聖霊を受けなさい

〜ヨハネ福音書講解説教(77)〜
ヨシュア記1章1〜9節
ヨハネ福音書20章19〜23節
2006年6月4日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)弟子たちの恐れていたもの

 本日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)であります。使徒言行録によりますと、イエス・キリストは復活後、40日間地上にとどまり、天にあげられました。さらにその10日後に、聖霊が降ったということです。
 使徒言行録では、イエス・キリストの復活から聖霊降臨まで、50日間という時間的幅がありましたが、ヨハネ福音書では、復活のイエスの顕現の中にすでに聖霊降臨が語られているようです。復活と聖霊降臨が同時的なのです。
 今日の箇所は、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)と始まります。なぜ彼らはユダヤ人を恐れていたのでしょうか。
 自分たちの先生であるイエス・キリストが捕えられて殺された。勢いに乗っているところで、その一味一党も一網打尽にしてしまえ、となるのではないか。そうなると、自分たちもみんな助からないであろう。もしかすると十字架にかけられるかも知れない。そう思って、じーっと閉じこもって、鍵までかけて隠れていたのです。
 ただ私は、この時の彼らの恐れというのは、それだけではなかったのではないかと思うのです。彼らは、この時すでに、マグダラのマリアから「わたしは主を見ました」(18節)という報告を受けています。弟子たちは、このマリアの話を聞いて、余計に気が動転したのではないでしょうか。
 「主イエスに会った?そんなばかな。確かに主イエスは、十字架で息を引き取られたではないか。もしかしたら、マリアは亡霊に出会ったのではないか。しかし何かただならぬが起こったことは確かなようだ。少なくとも遺体がなくなっていたことは本当らしい。ペトロも、もう一人の弟子もそう言っていた。そう言えば、主イエスは、以前に『自分は復活する』というようなことを言っておられた。もしもそうだとしたら、ここにいる俺たちはどうなるのだろう。みんな主イエスを裏切って逃げてきたのだ。主イエスが現れて『お前たちはよくも、みんな私を裏切って逃げ出したな』とおっしゃるだろうか。ああ恐ろしい。」
 彼らが「家に閉じこもって、鍵をかけていた」というのは、彼らの心をもよくあらわしていると思います。この当時は、家に鍵をかけない方が多かったようです。彼らには大した財産もありませんでしたので、泥棒を恐れて鍵をかけたのではないでしょう。いろんなことが重なって、言いようのない恐れと不安を感じたのでしょう。

(2)真ん中に立って

 そこへイエス・キリストが現れます。鍵までかけているのに、それを越えて入って来られるのです。弟子たちの恐れていたことが起きたのです。「出たあ」という感じです。そこでなんと言われたか。普通であれば、「うらめしや」ですよね。「よくもわたしを見捨てて逃げたな。どうして私を見殺しにした。一生呪ってやる。一生たたってやる。」そういうことではないでしょうか。「イエス様、どうぞ成仏してください。」それが私たちの知っている世界です。
 しかしそこで主イエスが言われたことは、ただ一言、「あなたがたに平和があるように」ということでした。主イエスを見捨て、見殺しにした罪におののいている弟子たちに向かって、「それでもなお、神は共にいてくださる」ということを宣言してくださいました。「あなたがたに平和があるように」という短い言葉は、そういうことなのです。しかも主イエスは、それを弟子たちの真ん中に立って、言われました。
 今日ペンテコステは、教会の誕生を祝う日ですが、そこにこそ、教会の原点があると思わされます。私たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われる。私たちの教会、この交わり、この礼拝の中にも、その真ん中に主イエスが立っておられ、「あなたがたに平和があるように」と告げられるのです。
 私たちもこの弟子たちと同じように、何かを恐れているかも知れません。自分の生活に、自分の心に鍵をかけている。自分で自分を守ろうとする。主イエスでさえも入れようとしないこともあるかも知れません。
 イエス・キリストは、本当は私たちが中から鍵を開けて、入れてくれるように待っておられるのです。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」ヨハネ黙示録3章20節の有名な言葉です。扉の外で、扉を叩きながら、と待っておられる。それはそのとおりであると思います。
 しかし今日の物語は、それを超えています。待つのではなく、否応なく入ってこられるのです。この二つは、一見、矛盾するように見えます。イエス・キリストにとっては、ドアに鍵がかかっていようが、かかっていまいが、実は関係ない。
 もっとも、これは肉体をもたない、幽霊のような体であったという風に読むべきではないでしょう。このすぐあとに、「手とわき腹をお見せになった」とありますが、これはまさに「亡霊ではない」ということを言おうとしているのでしょう。ルカ福音書では、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ24:39)と記されています。

(3)マスターキーを持つ方

 しかしイエス・キリストがどのように入ってこられたかは、書いてありません。聖書は、それが一体物理現象であったかということは、興味をもたない。結局は、どういう風に説明したとしても、私たちの想像を超えたことです。私たちの想像を超えたことがここで起こった。それで十分ではないかと思います。
 鍵をかけているのに入ってこられたということはむしろ、主イエスは、すべての場所、すべての私たちの心のマスターキーを持っておられる、と言うことではないでしょうか。主イエスは、文字通り、私たちのマスター(主人)ですから、どこにでも自由に入ることができます。しかしマスターキーをもっておられるということは、むやみやたらに入り込んでこられるということではありません。マンションの管理人だって、下宿の大家さんだって、マスターキーをもっていても、余程の時でなければ入ってはきませんし、入ってはいけないはずです。緊急事態です。
 私は、この状況は、そうした「余程の時」であったのだと思います。中からしっかり鍵をかけている。誰も入ってこないようにしている。しかしその心の状況をよく知っておられるイエス・キリストが、弟子たちの表面的な気持ちを通り越して入ってこられた。だからこそ入ってくるなり、「あなたがたに平和があるように」と、一番大事なことを告げられたのです。
 イエス・キリストは、十字架におかかりになる前に、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」(ヨハネ14:18)と約束されました。今、その言葉のとおりに、戻ってこられたと言えるでしょう。

