喜びをもって

〜フィリピ書による説教(1)〜
詩編30編6〜6節
フィリピの信徒への手紙1章1〜11節
2007年4月29日
経堂緑岡教会  牧師  松本 敏之


(1)思い出の町、フィリピ

 パウロは、獄中からフィリピの教会の人々に宛てて手紙を書きました。フィリピの教会は、パウロにとって特別な思い入れのある教会でありました。フィリピはギリシアの北部マケドニア州にあり、パウロが第二次伝道旅行で訪れた町であります。使徒言行録にこう記されています。

 「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。……。わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直行し、翌日ネアポリスの港に着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。……ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして彼女も家族の者も洗礼を受けた」(使徒16:9〜15)。

 パウロは、このリディアという人の家に滞在し、伝道活動をしたのでした。
パウロは、フィリピでも投獄されたことがありました。その時、真夜中に地震があって、牢屋の扉が開いてしまいます。看守は囚人が逃げてしまったと思い込み、自殺しようとしました。しかしパウロは「自分たちはここにいる。早まるな」と、それを止めました。看守は、パウロとその一行の態度に感動し、「先生方、救われるためにはどのようにすべきでしょうか」と尋ねます。パウロは、ここで有名な言葉を語ります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)。彼はその言葉に従いました。そのようにして、フィリピの教会の基ができていったのです。ですから、パウロにとってもなつかしい町です。思い出がぎっしり詰まっている。

(2)愛情に満ちた手紙

 パウロは、愛情をもって、この手紙を書きました。パウロはローマの教会に宛てても手紙を書きましたし、コリントの教会に宛てても手紙を書きました。それぞれに重要な、そして大きなものです。
 ローマの信徒への手紙は、全体がひとつの神学論文のようであります。彼は、この時まだローマへ行ったことがなく、これから行こうとしている。そのような時に、事前に、福音の中心について自分がどのように考えているかを述べたような手紙です。重々しく、少し身構えたところがあります。
 コリントの教会は多くの問題を抱えていました。分裂があり、信仰から離れていっている人もいる。それを無視できず、やむにやまれずこれを書きました。「福音に立ち返りなさい」と叱責するような手紙です。
 フィリピの信徒への手紙は、それらに比べれば小さなものですが、パウロの愛情と喜びに満ちあふれた手紙です。
 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(1:3〜4節)。
 こう書きながら、パウロは多くの人々の顔を思い起こしていたことでしょう。具体的な名前は、他の手紙に比べると、あまり出てきません。恐らく知っている人の名前を出すまでもなく、信頼関係ができあがっていたからでしょう。あるいは、特定の人の名前を出して挨拶をすると、かえって他の人々が「どうして自分の名前が出ていないのだ」とひがんだからかも知れません。

(3)喜びと感謝の手紙

 さてパウロは、ここで「いつも喜びをもって祈っています」と書きます。「喜びをもって」。これが、この手紙を貫くトーンです。この手紙には、何度も何度も「喜び」という言葉が出てきます。喜びに満ちあふれている。この時のパウロは、客観的に言って、とても素直に喜ぶことができる状況にあったわけではありませんでした。獄中にいるのです。パウロが、この手紙をどこの牢屋から書いたのかは、よくわかりません。従来はローマと言われていましたが、最近ではエフェソという説、カイサリアという説もあります。いずれにしろ身柄を拘束され、自由がない状況です。フィリピの人々のように親しい相手であれば、いかに自分が苦しい状況にあるかを訴えてもよさそうですが、それらを超越したように、喜びと感謝を語るのです。それはどんな状況にあっても、キリストが共におられることを知っていたからでありましょう。
 「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」という信仰のとおりであります(詩編23:4)。
 私たちは、今日からこのフィリピの信徒への手紙を読んでいくことになりますが、この手紙を通して、何よりもパウロの喜びの秘訣を学び取りたいと思うのです。逆境にあっても喜んで生きることができる。死を目前にしても、それを恐れない。どうしてなのか。もちろん信仰のゆえでありますが、その信仰をパウロから学んでいきましょう。
 パウロはこの時、フィリピの教会の人々に感謝すべきことがありました。フィリピの教会はパウロの伝道活動を経済的に支援していたのです。フィリピの教会の人々はエパフロディトという代表を送って、贈り物を持たせました。エパフロディトはしばらくパウロのもとに滞在しましたが、病気になり、フィリピに帰ることになった。その時にエパフロディトに託したのが、このフィリピの信徒への手紙であります。
 しかしパウロは、フィリピの人々に、直接感謝するというよりは(もちろんそれは当然のこととしているわけですが)、彼らをそのような信仰者に育ててくださった神様に感謝を捧げるのです。「あなたがたを思い起こす度に、わたしの神に感謝し(ています)」(3節)。

