隠していられない

〜ヨハネ福音書講解説教(74)〜
詩編34編12〜23節
ヨハネ福音書19章31〜42節
2006年4月9日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)血と水が流れ出る

 本日は、棕櫚の主日であり、今日から受難週が始まります。主のご受難を心に留め、一日一日を大切に過ごしてまいりましょう。
イエス・キリストは、十字架上で「成し遂げられた」と言って、すでに息を引き取っておられました。恐らく午後3時頃であったと思われます。その後、日没までの約3時間の間にあわただしく行われたことが、ここに記されているのです。
 ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取りおろすように、ピラトに願い出ました。「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は神に呪われたものだからである」(申命記21:23)と定められていました。しかもその日は金曜日、安息日の準備の日。とりわけこの安息日は1年の中でも、過越祭の特別な安息日でありました。彼らは、決してそこで息を引き取る人のことを配慮したのではなく、大地が汚されないために、願い出たのでした。
 彼らの願いは、ピラトに聞き入れられました。兵士たちがその要請を受けて、十字架上の三人の足の骨を折ろうとしました。イエス・キリスト以外の二人の罪人の足は、その死を早めるために、折られました。しかしイエス・キリストは、その時すでに息を引き取っておられましたので、足の骨は折られませんでした。その代わりに、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺すのです。そのわき腹から血と水が流れ出ました。この記述によって、ヨハネ福音書記者は、「イエス・キリストは本当に死なれたんだ」と告げようとしているのでしょう。
 この血と水が流れ出たことには、象徴的な意味もあります。水はきよめを、血はいのちをあらわすものですので、イエス・キリストの死が人間の罪のきよめ、新しい生命を与えるけがれなき神の小羊の犠牲の死であることを意味していると言えるでしょう。水と血は、洗礼と聖餐という教会の聖礼典を示していると読む人もいます。
 「それを目撃した者がおり、その証は真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実であることを知っている」(35節)とあります。ここで、読者である私たちが、この物語の中にぐっと引き入れられるのです。
 イエス・キリストにまつわる伝承は、最初の時代からさまざまなものがありました。イエス・キリストは、この時死んだのではなく、死んだふりをしていただけだという人もいました。ヨハネ福音書記者は、「いやそうではなく、イエス・キリストは本当に死なれたのだ。その証人もいる」ということを告げているのです。

(2)ユダの福音書

 イエス・キリストに関する伝承で、ごく最近の話題としては、「ユダの福音書」という書物が発見され、その解読に成功したということが、一昨日(4月7日)の新聞(朝日、読売)に記されていました。その「ユダの福音書」の中には、「イスカリオテのユダが、イエス・キリストをローマの官憲に引き渡したのは、イエス・キリストの言いつけに従ったからだ」と記されているそうです。ある意味でショッキングな内容であり、ある意味で非常に興味深いものです。皆さんの中には、気になる方もあるでしょうから、少しこのことに触れておきましょう。「ユダの福音書」は、すでに2世紀に異端の禁書として文献に出てきますが、実物の内容が明らかにされたのは、初めてだそうです。今回解読された写本は、3〜4世紀のものだということですから、それが禁書とされた後も、随分長い間、伝えられていたということがわかります。
 ただし私たちの信仰がそれによってひっくり返るようなものではありませんので、ご安心ください。これが聖書の中に取り入れられたというならば、大問題ですが、そうではありません。聖書には入れられなかったイエス・キリストの伝承や文書は、当初よりたくさん存在しておりました。イエス・キリストについて書かれた文書がすべて聖書になったわけではないのです。
 福音書でも、四つの福音書以外に、「トマスによる福音書」というのが有名です。この「ユダの福音書」もその一つに数えられるものでしょう。四つの福音書でさえもいろんな理解がありますが、もっともっと多様な理解があったということがわかります。当初より、イスカリオテのユダについて、そういう好意的な見方があったということ、しかも文書として残されていたということは、少なくともユダ理解に一石を投じるものであろうと思います。
 キリスト教界では、イスカリオテのユダを悪者の代表のように理解する傾向がありますが、私はそうした理解は一面的であり、「イスカリオテのユダも他の弟子たちと相対的な違いしかなく、私たちのうちにもユダはいる。このユダが排除されるならば、私も排除されるかもしれない」と言ってきました。この「ユダの福音書」は、異端ではあるでしょうが、こういうイスカリオテのユダを擁護する文書があってもおかしくないと思います。天国でイスカリオテのユダもしかるべき地位が与えられるとすれば、喜ばしいことではないでしょうか。

(3)聖書の言葉が実現するため

 さて福音書記者は、イエス・キリストが本当に死んだのだと示して、「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」(36節)と記しています。これは、先ほど読んでいただいた詩編34編の中にありました。「骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる」(詩編34:21)。
 ただしさらに、それは出エジプトの出来事に遡るものであります。イエス・キリストが息を引き取られたのは、過越祭の時でありました。過越祭とは、出エジプトの際に、イスラエルの民が守られて、エジプトを脱出することができたことを心に留めるものです。神様はエジプトに災いを下しつつ、ファラオに「もう出て行け」と言わせるように仕向けたのです。その一方で、その災いがイスラエルの民に及ばないように、小羊をささげさせ、その血を家の玄関に塗らせました。そのことを覚えて、毎年毎年、同じようにしたのです。それが過越祭です。この過越祭について、こう定められていました。「一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。イスラエルの共同体全体がこれを祝わなければならない」(出12:46)。ですから、この時の十字架上のイエス・キリストは、まさにこの過越の羊、しかも永遠の神の小羊に他ならないということが、ここにも示されているのでしょう。
 一人の兵士がイエス・キリストのわき腹を刺したことも、「彼らは自分たちの突き刺した者を見る」(37節)という言葉が実現するためであったということです。これは、ゼカリヤ書12章10節に記されています。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」

