それぞれの罪

〜ヨハネ福音書講解説教(71)〜
イザヤ書53章7〜10節
ヨハネ福音書19章8〜16節a
2006年3月12日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)ピラトの恐れ

 ピラトによる裁判がまだ続いています。ピラトはイエス・キリストの中に、「何の罪も見出せない」と言い、釈放することを提案しましたが、彼をピラトのもとに連れてきたユダヤ人たちは、それを拒否いたしました。彼らは「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」(7節)と言いました。ピラトは、この言葉を聞いて、ますます恐ろしくなりました。
 何を恐れたのでしょうか。すべてです。彼は、自分が支配しているはずのユダヤ人たちを恐れました。総督官邸の中では、堂々と自分の目の前に立っているイエス・キリストが不気味に見えてきました。ユダヤ人たちがこの後、引き合いに出すことになるローマ皇帝の権威を恐れました。群衆を恐れました。そしてその板ばさみになることを恐れました。
 彼は総督官邸の中に入って、イエス・キリストに新たに尋ねるのです。「お前はどこから来たのか」(9節)。これは、単に出身地を聞いているのではありません。「お前は神の子だと言ったそうだが、何の権威をもってそういうのか。その資格を与えたのは一体誰なのか」ということです。イエス・キリストは、この問いかけに対して、何もお答えになりません。もちろん、その権威が父なる神から来たものであることは、福音書の中にこれまで何度も出てきました。

(2)ピラトの決定

 ピラトは、こう言いました。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」(10節)。ピラトのいらだちが感じ取られます。「何と生意気なやつだ。私の方がお前よりも上に立っているのだぞ。」ピラトは確かに、イエス・キリストを釈放する権限も、十字架につける権限も持っていました。しかし彼はその権限を自分が信じる方向で用いることはできませんでした。権威が備わっていなかったのです。権限に権威が伴っていない時に、人は強圧的になります。
イ エス・キリストはようやく口を開きます。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」(11節)。イエス・キリストの口を通して、この裁判は、本当は神の意志が遂行されるために行われているということが宣言されたのです。
 それを聞いてピラトはかっとなって、イエスを十字架にかける決心をした、ということでしょうか。そうではありません。逆に、ピラトは一層、「イエスを釈放しようと努めた」(12節)というのです。矛盾しているようですが、彼の気持ち、「何とかしてこの一件にかかわりをもちたくない。自分が死刑の判決をくだしたくない」という気持ちがよく表れているのではないでしょうか。ピラトはもう一度、ユダヤ人たちの前に姿を現すのです。ユダヤ人たちは、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」(12節)。ユダヤ人たちは、ローマ皇帝の名を持ち出しますが、皇帝を心の底から敬っている訳ではありません。むしろ、ローマに支配されていることを憎んでさえいたでしょう。しかしその権威を利用してピラトを追い込んでいくのです。
 ピラトはついにイエス・キリストを「敷石」(ガバタ)という場所に引き出します。ここが正式な裁判の場所でした。ですからここからが本当の裁判と言ってもいいでしょう。それまでは予審のようなものです。
 「過越祭の準備の日、正午ごろであった」とのことです。ピラトは、「見よ、あなたたちの王だ」(14節)と言いました。ピラトは何とかしてユダヤ人たちに彼を裁かせようとするのです。しかし彼らは「殺せ、殺せ。十字架につけろ」(15節)と絶叫します。ピラトも絶叫します。「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」(15節)。祭司長たちはこう答えました。「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」(15節)。何としらじらしい言葉でしょうか。ついにピラトはイエス・キリストを十字架につけることを許可し、彼らに引き渡しました。これはピラトがくだした決定であります。イエス・キリストは、もう何もお語りになりません。先ほどのイザヤ書53章の通りです。

「(彼は)屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」(イザヤ53:7)