(4)キリストと共なる歩み

 「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。
 最初の日とは、パウロがフィリピで伝道していた頃のことでしょう。信仰生活をずっと続けるのは、そう当たり前のことではありません。だんだんと道を逸れていき、教会から離れていってしまうこともしばしばあります。人がある事柄にずっとかかわり続けるというのは、なかなか難しいことです。学者であれば、生涯、ある事柄を研究し続けるということはあるでしょう。それで食べていっているようなものですから。
 しかし趣味となると、なかなかそうはいきません。飽きてしまい、また別のものに熱中する、というのが多いのではないでしょうか。信仰生活というのも、そういうレベルで受け止める人もあるかも知れません。「聖書はなかなかいいことを言っている。何かそこから学びたい。」しかしそれだけだと、興味がなくなれば、自分で見切りをつけて「卒業」していくということもあるでしょう。
 私たちを信仰生活にとどまらせるものは、そのようなこちら側の興味というのではないのです。むしろ、その興味をも含めて、それを促す福音というものが根底にある。そこに神様がおられ、イエス・キリストがおられる。神様、イエス・キリストとの共なる歩みなのです。
 こちらの側の信仰というレベルで言えば、確かに波がある。熱心な時もあるけれども、少しペースがおちることもあります。しかし最初の日に、信仰に導いてくださった方が、終わりの日には、それを完成してくださるという信仰が大事であろうと思います。
 パウロも、フィリピの人々について、そのような信仰をもっているのです。
 「あなたがたの中で善い業を始められた方が(過去)、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると(将来)、わたしは確信しています」(6節)。
 この「善い業」というのは、経済的援助などを含んでいるでしょうが、単なる慈善事業ではありません。支援している人たち自身がそれによって、喜びに満たされること、すなわちパウロの言葉で言えば、「福音にあずかる」のです。

(5)パウロの祈り

 パウロは、ここで再び、自分がどんなにフィリピの人々のことを思っているかを語ります。

 「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは当然です。というのは、監禁されているときも(パウロは今まさに監禁されています)、福音を弁明し立証するときも(パウロは何度も宗教裁判の場で、イエス・キリストを証しする立場に立たされました)、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」(7〜8節)。

 この思いを何とかして、フィリピの人に伝えようとしている。私はここに教会があると思います。パウロは、たとえ一人であっても、祈りにおいて、フィリピの教会の人々とつながっているのです。
 パウロは一体、どんな祈りをしていたのか。それが、この後に記されています。
 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(9節)。
 自分の置かれている困難な状況はさておいて、フィリピの人たちが信仰において成長することができるように、と祈るのです。この祈りはとても興味深い祈りです。

(6)本当に重要なことを見分ける

 「知る力と見抜く力を身に着ける」。洞察力と観察力。その目的は、「本当に重要なことを見分けられるように」ということ。これは、今日の世界に生きる私たちにも、とても重要なことであると思います。今日ほど、多様な価値観が氾濫している時代はないでしょう。そこで、私たちは何が重要であるか、何が重要でないか。あるいは何が私たちに益となるものであり、何が私たちをスポイルする(だめにする)ものであるか。何が危険な考えであり、何が安全なものであるか。何が私たちを真に幸福にするものであり、何がまやかしの表面的なものであるか、あるいはそこにどんな落とし穴があるか。それを見分けなければなりません。一見、よいように見えて、危険なものに満ちあふれています。「キリストの福音」という装いで、近寄ってくる危険思想もあります。「サタンでさえ光の天使を装うのです。だからサタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません」(コリント二11:14)。
 今日の世界でもしばしばそういうことがあるのではないでしょうか。それを見分ける力というのは、祈りによって、神様から与えられるものだとも言えるでしょう。
 刀の鑑定士や、陶器の鑑定士は、本物を見分けるために、何よりも大切にすることは本物を見せ続けることだそうです。偽物というのは、次々に新手の偽物が出てくる。そのすべてに対応することはできない。しかし本物を見せ続け、本物を見続けることによって、目を養い、勘を養う。それよって、「何かこれはあやしいぞ」、とわかるようになるのです。
 私はキリストの福音もそういう面があると思います。聖書の言葉を語っているからと言って、それが必ずしも人を養うものとは限らない。かえって知らず知らずのうちに、人をマインドコントロールしたり、スポイルしたりするものに満ちあふれています。事実、そのような宗教がたくさんある。「聖書にこう書いてある」と言って、自分の考え方や国の考え方を押し付けるということもあります。その時に、「イエス様の言っていることと違うのではないか」というセンス、アンテナを身につける。そのためにも、本物に出会わなければならないのです。

(7)愛を身に着ける

 「知る力と見抜く力を身に着けて」という言葉と「本当に重要なことを見分けられるように」という言葉の間に、「あなたがたの愛がますます豊かになり」という言葉があります。私は、これが隠れた鍵ではないかと思うのです。そこに愛があるかどうか、それこそが本当に重要なことかどうか、それが福音に根ざしたものであるかを見分ける基準にもなるのではないでしょうか。パウロは、有名な愛の賛歌で、こう言っております。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(コリント一13:2)。

(8)信仰の成長

 パウロはその後、さらに三つのことを祈ります。まず「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となる」こと、次に「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受ける」こと、そしてそれらを通して「神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(10〜11節)ということでありました。フィリピの人たちの信仰がそのように育てられるようにと、パウロはとりなしの祈りをしたのでした。ここに教会があります。祈りあう共同体、とりなしをしあう共同体、愛し合う共同体であります。
 パウロは、この手紙の初めに祝福の祈りを置きました。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」(2節)。そのような祈りの中に、パウロの手紙全体が、交わり全体が包み込まれております。
 私たちも、このパウロの手紙に学びながら、教会を建てていきましょう。


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