思い出を超えて

〜ヨハネ福音書講解説教(76)〜
イザヤ書65章17〜19節
ヨハネ福音書20章11〜18節
2006年5月14日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)泣き続けるマリア

 私たちはイースターの日に、ヨハネ福音書20章1〜10節に記された復活物語を読みましたが、今日の11〜18節はその続き、後半部分であります。イエス・キリストの復活の記事は大体二通りに分けられます。ひとつは「お墓に行ったけれども、イエス・キリストの遺体がなかった」という客観的事件、もうひとつは「復活されたイエス・キリストが弟子たちの前に姿をお見せになった」という報告です。ヨハネ福音書の記事は、その二つのこと、客観的事件と復活の主イエスとの出会いとが織り成されて一つの形で報告されています。
 安息日が終わって日曜日の朝早く、マグダラのマリアは、イエス・キリストのお墓に行きました。マリアは主イエスのお墓の墓石が取り除けてあるのを見ると、急いで、ペトロともう一人の弟子のところへ、それを知らせに行きました。それを聞いたペトロともう一人の弟子が急いで墓に行ったというのが、前回読んだ前半でした。
 この二人が家に帰って行った後、マグダラのマリアはいつのまにか再び墓の前にいます。とんぼがえりでお墓に戻ってきたのでしょう。だとすれば、一往復半したことになります。走っても片道20分はかかる距離であったようですので、1時間以上も、歩き、走ったのでしょうか。
 二人の弟子は、イエス・キリストが復活されたということを、半信半疑ではありましたが、とにかく信じて家に帰って行きましたが、マグダラのマリアは、いつまでも墓の外に立って泣いています。イエス・キリストの死を悲しみつつ、なおあきらめきれないで一人泣いているのです。マリアはイエス・キリストの「体」がないことにこだわり続け、考え続け、そこから前に進むことができません。彼女は家に帰らない。家に帰ったとしても、彼女の悲しさと寂しさを慰められる人は誰もいません。
マリアは身をかがめてお墓の中を覗き込みました。「泣きながら、身をかがめて墓の中を見ると」(11節)とあります。ペトロともう一人の弟子に知らせに行く前もきっとそうしたのでしょう(1節)。彼らが帰った後、再び中を覗き込みます。納得がいかず、何度もそうしたことでしょう。

(2)「もう泣かなくてよい」

 その時、イエスの遺体の置いてあった場所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。彼らは「婦人よ、なぜ泣いているのか」(13節)と声をかけました。
 マリアはこの問いに、そのまま答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません」(13節)。天使は、イエスの遺体が無くなっていることは知っているはず、そのためにマリアが泣いていることも知っているはずです。それでいて尋ねるのは、もっと深い意味があるのです。それは、「あなたはもう泣かなくていいのだよ」ということを悟らせようとしているのです。マリアに対するやさしい思いやりでもあり、彼女をゆさぶる言葉でもあります。
 この問いの意味を悟らないマリアに対して、今度はイエス・キリスト自身が近寄って来られました、彼女も後ろを振り返り、誰かが自分の後ろに立っているのを認めるのですが、それが誰か分からない。泣いている顔を見られたくなかったのかも知れません。ちらりと見て、すぐにお墓の方へ目をやるのです。イエス・キリストはマリアに語りかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」(15節)。これは天使の言葉と同じです。彼女はそれでもまだ気づかないので、さらに「だれを探しているのか」(15節)と問われます。「あなたの探している者はここにいる」ということなのです。

