますが、神様の大きな計画の中では、それは夜明けである。大きな一歩を踏み出さんとしている。そういう意味が込められているように思います。
 「しかし彼らは、自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」(28節)。彼らというのは、祭司長たち、宗教勢力の人たちであります。ピラトは異邦人ですから、そこへ行くと汚れるというのです。皮肉なことです。汚れを身に負うまいとしている人たちが、ここで神様から遣わされた御子イエス・キリストを十字架の死へと追いやろうとしている。この矛盾、醜さ。清さを保とうとする中に、汚れが入り込んでいるということを思わざるを得ません。今日の箇所の最後のところで、ピラトの「真理とは何か」という言葉が出てまいりますが、彼らの姿を通して、すでに「真理とは何か」という問いが突きつけられているように思います。
 彼らはピラトの官邸に入ろうとしないので、ピラトの方が彼らのところへやってきます。「どういう罪でこの男を訴えるのか」(29節)。ピラトはそう問いかけました。しかし彼らはそれに直接には答えません。「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」(30節)。「彼に罪があるかどうかは、我々がすでに判断したこと。あなたは下手に口出しをせず、それに基づいて黙って裁いてくださればよいのです」ということでしょう。

(2)木にかけられる

 ピラトは、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法で裁け」(31節)と言います。「こんな宗教的事柄の内輪もめみたいなことに、首を突っ込みたくない。」ピラトは、形の上では彼らの上に立っていますけれども、どうすることもできない。惨めな姿です。この後も、彼の方が官邸から出たり入ったりすることになります。
 ピラトは、イエス・キリストを彼らに突き返そうとしましたが、彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」(31節)と、それを拒みました。ユダヤ人たちは、石打ちの刑という死刑方法を持っていました。ですから、ここでは「人間の生殺与奪の権利はローマに握られているではありませんか」と言いたいのです。都合よくローマを立てる。何とかしてピラトに裁かせたい。そこにもやはり、自分たちの手を汚したくない、という思いが入っているのでしょう。
 ただしヨハネ福音書記者はこう付け加えています。「それは御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」(32節)。神を冒涜した者に対するユダヤの死刑方法は石打ちの刑でありましたが、ローマの仕方では、木にかける。この後の十字架を指し示しています。これは呪われたしるしでありました。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」(申命記21章22、23節)。
 木にかけられた死体は呪われたもの。ヨハネ福音書は、まさにイエス・キリストが木にかけられた者として、つまり呪われた者として死ななければならなかったということを、示そうとしている。ユダヤ人たちの意図を超えたところで、神様の意図がここにも表れているのです。

(3)一つ目の問い

 ピラトは総督官邸の中に入って、次々とイエス・キリストに尋ねます。イエス・キリストに対して尋ねた一つ目の問いは、「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)という問いでありました。ピラトにとって、「イエス・キリストが王である」というのは、やはり聞き捨てならないことでありました。ある地域に、王が、支配者が二人いてはならない。まさにユダヤ人たちも、あえてそこに焦点を絞って、「あなたと対立することを主張している男ですよ。そういう男を放置していていいのですか」と言った。ピラトは王という言葉の前に「ユダヤ人の」という言葉をつけて、あくまで自分の外の問題として、投げかけようとしています。
 それに対して、イエス・キリストは、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34節)と、問い返されます。ピラトは、かっときます。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ」(35節)。
 私は、イエス・キリストの「あなたは自分の考えでそう言うのですか」という問いは、私たちにも投げかけられているように思いました。私たちは『イエス・キリストが誰であるか』という問いに対しては、最後のところでは、自分で向き合わなければならない。人の言うとおり、というわけにはいかないのです。
 イエス・キリストは、弟子たちに向かって、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16:13)とお尋ねになったことがありました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに『エレミヤだ』とか『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えました。しかしイエス・キリストは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(同15節)と突っ込んで尋ねられました。シモン・ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました(16節)という信仰の告白をしました。そこで初めて、イエス・キリストは、かけがえのない方となるのです。
 この時のピラトには、イエス・キリストの問いかけなど耳に入っていないようです。どうでもいい話のように思えたのでしょう。ただイエス・キリストの存在が、自分の権利、領域を侵すものであるかどうかということだけが、問題なのでした。

(4)二つ目の問い

 そこでピラトは、二つ目の問いかけをします。「いったい何をしたのか」(35節)。イエス・キリストは、次のように答えられました。

「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属してはいない」(36節)。

 イエス・キリストの国は、ローマ帝国のように、この世界に領土を持っているわけではありません。またイエス・キリストはローマ皇帝、あるいはピラトと並び立つような王ではありません。しかしそのことは、イエス・キリストの国はこの世を離れて、別のところにある、ということでもない。やはりこの世のことに関係がある。だから聖書は、あえて「王」という地上の国で用いる言葉を使うのです。
 この世を超えたお方、つまり神のもとから遣わされたお方が、この世にやってきた。そのお方がこの世の真っ只中で、しかしこの世を超えた国のお方として働いておられるのです。

