この人を見よ

〜ヨハネ福音書講解説教(70)〜
イザヤ書52章13〜53章6節
ヨハネ福音書18章38b〜19章7節
2006年3月5日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之

(1)何の罪も見いだせない

 先週の水曜日から、受難節が始まりました。イエス・キリストが苦難を受け、十字架にかかって死なれたことを深く心に刻む季節であります。この季節に、ヨハネ福音書の受難物語を読み進めることは、まことに意義深いことであります。
 ピラトによるイエス・キリストの裁判が続いております。ピラトは「真理とは何か」と吐き捨てるように言った後、そこを立ち去り、外で待っているユダヤ人たちのところへ行きました。そして「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(38節)と言いました。ピラトは、イエス・キリストに、何か気高いものを感じ取って、そう言ったのではありません。それは、この後のピラトの対応を見てもわかることです。もともとイエス・キリストがピラトの前に連れ出されたのは、「ローマの権威に逆らうようなことを言っている。だから裁いて欲しい」ということでありました。ですからピラトの尋問も「お前がユダヤ人の王なのか。」「それでは、やはり王なのか」ということが中心です。
 そうだとすれば、ピラトが「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と言ったのは、イエス・キリストを裁くことに何か畏れを覚えたというようなことではなく、逆に、「この男はそんな大それたことをしでかすような男ではない」ということです。「ローマをおびやかすような人間ではない。何をもって、この男が王だと言うのか。」
 しかしそこには、ピラトが自分でも知らない意味が込められていました。ピラトによって、「この人には何の罪もない」ということが宣言されるのです。ピラトは、19章6節のところでも、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と繰り返しています。見えない力がピラトに働き、彼に「イエス・キリストは罪のないお方である」と告げさせているのです。全く罪のないお方が十字架におかかりになるからこそ、大きな意味をもっています。ここで無罪の宣告を受けた方が、同時に有罪としての判決を受けることになるのです。それが明らかにされるために、「あの男には何の罪も見いだせない」ということが宣言されたのです。

(2)バラバ

 ピラトは、ひとつの提案をします。「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」(18:39)。この「ユダヤ人の王」という言葉には、ピラトのあざけりが込められています。それはイエス・キリストへのあざけりであると同時に、ユダヤ人たちに対するあざけりでもありました。なぜならば、もはやユダヤという国は存在せず、王もいなかったからです。それを支配していたのは、ローマの総督であり、その上にはカエサルがいました。それを知りながら、「あのユダヤ人の王を釈放して欲しいか」と言ったのです。
ユダヤ人たちは、大声でこう叫びました。「その男ではない。バラバを」(40節)。
 バラバとは、一体誰であったのでしょう。ヨハネ福音書は、ただ一言、「バラバは強盗であった」(40節)と記しています。しかしどうもただの強盗ではなかったようです。ルカ福音書では、「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである」(ルカ23:19)と記されています。恐らく、ローマの支配に抵抗する武装勢力のリーダーであったのではないかと思われます。こうした人物は、支配されている側の人々の支持を得ます。わかりやすい。英雄になります。
 ユダヤ人たちは、イエス・キリストの代わりに、バラバの釈放を要求いたしました。これは皮肉なことです。つまり、彼らは、イエス・キリストが政治犯ではないということを知りながら、政治犯に仕立て上げて、ローマ総督の前に連れ出して、裁かせようとしている。その一方で本物の政治犯の釈放を求めることになったからです。ピラトにしてみれば、まさかこんなことになるとは思っていなかったでしょう。
 彼はユダヤ人たちの声に驚き、総督官邸のもとに引き上げていきます。そしてイエス・キリストと再び向き合いました。「一体、このみずぼらしい男に何の力があると言うのだ。」彼は、イエス・キリストを鞭で打たせることにしました。
 それはユダヤ人たちの声に従って、イエス・キリストを十字架につけることを決めたからではありません。まだこの男の方を釈放しようと思っているのです。だから鞭打ちすることにしたのです。鞭打ちをし、もう全く気力もなくなってしまったみすぼらしい姿をユダヤ人たちに見せようと思っている。「この男を見よ。こんなに惨めな姿ではないか。もうわたしが十分懲らしめてやったから、この辺でゆるしてやったらどうだ。」そう言おうと思って、準備をしているのです。