(3)イエスの遺体を求めるマリア

 マリアはそれでもまだ主イエスだとわかりません。園丁だと思って、こう答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります」(15節)。
 ここでマリアが求めているものが何であるかがはっきりします。マリアはイエス・キリストの「遺体」を求めていたのです。それはマリアが自由に取り扱うことのできる「物」です。マリアは自分が処理することのできる「物」を求めている。「わたしが引き取ります。」その意識にとらわれているので、すぐ後ろを振り返っても、声をかけられても、気がつかないのです。イエス・キリストが復活されて生きておられるということは、彼女の意識にはありません。
 確かにマリアをお墓へと一目散に駆けつけさせ、いつまでも墓の前にとどまらせたものはイエス・キリストへの愛情であり、こだわりでした。しかしそのイエスは過去のイエス・キリストであり、思い出のイエス・キリストです。あの時、自分を救ってくれた。あの時、自分の体から7つの悪霊を追い出してくれた(ルカ8:2参照)。過去の思い出が彼女を支えているのです。そしてその思い出を大事にし、自分の命のある限り、イエスの墓を守り続けたいと思っていたかも知れません。
 (今、流行のダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』では、「イエス・キリストは、このマグダラのマリアと結婚して子ども生んだ」ということになっていますが、そういうことは聖書には記されていません。後にそういう物語・伝説も生まれましたが、全く根拠はありません。むしろそれほどまでにイエス・キリストのことを思った女性という風にお考えくださればよいのではないでしょうか。)
 彼女はイエスの思い出に生き続けている。その過去のイエスへのこだわりが、逆に復活して今生きておられるイエス・キリストと出会うことを妨げているのです。

(4)思い出、知識という妨げ

 これは私たちにもあることではないでしょうか。もしかすると、私たちもまたこのマリアと同じように、過去のイエス・キリスト、自分の知っているイエス・キリストに固執していないでしょうか。「あの時、イエス・キリストに出会った。」すばらしいことです。しかし信仰とはそれだけではありません。相手は生きているのです。生きていれば、その関係も変わってきます。「昔、教会学校に通った。その時、歌った歌が今も自分の心にある。ふと教会を訪ねてみると、今も同じ歌が歌われている。感動した。タイムスリップしたように、昔の自分がよみがえってきた。」それはそれでいいことであります。しかし信仰とは、過去に立ち返ることだけではない。「随分ごぶさたしているうちに、教会も随分変わりましたね。讃美歌も変わりましたね。」当然です。生きているのですから。
 私たちは「キリスト教とはこういうもの」、「イエス・キリストとはこういうお方」、「教会とはこういうところ」、そういう風に、こじんまりと、自分なりにわかってしまっていないでしょうか。もしもわかってしまっているとすれば、それは過去のキリストであり、死んだキリストではないでしょうか。私たちの手の内にある、私たちが引き取ることができる、私たちが処理できるキリストではないでしょうか。
 ところが聖書は、「イエスはもうそこにはおられない。もうお墓の中におられない」と告げるのです。私たちは死んだイエス・キリスト、過去のイエス・キリストから、生ける命のイエス・キリストへと、向き直らなければなりません。

(5)「マリア」「ラボニ」

 マグダラのマリアは自分の思っている方向にしか、答を見出そうとしないので、いつまで経っても復活の主がわかりません。このすれ違いの問答に、イエス・キリストの方から突破口を開かれます。主イエスは「婦人よ」という一般名詞ではなく、「マリア」と名指しで呼ばれるのです。この瞬間、彼女ははっとしました。
 自分が探していたのとは違うところに、しかもすぐそばにイエス・キリストはちゃんといてくださったのです。彼女は「マリア」という呼びかけに対して、「ラボニ」と答えました。これは「私の先生」という意味です。「ラビ」という言葉を、もっと親しくした言い方です。「マリア」「ラボニ」。これまで何度も呼び交わされた言葉であったのでしょう。彼女にとっては「婦人よ」という呼びかけと「マリア」という呼びかけの差は決定的でありました。
 イエス・キリストは、私たちを十把一絡げに呼ばれません。私たちの名前をみんな知っておられて、かけがえのない人格として、名前で呼ばれるのです。イエス・キリストは、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。羊はその声を聞き知っているので、ついて行く」(ヨハネ10:3、4)と言われました。彼女はその声を聞いていてもまだわかりませんでしたが、自分の名を呼ぶ声に、はっとしたのです。