(5)三つ目の問い

 ピラトには、その言葉の深い意味がわかりません。「わたしの国」と言われたことをとらえて、「それではやはり王なのか」(37節)と狭めていきます。
 「それでは」という言葉(「ウクーン」というギリシャ語)は、半ば疑惑、半ば驚きを表す言葉です。聖書では、ここにだけ出てくる言葉だそうです。「それでも、あなたは王なのか。この世のものでもない。領土もない。王座もない。王の民もいない。それで一体、どうして王と言えるのか。」ピラト自身の疑いと戸惑いを表しています。
 それに対するイエス・キリストの答えは、新共同訳聖書では「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」となっています。前の口語訳聖書では、「あなたの言うとおり、わたしは王である」と訳されていました。随分違いますね。口語訳では、イエスがそれを肯定したと理解している。新共同訳聖書では、ピラトの責任に投げ返している。どちらも間違いではありません。そして、私はどちらにも意味があると思っています。
 「そんなことで王と言えるのか」というピラトに向かって、「王だと言ったのはあなたです」とイエス・キリストは言われた。「イエス・キリストを王と認めるかどうか。」それは私たちにそれぞれに委ねられているということでしょう。
 また口語訳聖書のように、「あなたの言うとおり、わたしは王である」と読むならば、イエス・キリストは御自分が王であることを宣言なさったということになります。「確かに私は王だ。しかしそれはあなたが考えているようなものではない。それを超えたものだ」という意味になるでしょう。
 神の支配が見えた時に、イエス・キリストが王であることがわかるのです。

(6)四つ目の問い

 イエス・キリストは続けます。「わたしは真理について明かしするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。どんどんピラトの関心事から離れていくようです。ピラトは、それに対して「真理とは何か」と言いました。彼は、深い意味でこの言葉を語ったのではないでしょう。嘲笑気味に、「真理だって?バカバカしい」と言い放ったのでしょう。「そんなものは、私には関係がない。もっと現実的なこと、いかに人を動かして、いかにうまく支配するか。そしていかに上の権威に取り入るか。それが問題だ。お前の話には付き合っていられない。」しかしそれは、ピラトの今の姿のみじめさの裏返しであるのかも知れません。
 「真理とは何か」。これは、本当は最も深い問いであります。私たちの人生において、いつも繰り返し問われるものであります。この問いに対して、イエス・キリストはここでは何も答えておられません。しかしヨハネ福音書自体がこの大きな問いへの答、道しるべを示していると思います。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(8:31〜32)。

 これはイエス・キリストが告げられた言葉でありました。またもっと直接的に、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)とも言われました。イエス・キリストご自身が「わたしは真理である」とおっしゃったのです。「わたしを通らなければ、誰も父のもとへ行くことはできない」(14:6)。ここでピラトは「真理とは何か」と問いましたが、「真理とは誰か」と言った方がよかったのかも知れません。イエス・キリストこそは、真理のしるしであり、神様が真実な方であることの証であったと思います。

(7)十字架へ向かう姿の中に

 国語辞典(『広辞苑』)で「真理」について引いてみると、一つ目に、「ほんとうのこと。まことの道理」とありました。二つ目に、哲学的な説明がありましたが、これは難しい説明ですので、前半は省略しますが、後半にこのように書かれていました。「その内容規定にさまざまな立場があり、これをいかに見るかによって哲学上の諸見地が分かれると考えることができる。」
 「真理とは何か」ということを規定する時に、そもそも最初の前提の内容規定のところで、立場も分かれてくるということです。ヨハネ福音書も、何か客観的な中立的な「真理」というものが存在するという風に考えているわけではありません。ただひとつ、「真理とは、偽りのないもの、私たちを裏切らないもの」という風に言えるのではないでしょうか。それは、まさにイエス・キリストという存在の中にある。そこにこそ、私たちを裏切らないもの、神様のよき意志が表されているということです。その中に留まる時、私たちは深いところで自由にされるのです。それが、聖書の大きな、根本的なメッセージです。
 私たちのところには、いつもそれ(真理)を脅かそうとする力が働いております。私は、力によって、私たちに「これを認めろ」と迫ってくるものは、どうも真理ではないと思います。それは、「自由にする」のとは反対のことです。力によらないで、私たちが、それを「まことです。本当です」と受け入れられるところにこそ、真理があるのではないか、と思うのです。それは、イエス・キリストが「わたしの国は、この世には属してはいない」とおっしゃったことと関係があります。「もし、わたしの国がこの世に属していたら、引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」とありました。この世の国のものであれば、それを武力によって守るということが出てくるでしょう。ところが、イエス・キリストはそうではなかったし、イエス・キリストという真理に属する者もそういう仕方で守られるのではありません。真理は、十字架を引き受けていくイエス・キリストの姿の中にこそ、如実に示されているのです。


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