(3)あざけり

 彼は鞭打ちをさせた後、兵士たちの好きにさせました。おふざけの道具です。兵士たちは、茨の冠を編んで、イエス・キリストの頭に載せました。それがひとつの罰のようなものでした。「お前が王だというから、こんな目にあうのだぞ。」血が顔の上を滴り落ちます。紫の衣を着せました。紫は高貴な色です。王しか身にまとってはいけない。それをあえてイエス・キリストに着せることによって、いかにそれが不似合いであるか。それをおもしろおかしく笑おうとしているのです。兵士たちは「ユダヤ人の王、万歳」と叫びました。もちろんおふざけです。しかし、彼らはそのようにして、知らずして、イエス・キリストが王であることを宣言したのです。

「1 いばらの冠を主にかぶせて
 ユダヤ人の王と主をあざける。
 彼らは、その時知らなかった、
 その傷が、わたしをいやすことを。
2 紫の衣を無理にはいで
 笑いものにして、主をあざける。
 彼らはその時知らなかった、
 主がわたしの恥をおおうことを。」
 (『讃美歌21』304)

(4)見よ、この男だ

 ピラトは、「もう、その辺でいいだろう」ということで、再びユダヤ人の前に姿を現しました。この出たり入ったりするピラトは惨めです。彼はユダヤ人たちに言いました。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけがわかるだろう」(19:4)。ピラトはそこで罪のない人間のどんな姿を見せようと言うのでしょうか。後光が差すような神々しい姿でしょうか。深いところでは実はそうなのですが、人の目には全く対極の姿でした。鞭打たれ、傷つき、倒れそうになっている。息もぜいぜいしている。それでいて不釣合いに、冠をかぶせられ、紫の服を着せられている。屈辱的な姿です。
 ピラトは、そういう姿のイエス・キリストを見せつけて、「見よ、この男だ」と言いました。「これでもまだお前たちは、こんな男がわたしの権威にたてついたと言うのか。ばかげているではないか。」
 「見よ、この男だ」と訳されています、この言葉は有名な言葉であります。新共同訳聖書では、「男」と訳してありますが、元のギリシャ語の「アンスローポス」という言葉は、英語の「man」のように、「人」を指す男性名詞であります。前の口語訳聖書では、「見よ、この人だ」と訳されていました。新共同訳聖書が、あえて「男」と訳しているのは、「この男」という言い方の中に、「こいつだ」というような、人をおとしめる意味合いを込めているのではないかと思いました。
 ラテン語では、「エッケ(エッチェ)・ホモ」と言います。「ホモ」というのは、やはり人間をあらわします。この「エッケ・ホモ」というのは、古来多くの人が引用して来ました。有名なところでは、哲学者のニーチェが、自分の哲学を解説する入門書に『この人を見よ』(エッケ・ホモ)と名付けました。1884年、44歳の時の書物ですが、その後、病のために何も書けなくなっていきます。自分自身をさして、彼はそう言ったのです。
 ピラトの場合は、あざけりの意味を込めて、「この人を見よ」と言いましたが、この言葉もやはりピラトの思いを超えて、深い意味をあらわしていくことになります。
 今日、ヨハネ福音書と共に、イザヤ書52章13節から13章6節を読んでいただきました。「苦難の僕の歌」と呼ばれるもので、旧約聖書の中で、最もよくイエス・キリストの受難を預言していると言われる言葉です。
この「苦難の僕の歌」の最初の言葉も「見よ」という言葉で、始まります。