(4)アリマタヤのヨセフ

 さて、ユダヤ人がピラトにそのように願い出た後、別の人物が全く別の動機で別のことを願い出ました。それはアリマタヤ出身のヨセフという人物でありました。この人について、ヨハネ福音書は「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(38節)と、注を付けています。いわば、隠れキリシタンだったのです。このアリマタヤのヨセフは、町の共同体の指導的立場にあったのでしょう。マルコ福音書では、「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」(マルコ15:43)と記されており、ルカ福音書では、「ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた」(ルカ23:50)と記されています。
 この人が良心的な人物であったことには違いありません。イエス・キリストを尊敬し、慕い、ひそかに従っていた。しかし、「自分は、クリスチャンである。イエス・キリストの弟子である」と名乗る勇気はもっていなかったのです。それをするには、あまりにも多くのものをもっていました。お金、地位、名誉、議員資格。「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(ヨハネ9:22)のです。彼は、それを失わないように、自分の信仰を心のうちに持っていたのです。
 ところが、イエス・キリストの死に直面して、黙っていられなくなりました。決してイエス・キリストに対する同情からではないでありましょう。そのように、自分をごまかしながら、かろうじて信仰をもっているような自分、いや究極のところでは、イエス・キリストよりも、お金や名誉や地位をよりどころにしている自分がいやになったのではないでしょうか。そういう自分と決別しなければならない時が来た。
 この時、ペトロも他の弟子たちも皆すでに逃げ出して、ここにはいません。いたとしても、ピラトに相手にされるような者は一人もいません。もしも名乗り出ようものなら、捕えられて、牢屋へ入れられてしまったに違いありません。アリマタヤのヨセフは、「今こそ自分の出番である」と思ったのでしょう。「自分しかいない。自分であれば、ピラトに願い出ることはできる。必要であれば、お金、裏金も用意できる。ここで名乗りでなければ、自分は一生後悔する。」そう思ったのではないでしょうか。イエス・キリストが十字架で死なれた時、アリマタヤのヨセフも同じように、古き自分に死んだのです。

(5)ニコデモ

 ピラトは、その請願を認めてくれました。ヨセフは無事に遺体を引き取ることができました。そこへもう一人似たような人物が現れます。ニコデモです。この人はヨハネ福音書にだけ出てくる人です。「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」(39節)とあります。彼もイエス・キリストを師と認めていました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(ヨハネ3:2)と言いました。いわば信仰の告白です。しかし、それは暗いところで一対一でしか言えないような告白でありました。彼もユダヤ人の議員であり、地位とお金と名誉をもっていたのです。彼もまた、それをよりどころとしながら、そこにいわば接ぎ木をするようにして、自分の信仰を持とうとしていた。人前ではそのことを言わず、ひそかにイエス・キリストを師として迎えようとしていたのです。その逆説的弱さをイエス・キリストは知っておられました。それを受けとめつつ、彼にこう言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)。彼もまた、このイエス・キリストの死の後、ようやく古き自分に死ぬ決心をしたのです。
 ニコデモは、イエス・キリストを丁重に埋葬するために、「没薬と沈香を混ぜた物を100リトラばかり」(39節)持って来ました。100リトラとは、聖書巻末の度量衡換算表で計算してみますと、約33キロです。33キロの重さになる程の香料。相当高価なものであったに違いありません。もしかすると、アリマタヤのヨセフの行動が、ニコデモのうちにくすぶる信仰を奮い立たせたのかも知れません。そしてこの二人は、大事な、大事な場面で、彼らにしかできない貢献をいたしました。これも神様の不思議なご計画、配剤であると思います。
 私たちの教会においても、そのようなことが起きます。意外な人が大事な時に現れて、大事な働きをする。神様の不思議なご計画以外の何ものでもない。そう驚かされることがしばしばあるのです。ですから、私たちは誰かを指して、「あの人は中途半端な信仰だ」と、あまり批判しないようにしたいと思います。いつどこで、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)かわからないのです。そしてまた同時に自分の問題としては、私たちは、自分の信仰を表明することにためらわないようにしたい。「今がその時だ」と思うチャンスを逃さないようにしたいと思うのです。

(6)陰府において働くキリスト

 彼らは大急ぎで日没までの数時間の間に、その葬りの儀式を行いました。このようにして短い時間ではありましたが、中途半端ではなく、まことの王にふさわしい仕方、完全な仕方で埋葬が行われたのです。
 今日の物語では、イエス・キリストは不在です。もう少し言えば、生きたイエス・キリストは不在です。この前のところで息を引き取り、この次のところで復活されますが、今日の箇所では、ただイエス・キリストの遺体があるだけです。この後、安息日の間中、そうであります。しかしながらイエス・キリストの生き様、死に様が、このように人を動かしているのです。
 そしてただ眠っているように見える、安息の中に入れられているように見える時にも、実は働いておられたのです。私たちの信仰告白、「使徒信条」によりますと、イエス・キリストは「陰府(よみ)にくだられ」ました。「陰府」とは死者の国です。今この時、陰府において働いておられたのです。イエス・キリストが陰府にくだられたのは、陰府と天国をつなぐためでありました。イエス・キリストは、陰府の国さえも知っておられた。私たちの世界よりも、さらに深い、さらに暗い世界から復活されるのです。すべての人、すべての魂が復活の命に与るためです。


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