成し遂げられた

〜ヨハネ福音書講解説教(73)〜
詩編22編13〜22節
ヨハネ福音書19章28〜30節
2006年4月2日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)十字架上の七つの言葉

 受難物語は、四つの福音書の中にそれぞれ違う仕方で記されていますが、イエス・キリストが十字架上でお語りになった言葉を四つの福音書から全部拾い上げ、それをある順序で並べたテキストがあります。古来、それは「十字架上の七つの言葉」として親しまれてきました。何人かの作曲家がこのテキストに基づいて音楽を書いています。有名なものとしては、ハインリヒ・シュッツの「十字架上の七つの言葉」があります。単純ですが、非常に美しい曲です。私の大好きな曲の一つです。
 もう一つ、有名なのは、ヨーゼフ・ハイドンのものです。彼は、スペイン南部の町の司祭の依頼によって、「十字架上の七つの言葉」に基づく(黙想のための)器楽曲を作るのですが、この曲に余程情熱を傾けていたと思われます。オーケストラ版、弦楽四重奏版、ピアノ版、声楽を伴うオラトリオ版と4つの版を作っています。ところどころ秘めた激しさもみられますが、これも慰めに満ちた美しい音楽であります。
 ちなみにこの七つの言葉というのは、以下のとおりです。

@「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)
A「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)
B「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」
 「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26、27)
C「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34、マタイ27: 46)
D「渇く。」(ヨハネ19:28)
E「成し遂げられた。」(ヨハネ19:30)
F「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 確かにこれはよく考えられた順序であると思います。これを並べて改めて思うのは、ルカとヨハネに集中しているということです。それぞれ三つずつですから、これですでに六つになります。マタイとマルコでは、ただ一言「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉だけしか記されていません。
 ヨハネ福音書の三つの言葉は、今回の箇所と前回の箇所に出てくるのですが、今日は、この言葉の意味を尋ねながら、御言葉を聞いてまいりましょう。

(2)「渇く」

 「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。」(28節)。イエス・キリストが十字架上で渇きを覚えられた。これは声にならない程の声であったかも知れません。喉が渇く時というのは、声を出すのもつらいものです。しかし訴えなければならない。
 イエス・キリストが渇きを覚えられたことは、すでに一度ヨハネ福音書に出ていました。それはサマリアでの真昼のことでした。主イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられました。主イエスは、水をくみにやって来たサマリアの女に向かって、「水を飲ませてください」(4:7)とおっしゃるのです。イエス・キリストが、人間として、この世に来られたのだということを思わせられるやり取りでありました。人間であれば、誰しも喉も渇くし、おなかもすきます。それをイエス・キリストも共有されたのです。私たちの弱さに連なり、私たちの弱さを、ご自分で引き受けられたのです。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びがイエス・キリストの精神的な苦痛を表しているとすれば、これは肉体的な苦痛を示しているということができるかも知れません。
 ヨハネ福音書は「こうして、聖書の言葉が実現した」(28節)と書き添えています。これで思い起こすのは、詩編69編の中の言葉です。

「わたしが受けている嘲りを
恥を、屈辱を、あなたはよくご存知です。
わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。
嘲りに心を打ち砕かれ
わたしは無力になりました。
望んでいた同情は得られず
慰めてくれる人も見いだせません。
人はわたしに苦いものを食べさせようとし
渇くわたしに酢を飲ませようとします。」
(詩編69:20〜22)

(3)詩編22編

 先ほど読んでいただいた詩編22編の中にも、こういう言葉がありました。

「わたしは水となって注ぎ出され
骨はことごとくはずれ
心は胸の中で蝋のように溶ける。
口は渇いて素焼きのかけらとなり
舌は上顎にはり付く。
あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」
(詩編22:15〜16)

 詩編はもともとダビデの作と考えられていましたが、まさにこの苦難を自分のこととして歌った詩人が別にあったのでしょう。イエス・キリストは、その苦難をご自分の苦難として、その弱さをご自分の弱さとして引き受けておられるのです。ちなみにこの詩編22編の先を読んでみますと、

「彼らはさらしものにして眺め
わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く。」
(詩編22:18〜19)

 という言葉がありますが、これは前回の箇所にその実現が記されていました(ヨハネ19:24)。
もうひとつ興味深いのは、この詩編全体の流れです。この詩編は、次のように始まっています。
「わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。」
(詩編22:2)

 これもまた最初にご紹介しました「十字架上の七つの言葉」の一つでありました。イエス・キリストは、この詩編22編の言葉を、ご自分の言葉として叫ばれたのです。この詩編をずっと読んでいきますと、神様を賛美する言葉で終わっております。ですからイエス・キリストは、ご自分の苦難をこの歌に重ねながらも、最後には神様を讃えるということが心の中にあったのではないかと思うのです。そのことは、今日の「成し遂げられた」という言葉の中にも秘められているのではないでしょうか。
この「渇く」という言葉には、ヨハネ福音書独特の、自ら積極的に苦難を引き受けていくイエス・キリストの意志もあらわれているようです。ヨハネ福音書には、他の福音書にあるゲツセマネの祈り(「父よ、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの思いではなく、御心のままに。」)はありません。その代わりにヨハネでは、もう一歩踏み込んだ言葉として、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(18:11)という言葉が記されていました。今、イエス・キリストが、「渇く」とおっしゃったのは、まさに、その杯を飲むということへの意志が現れていると思います。