(6)「すがりつくのはよしなさい」

 マリアは、なつかしさとうれしさのあまり、イエス・キリストにすがりつこうとしました。そのマリアに対し、今度はイエス・キリストが「わたしにすがりつくのはよしなさい」(17節)といさめられます。「まだ父のもとへ上っていないのだから。」そして一つの命令を出されます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。イエス・キリストからマリアへ託された大事な伝言でありました。マグダラのマリアは、弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と証言をし、そして主から言われたことを伝えました。
 さて、先ほどのイエス・キリストの「わたしにすがりつくのはよしなさい」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。「まだ父のもとへ上っていないのだから」という言葉が、それを説明しているようですが、私はどうも、それだけではないように思います。これはいわば、マリアに対する説明であって、マリアにすがりつくのをやめさせる言葉として、そう語られたのではないかと思うのです。
 イエス・キリストは、この後、弟子たちの前に現れ、その時にいなかったトマスのために、再び姿を現されることになります(ヨハネ20:24〜29)。そしてこのトマスに対しては、マリアに対してとは、まるで反対のことをおっしゃるのです。「自分の手で触ってみろ。この釘跡に、お前の指を差し込んでみろ。」マリアに対しては、「触るな」と言われたのに、トマスに対しては、「触ってみろ」と言われた。
 このところでも、イエス・キリストは、一人一人違った形で、人格的な触れ合いをなさったということがわかります。このトマスとマリアの違いは一体何であったのでしょうか。再会した時には、誰だって抱き合いたい。(日本人はそうではないかも知れませんが、)そうやって一緒にいるということを確認したいと思うのではないでしょうか。それなのに、このイエス・キリストの、拒絶とも見える態度は何を意味しているのでしょうか。私は、マリアに対して、いつまでも過去の関係、過去の「マリア」「ラボニ」という関係に寄りかかっていてはいけないということを、伝えようとされたのではないかと思うのです。

(7)過去から未来へ

 復活というのはなつかしい過去がそのままよみがえって思い出される、ということではありません。もう1回、昔の関係に戻れるということではありません。そこには一つの断絶があります。復活とは、過去と断絶して、新しい方向転換を示すことです。過去に向いていた私たちの目が、大きく未来へと方向転換させられることです。古いものがもう一度出てくるということではなくて、古いものが新しくされるということです。それが復活です。将来に向けられた新しい命の始まりを意味しております。
 教会もそうではないでしょうか。教会が過去にこだわり続ける時、復活のイエス・キリストに出会い損ねることがあるかも知れません。復活のイエス・キリストを見失うことがあるかも知れません。私たちが過去の思い出や人間的ななつかしさにより頼んで、それによって結びつこうとする時に、教会は復活の主を見失うことがあるかも知れません。私たちが自分の知っているイエス・キリストにこだわり続ける時、それはイエス・キリストの死体であるかも知れません。私たちが過去にこだわって見ているところには、主はおられないのです。振り返ったところから、召し出される。この復活の呼びかけに応えて、私たちも新しく生き始めましょう。
 先ほど読んでいただきましたイザヤ書65章には、こう記されています。

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。
それはだれの心にも上ることはない。
代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。
わたしは創造する。
見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する」(17〜18節)。

 神様が新たなことを始められる。それは誰も見たことも聞いたこともないような出来事、天地創造に匹敵する出来事です。その時、そこでは、もう誰も過去に生きる必要はないのです。思い出すことすらないというのです。イエス・キリストの復活こそ、それに匹敵する出来事でしょう。「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」(19節)のです。
 今日は母の日です。それぞれ、お母さんの思い出をお持ちのことであろうと思います。母の日は、それぞれのお母様に、感謝を新たにする時であります。「お母さんから信仰をいただいた」という方もあるでしょう。しかしそのお母さんからいただいた信仰、お母さんからいただいた恵みを心に留めながら、その向こうにおられる神様へと目を向けて、歩みたいと思います。


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