「見よ、わたしの僕は栄える。
はるかに高く上げられ、あがめられる。
かつて多くの人をおおののかせたあなたの姿のように
彼の姿は損なわれ、人とは見えず
もはや人のこの面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。
彼を見て、王たちは口を閉ざす。
だれも物語らなかったことを見
一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。」

 ここに「高く上げられる」僕の姿と、低く低くされ、人の面影もないような姿が同居している。それが、この苦難の僕の歌が言おうとしていることではないでしょうか。普通の仕方ではない。高く上げられるのだけれども、それは誰も知らなかったような仕方でした。「エッケ・ホモ。」この人を見よ。この人において、その不思議なことが起こったのです。

(5)不思議な取替え

 この時、突然出てきたバラバとは不思議な存在であります。彼は、「暴動と殺人のかどで」死刑になるはずの人間でしたが、自分の目の前にあらわれたイエス・キリストという男のために、突然釈放されるのです。それは私たちとイエス・キリストとの間で起きていることを指し示しているのではないでしょうか。イエス・キリストは、無罪の宣告を受けつつ、有罪としての判決を受けた方だと申し上げました。そのことによって、私たちは逆に、有罪の宣告を受けつつ、無罪としての判決を受けるのです。受難物語を読んでいますと、いかに私たちが罪深いものであるかということを、突きつけられているような思いがいたします。まさに私の罪が言い逃れのできないものであることを明らかにされる。しかしそこで不思議にも無罪であるとの判決を受けるのです。イエス・キリストとバラバとの間で不思議な取替えが起こった。同じように、私たちとイエス・キリストの間で不思議な取替えが起こるのです。
 イザヤ書53章は、このように続きます。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病いを知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた。
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。」
「わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」
(イザヤ53:4、6)

 まさにこれが、このイエス・キリストという人物において起きている出来事であります。だからこそ「だれも物語らなかったこと」であり、「一度も聞かされなかったこと」(イザヤ52:15)なのです。

(6)ラーゲルクヴィストの『バラバ』

 ノーベル賞作家のラーゲルクヴィストという人が『バラバ』という小説を書いています(岩波文庫)。この時突然赦されましたバラバが、その後一体どうなっていったのかを、想像を広げて、書いたものであります。主人公バラバはいろんなクリスチャンたちの殉教の姿を見ていきながら、クリスチャンになり、最後には、彼自身も殉教していくのです。バラバが先輩の殉教者たちに続いて死のうとしている時、彼はこう言うのです。「お前さんに委ねるよ。おれの魂を。」
 そして息絶えるのです。もちろん、これは聖書にはない物語ですが、バラバが、イエス・キリストとの間に取替えが起きて、なぜ自分がこのように生きているのかということ、考えに考えた末のものとして、説得力のある小説であると思いました。

(7)ボンヘッファーの『倫理』

 「この人を見よ」という言葉でもうひとつ思い起こすのは、ボンヘッファーが『倫理』の中で、記していることです。

 「この人を見よ! この人において、神とこの世界との和解が成った。破壊によってではなく和解によって、この世界は克服される。理想やプログラムではなく、また良心や義務や責任や道徳でもなく、ただ神の完全な愛のみが、この世界の現実に直面して、これに打ち勝つのである。繰り返して言うならば、そのことがなしとげられるのは、普遍的な愛の観念によってではなく、現実的に生きて働きたもうた、イエス・キリストにおける神の愛によってである。世界に対するこの神の愛は、この世の現実を、その困難さの極みまで経験し、苦しみを身に受けたもう。この世はイエス・キリストの体に激しく襲いかかる。しかし苦しめられながらも、キリストはこの世の罪を赦したもう。このようにして和解がなしとげられる。この人を見よ!」(森野善右衛門訳『現代キリスト教倫理』p.22)

 私たちの身にも、この愛があらわれていることを覚え、感謝してこの時を過ごし、悔い改めを持って、このイエス・キリストに従っていきたいと思います。


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