(4)酸いぶどう酒

 「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けた」(29〜30節a)。
酸いぶどう酒というのは、変質してしまったぶどう酒、安物のぶどう酒です。ヨハネ福音書は、他の福音書のようなあざけり、ののしりの言葉は記していませんが、酸いぶどう酒をイエス・キリストに差し出すことそのものが、「さてどうするか見てやろう」というあざけりを示しています。
アウグスティヌスは、こう語っています。

「ユダヤ人自身が父祖や預言者のぶどう酒から変質した酸いぶどう酒であった。また彼らはいわば、この世の邪曲に満たされて、一杯になった器から海綿のように、ある仕方でくぼみの多い、曲がりくねった隠れ場で人をだます心をもっている。しかし、彼らは酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに巻きつけた。」(アウグスティヌス『ヨハネ福音書講解下』中沢宣夫訳)

 私たちクリスチャンもまた神様の御心によって立てられたにもかかわらず変質してしまったぶどう酒のようなものではないでしょうか。しかしイエス・キリストはそれをご自分の中に引き受けられるのです。
 ヒソプとは、石垣に生える平凡な草です。この草の茎は、過越祭の時に、血を注ぐ儀式で用いられました。エジプトから脱出する時、このヒソプで家の門に羊の血を塗ったのです。イエス・キリストの十字架は、まさにこの過越祭の時になされたので、ヒソプがその近くにあったことは十分に考えられます。そしてその過越祭で使うヒソプを用いて、イエス・キリストにぶどう酒が差し出された。私たちを死から守る血が流されているということが、ここでも示されているのでしょう。イエス・キリストが、まさに贖いの小羊、神の小羊となられたということです。

(5)「終わった」「成し遂げられた」

 このようにして、聖書の言葉が実現するのです。イエス・キリストは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言われました。これは、単純に訳せば、「終わった」という言葉です。どちらとも訳せる。
 いろんな翻訳の聖書をひもといてみますと、単純に「終わった」と訳しているものと、「成し遂げられた」と訳しているものと、大きく2種類あるのです。どちらにも意味があります。しかし第一義的には、ここですべてが終わったのだということを受けとめるべきでありましょう。
 以前の口語訳聖書では、「すべてが終わった」と訳しておりました。「すべてが」という言葉は原文にはないのですが、「すべてが」という言葉の中に、「成し遂げられた」という意味を含ませようとしたのかも知れません。地上の死を意味します。長い苦しみも、ここですべてが終わる。
 イエス・キリストは、これまで「わたしの時はまだ来ていない」(2:4、7:6、)と語り、そして「御自分の時が来たことを悟り」(13:1)、ついに「父よ、時が来ました」(17:1)と語られた。そうした「時」が、すべてこの一点、十字架上のこの瞬間に終わる。「終わる」ことそのものに深い意味があるのです。
 しかしこの「終わり」は敗北を意味するのではありません。十字架を地上で計画した人たちからすれば、彼らの思いが「成し遂げられた」と思ったことでしょうが、もっと深いところで、神様の御心が成し遂げられようとしている。
 イエス・キリスト自身が「わたしは律法を廃棄するためではなく、完成するために来た」(マタイ5:17)と語られたように、ここにはやはり神様の御業の完成ということが含まれているのです。すべてのことが終わる。しかしそこからのみ始まる新しい世界があるのです。十字架の出来事は、そのことを私たちに告げているのです。

(6)頭を垂れて息を引き取られた

 イエス・キリストは、「成し遂げられた」と語られた後、頭を垂れて息を引き取られました。あたかも「それでよし」とうなずいておられるようです。私は、今年、ヨハネ福音書の受難物語を集中して読むにあたって、J・S・バッハのヨハネ受難曲を改めて何度も聴いております。バッハは、この「成し遂げられた」という言葉の後に、バスのアリアを挿入しております(第32曲)。こういう歌詞であります。

「私の大事な救い主よ、聞かせてください。
あなたはいま十字架に付けられ
自ら『成し遂げられた』と言われました。
だから私は死から解き放たれたのですか。
私はあなたの苦しみと死によって
天の国を受け継げるのですか。
すべての世界に救済があるのですか。
あなたは痛みで言葉も出ないことでしょう。
しかしあなたは頭を垂れて
無言のうちに『そうだ』と言われる。」

 そこに合唱がかぶせられます。

「イエスよ、あなたは亡くなられたが、
今こそ無限に生きられる。
最期の死の苦しみにも私が頭を向けるのは
ひとり、私を贖われたあなたのみ。
おお、敬愛する主よ。
ただあなたが手に入れられた救いをお与えください。
それ以上の何も私は望みません。」
(樋口隆一訳)

 美しいアリアとコラールであります。バッハは、これをシュトックマンという人の『苦しみと悩みと死』(1633)という詩から取って、メロディーをつけました。
 このところでイエス・キリストの地上でのわざがすべて終わった。それは神様の意志の成就であった。なされなければならなかった。「私たちは、死から解き放たれたのですか。」「天の国を受け継げるのですか。」「世界に救済はあるのですか。」これらは、私たちの真剣な問です。自分のこととしても、世界のこととしても一番知りたいことです。それを十字架上のイエス・キリストに率直に投げかける。イエス・キリストは何も答えられない。ただ頭を垂れて息を引き取る。そうした形で神様の意志が示されるのです。
 私たちの生も死も根源的に、このイエス・キリストの十字架の御手の中にあるのです。だからシュトックマンが詠ったように、私たちは私たちをあがなってくださった主にのみ頭を向けるのです。
 私たちの弱さもずるさも、変質したぶどう酒のようなぶざまな姿も引き受けて、イエス・キリストは十字架におかかりになり、死なれた。そこから新しく始まる命に生きていきましょう。


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