恵みの命令

〜ヨハネ福音書講解説教(81)〜
詩編116編1〜9節
ヨハネ福音書21章15〜23節
2006年9月17日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)最上の愛

 4年余りにわたって、読み続けてまいりましたヨハネ福音書も、いよいよ今日で終わることになりました。もっともヨハネ福音書の元来の著者による部分は、すでに20章で終わっており、この21章は、後代の付加であろうと言われています。21章の前半は、ペトロを初めとするイエス・キリストの弟子たちが故郷のガリラヤへ帰り、漁をする話でした。イエス・キリストがかつてなされたように大漁を導いてくださったのでした。漁の後、岸辺でイエス・キリストが火を起こして弟子たちを待ち、朝の食事を整えてくださいました。
 今日の15節以下は、その食事の後の話として記されていますが、ペトロ以外の弟子は場面から退き、イエス・キリストとペトロ、この二人だけにスポットライトが当てられています。
 イエス・キリストは、ペトロに尋ねられました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。「この人たち以上に」という言葉に、違和感を覚えられる方もあるでしょう。「イエス様は、人と愛の比較をされるのだろうか」。「この人たち以上に」というのは、「これらのこと以上に」とも訳せるものです。英語で言えば、"more than these"です。 "Do you love me more than these?"と聞かれたのです。these というのは、「これらのこと」、つまりこの前の食事と取ることもできます。どちらにしても内容的には、「すべてに優って」ということかと思います。ペトロに対して、最上の愛を求められたのです。

(2)三度も同じことを聞く

 ペトロは答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」(15節)。このペトロの返事に基づいて、イエス・キリストは、「わたしの小羊を飼いなさい」(15節)と命じられました。
 しばらくして、イエス・キリストは再び尋ねられます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(16節)。ペトロは、再び同じ答えをします。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」(16節)。イエス・キリストは、再び命じられます。「わたしの羊の世話をしなさい」(16節)
 またしばらくしてから、イエス・キリストは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と、尋ねられました。ヨハネは、イエス・キリストが三回も同じことを尋ねてこられたので、悲しくなりました。
 普通は二回までではないでしょうか。コンピューターの暗証番号でも、「確認のため、もう一度入力してください」とよく出てきますが、三回はありません。
 もっともお年寄りとお話をしていると、時々、こういうことがあります。「また同じことを聞いてる。」話が堂々巡りします。「さっき答えたばっかりなのに。何回も同じことを聞いて。おじいちゃん、もうこれで三回目よ。」
 今日は、敬老の日です。皆さん、何回、同じことを聞かれても、優しく答えてあげてくださいね。また今日の敬老のお祝いのために来てくださった方々、皆さんは、大丈夫でしょうか。
 イエス・キリストが三回も同じことを尋ねられたというのは、もちろん、イエス様も年を取られたということではありません。ペトロが悲しくなったというのも、「イエス様のことを心配して、ということではありません。
 ペトロは、はっきりこう答えました。
「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(17節)。そして、イエス・キリストも、ペトロにはっきりと命令されます。「わたしの羊を飼いなさい」(17節)。

(3)三度の否認を赦すため

 それにしても、なぜ三回も同じことを聞かれたのか。それは恐らく多くの人が指摘するように、ペトロが三度、「イエス・キリストを知らない」と否定したことと関係があるのでしょう。ペトロとイエス・キリストは、主イエスが十字架にかかられる前夜、こんな会話をいたしました。

「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます』」(ヨハネ13:36〜37)。

 この時、ペトロは随分、威勢のいいことを言いましたが、イエス・キリストは、こう釘を刺されます。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(同38節)。
 そしてペトロは、事実イエス・キリストが逮捕された時、あの勇ましさもどこへやら、主イエスの予言どおりになってしまうのです。ペトロは十字架の日の明け方、鶏が鳴いた時に、そのことを思い知らされたのでした(ヨハネ18:27)。
 恐らくペトロにとっては、この出来事はずっと心に引っかかっていたのではないでしょうか。「自分は、イエス様にあわせる顔がない。一番大事な時に、一番イエス様に寄り添うことが必要であった時に、『そんな人は知らない』と言ってしまった。しかも一回だけではなく、三回もだから、言い訳はできない。」
 イエス・キリストは、そんなペトロの気持ちを思いやって、三回、ペトロに「私はあなたを愛しています」と言わせたのではないでしょうか。一回ごとに、ペトロがイエス・キリストを否定したことを取り除くようにして赦し、そして三回、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられる。これは、恵みの命令です。いったん挫折し、もう弟子と呼ばれる資格がなくなったような者をさえ、もう一度立たせて、遣わされるのです。この時に「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」(13:36)と言われたことの意味がはっきりしてきます。
 ペトロは、その後、初代教会の指導者として、立派にその役割を果たしていくことになります。教会は、そこから大きく成長していくのです。その様子については、使徒言行録に詳しく記されています(2〜5、10〜12章)。