(3)ピラトの名が意味するもの

 さて、ここには、何人かの人間、あるいは幾つかのタイプの人間が登場します。私は、そこにはそれぞれに違った罪があると思うのです。
 まずピラトという人物です。この人は、これを読む限り、それ程悪い人間には思えません。一人の弱い人間です。何とかしてイエス・キリストを釈放しようとしたけれども、その努力も空しく、企てに失敗したのです。しかしいかがでありましょうか。私たちが、毎週、唱えています使徒信条には、「(主は)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」とあります。使徒信条で、イエス・キリスト以外に固有名詞が出てくるのは、母マリアとポンテオ・ピラトだけであります。これにより、ピラトの名前は永遠にキリスト教会に刻まれることになりました。果たして、これまで一体、何度、代々の教会において、この名前が口にされたでありましょうか。これは一体何を意味しているのでしょうか。なぜ使徒信条に、ポンテオ・ピラトの名前があるのでしょうか。使徒信条というのは、これ以上削ることはできない最小の形で、キリスト教の信仰を言い表したものです。その中には、マリアの夫ヨセフの名前も、一番弟子、初代教会の創始者ペトロの名前もありません。アブラハムの名前も、モーセもエリヤもない。この時の黒幕で言えば、カイアファの方がもっと悪いのではないか。イスカリオテのユダも出てこない。省けるものは全部省いたのです。それでもポンテオ・ピラトの名前は残った。どうしてでしょうか。
 それは第一に、イエス・キリストの受難が、私たち人間の歴史の中にしっかりと組み込まれるためであります。ピラトという名前によって、私たちは、イエス・キリストの苦難と十字架が架空の話ではなく、歴史上の出来事であったことを確認するのです。ポンテオ・ピラトという名前は、歴史上、確認できる名前だからです。
 第二に、ピラトという名前は、イエス・キリストがリンチ(私的復讐)によって殺されたのではなく、しかるべき人物のもとで裁かれ、法のもとで死刑に処せられたことを示しています。そうしたことから、ある意味でたまたまその裁判を取り扱ったピラトが、その名前、汚名を残すことになってしまったとも言えるかも知れません。

(4)上に立つ者の責任

 しかしピラトの名前が残ったもう一つの理由は、上に立つ者の責任、決定権をもった人間の責任はそれだけ重いということではないでしょうか。誰かを助けられる地位にありながら、それを用いて、その人を助けることをしなかった場合、その責任まで、問われてくるということです。ピラトの場合がまさにそうでありました。この時ピラトはイエス・キリストを、釈放をする権限をもっていました。彼自身がそう言っているのです。しかも彼は、「この男には罪がない」ということを承知していたのです。イエス・キリストが無罪であることを知りながら、彼を釈放しなかった。その罪は、ピラトに課せられるのです。ピラトは自分の権限をふりかざす一方で、多くのものを恐れ、びくびくして生きている人間でありました。何かを決定する時にも、自分が正しいと思うことで判断することができない。力関係の中で、つまり、何が今の自分に有利であるかによって、それを決定する弱い人間でした。それでもピラトの罪が消えるわけではないのです。

(5)教会の罪

 二つ目のタイプは、この時の宗教者たちであります。ヨハネ福音書では、「ユダヤ人たち」と漠然と言っておりますが、このユダヤ人たち全体を扇動していたのは、大祭司、祭司長など、宗教の専門家たちであります。最後のところでは、祭司長たちが、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言っています。本来ならば、真っ先に神様の御心を知り、それを遂行すべき立場にあった人たちであります。しかしそれをするどころか、逆に自分たちの利益を守り、神様の意志をすらかき消そうとした。自分のもっている宗教的権威によって、それを行おうとした。
 私は、信仰をもつ人間の責任、神様の意志を知っている者の責任ということを強く思うのです。私たちは、「悪いのはユダヤ人だ」ということはできません。実はキリスト教会は、2000年間、「ユダヤ人こそ、イエス・キリスト殺しの張本人だ」と言って、反ユダヤ主義を助長してきました。
 しかしよく考えてみると、イエス・キリストは、「ユダヤ人たち」への批判の言葉をたくさん述べておられますが、それは、御自分が属される共同体のことでありました。その外にあって、第三者的に批判しておられるのではない。自分が属するコミュニティーを、いわば自己批判として語っておられる。その視点を忘れてはならないと思います。ここで起こっていることは、教会でも起こることです。いやむしろ教会の罪が、ここで問われているのではないでしょうか。神様の御心を知っているはずの人間が、それを遂行せず、むしろそれを押しつぶしてしまうことがある。信仰者の罪が問われているのです。

