信じる者になりなさい

〜ヨハネ福音書講解説教(78)〜
箴言28章26節
ヨハネ福音書20章24〜29節
2006年7月2日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)トマスという人

「ああ主のひとみ、まなざしよ
うたがいまどうトマスにも
み傷しめして『信ぜよ』と
招くはたれぞ、主ならずや」
(『讃美歌21』197)

 先ほど歌いましたこの讃美歌は、多くの日本人に愛唱されてきたものですが、今日、私たちに与えられたテキストはまさにこの讃美歌のもとになった箇所であります。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)
 そう言っていたトマスに、復活のイエス・キリストが、現れてくださったのです。12弟子の一人であるトマスは、しばしば懐疑主義者と呼ばれます。しかし彼のこれまでの言葉を振り返ってみますと、懐疑主義者と言うよりは、ただ正直な人であったと思います。本当に自分が信じられなければ、「信じた」とは言わなかった。わからないことは「わからない」と言った人です。
 ヨハネ福音書14章にこういう話があります。イエス・キリストが、まずこう語られます。

「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14:2〜4)。

 お葬式にもしばしば読まれる箇所です。
 この最後の言葉を受けて、トマスがこう言うのです。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(14:5)。「よくわかりませんから、はっきり教えてください」と言ったのです。
 私たちはわかっていなくてもわかったふりをすることがあるのではないでしょうか。私にも経験がありますが、日本人は外国で言葉がよくわかっていないのに、「フンフン」とわかったふりをすることがあります。後で「何だ。全然、わかっていないじゃないか」とかえって恥をかくのです。そういうことを思えば、トマスは正直で、誠実な人であったと思います。勇気があると言ってもいいでしょう。
 このトマスの問いに促されて、イエス・キリストは有名な言葉を残されました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。 いわばトマスのお陰で、私たちは、この言葉を手にすることができたと言えるでしょう。
 勇気があるということで言えば、こういうこともありました。イエス・キリストが、「ラザロは死んだ」と告げられ、「さあ、彼のところへ行こう」とおっしゃった時、トマスは、イエス・キリストが死ぬ決意をされたものと勘違いして、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました(ヨハネ11:16)。中途半端ではない。「こうと思えば、こう」ということがはっきりした人です。ボンヘッファーは、このトマスを指して、「どんな犠牲でも覚悟していた弟子であったが、イエスに投げかけた自分の問いが、はっきりと、明瞭に答えられることを熱望していたのが分かる」と言っております(説教集V189頁)。

(2)その時、トマスはいなかった

 イエス・キリストが復活された日の夕方、最初に弟子たちの前に姿を現された時、このトマスはいませんでした。群れているのがいやで、一人でいたかったのでしょうか。自暴自棄になっていたのでしょうか。それともただ一時、何かの都合で、そこを離れていたのでしょうか。理由は、書いてありません。
 弟子たちはやや興奮して、口々に「わたしたちは主を見た」、「わたしたちは主を見た」と言うのです。トマスはどういう気持ちであったでしょうか。他の弟子たちを促して、「わたしたちも一緒に死のう」とまで言った人であります。一人取り残されたような気持ちであったことでしょう。もしかすると、みんなして自分を騙そうとしているのではないかと思ったかも知れません。そうした中で、彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と言うのです。日が経つにつれて、そういう気持ちが強くなっていったのではないでしょうか。

(3)トマスをめざして

 1週間後の日曜日、弟子たちは、同じ場所に同じように集まっていました。一種の礼拝のように見えます。ただし1週間前と違って、そこにはトマスもいました。「自分は絶対に信じないぞ」と強がりを言って、信じることを拒みながらも、何かを求めて、弟子たちと共にそこにいる。
 教会に来られる人の中には、「神様を信じたいけれども信じられない」という人もあります。ちょうどこの時のトマスに似ているかも知れません。決して今のままでいいと思っているわけではない。疑いもある。しかし自分の疑いの方が間違っていると、説得されたいと願っている。その意味で、この時のトマスは懐疑的ではあってもシニカル(冷笑的)ではない。「復活なんて、ばかばかしい」と言っているわけではないのです。
 弟子たちは1週間前と同じ家で同じように鍵をかけていました。そのところへイエス・キリストは、1週間前と同じように、現れてくださいました。そして1週間前と同じように、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」(26節)と挨拶されました。
 ただそこから先が違いました。この日は、さっとトマスの方に向き直り、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)と言われるのです。イエス・キリストはトマスの気持ちをよくご存知であり、トマスのためにわざわざ来てくださったのであります。
 イエス・キリストは、弟子が集まっているところに現れてくださると同時に、その中の一人を目指して、現れてくださるのです。この時は、それがトマスでした。「トマスよ、お前は私が復活したということが信じられないそうだね。その傷跡に自分の指を入れなければ、承知しないそうだね。それならば、そうすればいい。そうしてごらん」と言って、傷跡のある手を差し出されたのです。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と言われました。