(4)ペトロの殉教

 さらにイエス・キリストは、ペトロに、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)と言われました。
 (この言葉も、敬老の日に読みますと、何か違った意味に聞こえかねませんね。「年を取ると、服も他人に着せてもらうようになり、行きたくない住まいへ連れて行かれる。」ちらっと、そういうことを考えてしまいましたが、もちろん、そんなことではありません。)
 21章の筆者は「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)という説明を加えています。
 ペトロは初代教会の基礎を築いた後、殉教をしたと伝えられています。21章の筆者が、この言葉を書いた時、ペトロはすでに殉教していたのでしょう。ペトロもイエス・キリストと同じように十字架にかけられたと言われています。しかも彼は、聖書外伝の『ペトロ行伝』によれば、自ら希望して、頭が下で、足が上になるように、逆さはりつけになったと伝えられています。
 このように話してから、イエス・キリストは、ペトロにもう一度、「わたしに従いなさい」(19節)と言われるのです。恵みの命令です。私たちは、繰り返しイエス・キリストに召しだされ、繰り返し従う決心をするのです。

(5)主の愛する弟子のこと

 その後、別の話が始まります。ペトロがその答えを聞いた後、彼が振り返れば、そこに愛する弟子、すなわち恐らくヨハネであろう人物が目に留まりました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)と尋ねました。私たちは主イエスの招きに応え、それに従うのですが、どうも人のことが気になります。「自分は、年をとると、行きたくないところへ連れて行かれるそうだけれども、彼は一体、どうなのか。自分だけ、そういう目に遭うのか」。この二人は筆頭格の弟子で、ある意味でよきライバルのような弟子であったかと思います。ヨハネ福音書は、そのような書き方をします。
 そのようなペトロの問いに対して、イエス・キリストは、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)と言われました。非常にまわりくどい言い方ですね。この言葉から、「この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間で広まった」(23節)とあります。さらに、この21章の筆者は、「しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」と、くどい程に説明するのです。
 恐らく、この21章が書かれた当時の状況として、第一に「ペトロは殉教した。しかし愛する弟子と呼ばれた人は、殉教はせず、長生きした」ということがあったのでしょう。第二の状況は、その愛する弟子も長生きはしたけれども、やがては死んだということでしょう。そこで「イエス様は、『死なない』とは言われませんでしたよ」ということを伝えようとしているのだと思います。

(6)人は人、あなたはあなた

 私たちがこの言葉を読む時に心に留めるべきことは、イエス・キリストの召し出し方です。「あなたは、わたしに従いなさい」(22節)。「人は人、あなたはあなた」ということです。ペトロが、この答えを聞いて、どう反応したかは書いてありません。しかしこの問いは、いつも繰り返し、繰り返し、私たちの心にのぼってくるものです。それは、ペトロの好奇心を表していると同時に、この福音書が書かれた当時の人々の好奇心をも表しています。そして、私たちの好奇心にも通じるものです。
 イエス・キリストへの従い方、宣教の仕方というものは、それぞれに異なっております。その生涯の歩み方もそれぞれに違っております。ペトロのように殉教のような形で生涯を閉じる人もありますし、「愛する弟子」のように長生きをして、長い間イエス様に仕える人もあります。それは、神様が私たちのために備えられることであります。
 牧師の中にも、いろんな牧師があります。貧しい生涯を生き抜く牧師もいますし、いわば、この世的に「成功する」牧師もいます。そして牧師といえども、どうも他の牧師のことが気になることがあります。
 現場の教会の牧師を辞めて、大学の教師になる人もあります。この世的には、どうもその方が成功したかのように見えます。(日本では、その方が社会的評価が高いからです。)もちろん神学校の教師、中学高校の教師になる人もいます。しかしこれは、どちらがいいか、どちらが正しいか、ということではありません。それぞれの仕方で召し出され、それぞれの仕方で従っていく。それでいいのです。
「主よ、この人はどうなるのですか。」この世的に成功し、輝けば輝く程、「どうなってるの。イエス様の生き方と随分、違うね」という素朴な問いが出てくる。しかしそのような問いに対して、主はこう答えられるのです。
「人は人、あなたはあなた。人のことは気にするな。」「あなたは誰にも増して、そして何にも増して、私を愛するか。」「あなたは、あなたの仕方で、真っ直ぐに私に従ってきなさい。」私たちは、その呼び声に、「はい」と答えて従って行くかどうかが問われているのです。
 このことは牧師だけのことではないでしょう。クリスチャン一人一人も同じことがあるのではないでしょうか。清貧に生き抜く信仰者もいますし、社会的に成功し、名声を得る人もいます。しかしながらそうした人が、その地位にいるからこそできる大きな働きをすることもしばしばあります。神様の人の用い方の不思議さというのを思わざるを得ません。

(7)わたしは主を愛する

 今日は詩編116編を読んでいただきました。

「わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き
わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。」
(詩編116:1〜2)

 いろんな言葉が聞こえてくる。そして私自身の中にも、いろんな問いが出てくる。しかし私の嘆き祈る声を主は聞いてくださる。だから私は、この主を呼び求めよう。そういう詩編の詩人の信仰が、ここにあらわれていると思います。
先ほど、『讃美歌第一編』526番を歌いました。

「主よ、わが主よ、愛の主よ
主はわが身の救い主
かくまで主を愛するは
今日はじめの心地して」

 イエス様の愛に応えて、私も主を愛する。このように愛するのは、今日初めてのような気がしてならない。いつも新しく、主は私を召してくださる。そして「あなたは私を愛するか」と問いかけられる。その声に「はい」と答え、従っていきたいと思います。命の続く限り、生涯、この主イエスの愛に応える道を歩んでまいりましょう。


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