(4)主を見て喜んだ

 「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)。これもまた、別れの説教の中の次の言葉にさかのぼるものでありましょう。
 「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16:22)。その約束が今ここに実現しているのです。
 この喜びは、彼ら自身が、自分を閉じ込めていた罪の支配、死の支配、悪魔の支配の中から解放されて、新しい生命に生き始めるようになった喜びでもあります。もはやユダヤ人を恐れて、隠れることもしない。
 このはじけるような喜びに重ね合わせるようにして、イエス・キリストは、再び同じことを言われます。「あなたがたに平和があるように」。リコンファーム(再確認)です。そして、喜びのうちに、弟子たちを使徒として派遣するのです。

(5)第二の創造

 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。そして彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」(22節)。これは、ヨハネ福音書独特の復活物語であり、ヨハネ福音書では、復活と聖霊降臨が同時的だ、と言ったゆえんです。命令するだけではなく、命の息を吹き入れられる。「息」と「聖霊」は、もともと一つでした。旧約聖書の「霊」と言う言葉(ルアッハ)には、「風」という意味があります。
 これを読みながら思い起こすのは、創世記2章に記されている、最初の人間アダムの創造であります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。
 これは、最初の人間だけのことではありません。私たち人間が生きているのはすべて、神様が息を吹き入れてくださったからです。神様が霊、魂を吹き込んでくださったからです。物質からだけ言えば、人間は土と同じでありましょう。私たちがいくら土をこねて人の形を作ってみても、それは人形であって、人間ではありません。生命の主は神様です。
 今、復活のイエス・キリストが弟子たちの前に現れ、まさに死んだようになっている弟子たちに息を吹きかけて生かされた。これはまさにあの第一の創造に匹敵する第二の創造がイエス・キリストによって行われたということではないでしょうか。リクリエーション(再創造)です。
 私たちがクリスチャンとして生きるということは、復活の主から命の息を吹きかけられて、新しく生き始めるということです。私たちは自分で新しくなることはできません。罪の古き自分に死に、新しい命をイエス・キリストからいただくのです。命の息を吹き込み、「聖霊を受けよ」と言われる主によって新しい人間とされ、そして派遣されるのです。

(6)教会への委託

 新しい命にあずかった人間は、じっとしていることができません。もはや鍵をかけて家に閉じこもっていることはできません。世へと押し出されていきます。「イエス・キリストは復活された。そして私たちに命の息を吹き入れられた。この命の主、イエス・キリストにつながろう。そして命の主、イエス・キリストが、望んでおられるような世界を築いていこう。」そのように押し出されていくのです。そこにこそ、ペンテコステの意味があります。ペンテコステは、復活の主のみわざが教会を通して、始まったことを祝うものであります。
 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。この「あなたがた」というのは特定の誰かということではなく、弟子集団、つまり教会を指していると思います。教会にはそれだけ大きな責任がある、教会はそれだけ大きなことを神様から委託されている。そのことを、私たちは心して聞かなければならないでしょう。
 神様があがめられるようになるかどうか、神様が神様として立てられるかどうか、それはひとえに教会にかかっているということです。イエス・キリストの御業、イエス・キリストによって示された神様の御業は教会を通して明らかになるということです。
 しかしそのことは、教会が人を赦したり、裁いたりすることができるということではありません。そこを私たちは誤解してはならないし、間違って傲慢になってはならない。教会はあくまで、神ご自身による赦しと裁きを告げ知らせる役割を担っている。それ以上でもないし、それ以下でもない。だから畏れと謙遜さをもってその務めにあたらなければなりませんし、逆に逃げてもならない。
 教会がその務めを正しく果たしているかどうかが、いつも神様から問われている。教会が御心に沿わないことをしているらならば、その責任は御心を知らない人よりも大きいということになるでしょう。
 しかし、主イエスは弟子たちを祝福して送り出してくださったように、私たちも祝福して、この世へと送り出してくださいます。不安はあります。罪もあります。しかしその罪もイエス・キリストが担い、お赦しになられる。その恵みを私たち自身がしっかりと受けとめ、またそのことをイエス・キリストの権威で、告げて行かなければならない。大きな使命です。

(7)ヨシュア、そして私たちと共に

 イスラエルの民を導くモーセの後継者として、ヨシュアが立てられた時、ヨシュアはきっと大きな不安の中にあったことでしょう。「どう考えても自分はモーセのような大指導者ではない。」しかし、人間的器の比較ではないのです。神様がヨシュアを立て、力強い言葉をもって送り出された。そのことが一番大事なことです。

「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はいないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、雄々しくあれ。」「うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア1:5、6、9)。

 この神が、イエス・キリストを通して、弟子たちと共にあり、この力強い言葉が、イエス・キリストの口を通して、弟子たちにも与えられたのです。そして同じ言葉が、私たち一人一人に、そして私たちの教会にも与えられているのです。


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