(6)群衆の中の私たち

 第三には、ここで名前の出てこない匿名の登場人物であります。ヨハネ福音書は、宗教的リーダーたちと一緒にして、「ユダヤ人たち」と呼んでいますが、他の福音書では、それを「群衆」と呼んでおります。ここには大勢の人がいました。「敷石」というところに引き出された時には、特にそうです。名前は出てきません。この裁判を見ていた人たち、これに連なっていた人たち、彼らの中には、恐らくこうした成り行きを快く思っていない人がたくさんいたことであろうと思います。「いやなことが起きているなあ。あの人、かわいそうだなあ。」しかし、そこで何も言わなかったのです。実際には、言えなかったのだと思いますが、いずれにしろ反対しなかったのです。手を上げて反対しなかったのは、結果として、それに賛同したということではないでしょうか。あれかこれかを決めなければならない時に、中立はないのです。流れに身を任せているということは、それに賛同しているということです。
 私は、今の日本が、ある方向へ、ある方向へと流されていく、そういう重いものを感じています。この60年余り、大多数の人々が、「日本国民は憲法第九条を絶対に守らなければならない」と強く言ってきたのに、最近では、その声が薄れ、「あれは時代にそぐわなくなってきてしまった」という声が大きくなってきました。それがある一線を越える時に、もう誰も止められなくなってしまうのではないかと心配です。いつかそういう日が来るのではないか。その前に「ノー」と言わないのは、その流れを認めていることになるのでしょう。
 あるいは、私はあちこちの学校や会社で起きている「いじめ」のことを思い起こします。みんなからかい半分です。張本人は、ほんのわずか数人です。しかしそこで誰かが犠牲(スケープゴート)になっている。そして時には、自殺にまでいたる。死に至る事件に発展して、責任者の追及が始まるのですが、誰も責任を負おうとはしない。そこで何も言わなかった人たち、いやな思いをしながら、しかしそれを黙認していた人たちに罪はないのでしょうか。私はあると思います。そして私たちも、その中にいるのではないでしょうか。
 ここにいた群衆、匿名の人たち、彼らも一人一人を取ってみれば、さほど悪い人間ではなかったでしょう。もしもピラトのように自分の責任でイエス・キリストを有罪か無罪かを決定しなければならないような立場に置かれたならば、みんな躊躇したのではないでしょうか。しかしそれがかたまりとなって、ある流れができてくると、安易に、ある方向に突っ走るのです。群集心理の恐ろしさを思わざるを得ません。

(7)さまざまな罪が折り重なる中で

 そうした中にあって、イエス・キリストはただ一人、正しいお方、罪のないお方として、それに向き合っておられます。そしてこの裁かれている人が、自分を十字架に追い込もうとしている人たちの罪をさえ担って、ここに立っておられる。それが神様の意志でありました。神様はこの人にそれを背負わせるのです。
 先ほどのイザヤ書の最後の言葉には、こう記されていました。

「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いをささげ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。」(イザヤ53:10)

 ここで、いわばとんでもないこと、ありえないことが起きている。私たちはそのことに目を向けなければならない。そしてイエス・キリストが私たちの罪を担ってくださっていることを信じるがゆえに、逆にそこで、自分の罪を、冷静に正面から見据えることができるのではないでしょうか。
 そのイエス・キリストに感謝し、それに続く者、それにふさわしい者として生き始めるようになりたいものであります。


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