(4)トマスは触らない

 トマスは、イエス・キリストが「あなたの指をここに当ててみなさい」と言われたにもかかわらず、実際には触りませんでした。イエス・キリストは「信じられない」という者のために、その十字架の痛みと苦しみを広げて見せ、何度でもそれを繰り返してくださる。その痛みが分かった時、トマスはとても触ることができなかったのでしょう。イエス・キリストはトマスの求めに対して、それを超える誠実さ、愛情を示してくださった。それが分かった時、トマスは、イエス・キリストに触れることができなかっただけではなく、もう触れる必要がなかったのです。
 彼はかつて「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とまで言いました。しかし実際にイエス・キリストの十字架の出来事を目の当たりにした時、自分は決してイエス・キリストのために死ぬことができるような人間ではなかったということを思い知らされ、悶々としていたのではないでしょうか。そしてイエス・キリストの傷跡を見た瞬間、そのような不信仰な自分のためにこそ、イエス・キリストは十字架におかかりくださったということが、ぴんと来た。「この自分がイエス・キリストを苦しめ、十字架にかけた」ということと、「この自分のために、イエス・キリストは十字架におかかりくださった」ということがぴたっと結びついたのです。このイエス・キリストの愛の大きさに触れた時に、彼は「わたしの主、わたしの神よ」(28節)という信仰告白に導かれるのです。

(5)バルラハの「再会」

 この4月から5月末まで、上野の東京藝術大学美術館において、エルンスト・バルラハ展が開かれました。バルラハは1870年に生まれ、1938年に68歳で死んだドイツの芸術家です。彫刻、版画に加えて、劇作の分野でも大きな才能を発揮しました。第一次世界大戦後、ドレスデンとベルリンの芸術大学教授に招聘されるのですが、彼はそれを断ります。彼は、生涯「人間」をテーマとし、貧困や飢餓、戦争に直面する人たちの喜びや悲しみを、重厚かつ素朴な芸術作品に表しました。
 戦争を扱った作品でも、戦意を高揚させるための戦争賛美ではなく、戦争の悲惨さ、悲しみをテーマにしましたので、退廃的な芸術家として、ナチスに迫害されました。作品の大部分が燃やされ、破壊されたということです。そのようなことから現存するバルラハの作品は少ないそうですが、今回は、そうした貴重なバルラハの作品を紹介する日本では初めての試みでありました。
 そのポスターに大きく出ていた作品で、彼の代表作の一つといわれるものに、「再会」という木彫りがあります。小塩節氏の『バルラハ−神と人を求めた芸術家』という書物の表紙にも使われています。展覧会の展示にも「再会」とだけしか記されていませんでしたが、実は、これは復活後のイエス・キリストとトマスの「再会」の像だということです(小塩節『バルラハ』まえがき参照)。1926年作、クルミ材に彫ったもので、高さ130センチ、横40センチの大きなものです。イエス・キリストが、トマスをぎゅっと抱きかかえています。
 普通トマスと言えば、若く屈強でがっしりとしたイメージがあるのではないでしょうか。しかしこのトマスは随分違います。明らかにイエス・キリストよりも年長、初老にすら見えます。かろうじて何かを耐え抜いてきたけれども、イエス・キリストに再会したとたんに、体中の力が抜けて崩れ落ちそうになっている姿です。もちろんその手の釘跡に指を入れようとはしていません。「本当にあなたなのですか。」自分よりも背の高いイエス・キリストの肩に自分の手をかけ、下から覗き込むようにして、イエス・キリストの顔を見つめています。その問いかけから、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白までを、ひとつの姿で描ききっている素晴らしい彫像です。がっしりとトマスを支えているイエス・キリストの手の中にはきっと痛ましい釘跡があるのでしょう。

(6)未来の教会の代表

 イエス・キリストは、トマスの求めを受けとめつつ、それを超える大きな愛でもって、トマスを変えられたのです。
 箴言にこういう言葉があります。「自分の心に依り頼む者は愚かだ。知恵によって歩む人は救われる」(箴言28:26)。
 この「知恵」は「信仰」と言い換えてもいいでしょう。自分が、自分がという思いでいるところでは、かえって前に進むことができない。そこに突破口となる知恵、信仰が与えられる。それによって歩む人こそ幸いであると思います。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、イエス・キリストは言われました。
 トマスの「わたしの主、わたしの神よ」という告白を受けて、イエス・キリストは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)と結んでおられます。確かにトマスが信じたのは、見たことをきっかけにしていますが、「わたしの主、わたしの神よ」とまで言うことができたのは、むしろイエス・キリストの見えない力に信頼したからではないでしょうか。ヨハネ福音書の本文は、ここで終わろうとしています(21章は後代の付加)。この時のトマスの「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白はヨハネ福音書のクライマックスであると言えるでしょう。そしてこの言葉は、後のキリスト教会の信仰告白になっていきます。
 最初のイースターの日におらず、1週間後に姿を現すトマスは、イエス・キリストを知らない、後の信徒たちの象徴であると言われます。未来の教会の代表者です。最初の時はいなかったけれども、後になってイエス・キリストに出会った。その中に私たちもまた連なっています。
 「ディディモと呼ばれるトマス」(24節)とあります。ディディモというのは双子という意味です。ある人は、「トマスの双子の兄弟は、私たち自身だ」と言っております。トマスと同じように、信じるか信じないか、その間をさ迷っているような私たちに対しても、イエス・キリストは向こうからまっすぐに近寄って来てくださり、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、声をかけてくださるのです。
 この後、聖餐式に移り、78番を歌います。

「わが主よ、ここに集い
したしくみ顔あおぎ、
わがすべて 主にゆだね
み恵みを待ち望む」
「わが主よ、主のほかには
助けも望みもなし。
ただ主こそわが力、
祈りつつ、求めゆかん」

この信仰告白の歌を歌いながら、私たちも共に進んでいきましょう。


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